聴衆の耳を育てること①
学生エバンジェリストアワード2021Autumnにエントリーするにあたって、「ピッチ動画」というものを作成することが挙げられていました。
さあ、どうしよう!?というところからのスタート。
自分が見ている世界、目指す道筋を言語化する作業というのは、かなり苦痛が伴います。ずーっと長い時間身を置いて地道に進んできた道に対して、疑問を投げかけ、違う角度や上から下から練って、再構築していくこと。
自分の音楽人生の根幹を問い直す、もう一度揺さぶって確認する。
正直、かなり辛かった。です。
エントリーするにあたっても、死ぬほど悩みました。
「気軽に…」といっても、クラシック音楽という伝統と積み重なった歴史を持った存在をわたしが背負えるのか、変えなくてはという意識はあっても変わりきれない閉塞感のあるクラシック音楽界にわたしという存在が何をすることができるのか。
目に見えない音楽の芸術分野を発信することの難しさと責任、自分が何をしてきたのか・そしてこれから何をしていくのか。
エントリー前に頭を抱えながら、そしてもやもやとしながら考え続けていました。そして、考えれば考えれば深い沼にハマってしまう、そんな感覚と戦い続けました。
そこで、思い出したのは母のことでした。
実はわたしの母は、プロのヴァイオリニストで「音の旅人®︎」を展開しています。母がドイツに留学していた時、身近だったという「曲目解説をしながら演奏するコンサート」に魅力を感じて、帰国後から音の旅人®︎を通じてレクチャーコンサートを開催する姿をわたしは幼い頃から見続けてきました。一般的に演奏会やコンサートは音楽家は演奏するだけで舞台の上でお話をするということはあまりしません。(最近はライブ配信などでお話しを混ぜながら、コメントを読みながらの形は増えてきたけれど、昔はなかった)
4歳くらいからずっと母の背中を見続けて、演奏会の裏方を手伝ってきたわたしにとって、「レクチャーコンサート」は1番の指針でした。
エントリー締め切りの1週間後、母の「音の旅人®︎」に出演することになっていて、母とリハーサルを重ねていた時、ふと「レクチャーコンサートが生まれた意味」を考えました。
高校時代に母を追って自分なりにコンサートを企画運営していた時、何を思って開催していたのか。また、最近出演したオンラインコンサートの時に何を思いながら演奏とお話をしたのか。
もう一回考えてみたのです。
そこから導き出されたのは「耳を育てる」ということでした。
音楽家は聞いてくださる人がいなければ存在できません。聴いてくれる人がいて音楽家という存在は、そこに存在することができる。しかし、クラシック音楽は難しいやわからない、敷居が高いと敬遠されてしまうことがとても多いです。クラシックなんて聴かない、興味ないと言われてしまえば、音楽家は生きることができません。ならば、音楽家が聴く人の耳を育ててクラシック音楽に目を向けるきっかけを作り出せば良いではないか、そう思ったのです。
「育てる」は烏滸がましく聞こえるかもしれません。しかし、クラシック音楽にはクラシック音楽なりに創り上げてきた歴史や伝統、重みがあります。敷居を下げるのではなく、私たち音楽家がみている世界に聴衆の皆さんも同じ目線に立って欲しい。そうすれば、一緒にクラシック音楽を楽しめる、さらに次の時代へ発展していくことができる。わたしはこの世界を目指したい、と思いました。
ひとまず、ここまで。
じっくり自分の想いを言語化していきます。
Vielen Dank für die Lektüre!
Bis morgen!