記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

ルックバックを観たら、神々の山嶺と和解できた

今更観ました。ネタバレ注意。

【書き終わってから振り返ったときの主訴】
・色々考える前に、それをするための許しを得たくて色々振り返って考えた
・自分は漫画描いていなくても、きっと同じダメージを受けただろうなという納得をした


はじめに

私は大概飽きっぽいというか、何か新しいことに手を出しては、最初の高原でやめてしまうことが多いタイプだと思う。

そんな私でも、十年単位で続けている趣味がある。漫画(同人誌)を描くことと、山に登ることだ。漫画は今年で十数年、山は二十年くらいは続けているのではなかろうか。あいにく、どちらも極めてるといえたものではないが、これだけコンスタントに続けていることは私にとっては異常なことだ。

さて、一部の同人屋にとっての山場である夏コミを終え、体が原稿から解放された今日この頃である。余裕が出てくると、とたんにしばらく行けていなかった山に無性に登りたくなる。日帰りじゃ駄目で、山で起きて、山で寝る一日がないと嫌だ。しかし何だ最近の天候は。人の休みを無かったことにするように台風が来る。情けないことに、山に行けずに夏が終わろうとしている。

ルックバックの追加上演の話を目にしたのはそんな時だ。この情報化社会にずいぶん流行りに疎いものだが、それは私が新しいコンテンツを「ほとぼりが冷めてからゆっくり摂取しよう…」という変な意地があり、流行りのワードにしばらくミュートをかけているせいだ(割とそのまま忘れる)。どうせ9月の三連休も自分にはない。山に行けないのならと、日中の勤めの後に、報復的に映画館のHPを見ていたら、ちょうどよい時間にご用意がある。今だ。
正直、全く前情報なしだ。読み切りも、すすめられた記憶はあるが、おそらく読んでない。でも話題になっていることはミュートを貫通して聞こえてくる。きっと見応えがあるのであろう。我ながらひどい入り方だと思う。

中略

なんだよ漫画描く話なんだ、早く言ってよもう。私だって下手の横好きで描いてるからね、そういうところでは共感できそうって……おぉう。どうしよこれ。

上映時間が1時間とは思えない、不思議な時間を過ごした。凄い半分、共感半分、そして怖さ半分。150%じゃないか。あれだ、三要素のベン図だ。言葉に困る感情が複雑に絡み、8つの象限を作っている感じ。一言で言うと、もやもやである。とても悲しくなったが、クリエイティブに打ち込む元気が貰える。だけど、観劇後の自分の気持ちに分からない所があるから、怖いとも思った。

しようがないから、ファーストフード店で失った塩分を補充しながら、しばらくぼーっとした。ちょっとおセンチに色々と考えてみたい気分になったからだ。やがて、言語化できそうになってきたので、筆をとってつらつら吐き出してみることにする(いまここ)。

ところで、昔はできなかったが今は、ということが一つある。作品を観たときに、何かを学び取らねばならなかったり、理解しなくてはいけないという強迫観念から解放されたことだ。たとえ不朽の名作であっても、そこから何も分からないことがある。共感できないこともある。反対に、作品の全てにではないが、ごく一部のエッセンスだけに学びや共感があることだってあるだろう。作品を受け取ったときに何を思うのかは、受け手に託されているのであり、作者でもこれは侵すことができない(もちろん、それを発信するときには別の受け取り手に対する最低限の配慮が必要だが)。

つまるところ世間でいう、常識的な批評のマインドのことだが、自分の為にこれは宣言しておかねばならない。これから書くことが全てではないし、きっとこれから考えが変わることもある。今はただ、もやもやした自分の気持ちを知るために、様々ある切り口の中から一つ選んで整理していきたい。その切り口はこの作品を全て見通すような切り口にはならないだろうことは承知されたい。

じゃあ藤野ちゃんはなんで描いてるの?

漫画は本当にいくら描いても描き終わらない。ネーム、下書き、ペン入れ、トーン、etc……普段そこまで作画密度が高くない私も、本当にしんどい気持ちで描いている。締切前は、どうしてこんな地味な苦行をしなくてはならないのかと、自分を呪っている。勤めがある以上、平日は1コマも進めばいい方だし、休日も遊びに行かずにただただ筆を進めるしかない。そんな思いをして一冊出している。専業作家なんてもっと苦しいことだろう。藤野の言う通り、漫画は読むだけにしたほうがいい。描くもんじゃない。じゃあなんで描いているの?

観劇後にいつまでも頭に残り続けたのがこのフレーズである。リアルタイムでは同人屋の自分が「そりゃ描くでしょ」と言っている。自明の理だ。しかしながら、後から考えると、その答えに対して頭の処理が止まってしまう。本作に語りたい部分は多くあれど、この答えを考えると、心がざわつく自分がいる。これは藤野の物語で、それを安易に自分へあてはめる事なんてできるのだろうか。

なぜ苦しい思いをして漫画を描くのか。私自身に問われれば、いくらでもその理由をひねり出すことができるだろう。本として完成させたときの達成感、頒布した後の嬉しいフィードバック、冊数を重ねる毎に自分の描きたいことが描けるようになっていく過程、もはや生活に組み込まれているので描かない発想というものもない。しかし思い返すと、本当にそこまで苦しい思いをして描いているだろうかという気持ちも持ち上がる。結局は全てを漫画に捧げているわけでもないし、本職に影響が出ないように妥協ばかりである。原稿をサボって遊びにいったりもする。

ルックバックは私にとって共感しやすいテーマだが、解像度が高い故に完全には共感しきれない部分がある。私も友達と漫画を見せ合いっこしたし、友達に上手いねとおだてられて気を良くし、絵が上手い奴を見て「やーめた」と思ったこともある。技法書を買って白紙に練習したし、授業を聞かずに落書きをよくしてた。同人活動も、よく考えたら高校の友人二人で始めた。でも、藤野のような狂気が自分にあっただろうか。何かを投げ打ってもそれに注ぎ込む、その最上位互換を観せられ、自分の物語と重ねちゃいけないと考えている私がいる。自分とは違うものを見ているはずなのに、だけれども、なぜか何かを作る元気をもらっている。なんでだろう。このよく分からない状態を理解したいと思った。

そこに山があるから、とは気軽に言えない

考えるきっかけは、割と近くにあった。私は「なぜ漫画を描くのか」と似たフレーズを知っている。かの有名な「なぜ山に登るのか」だ。元となったジョージ・マロリーのインタビューが厳密にその意でないことは目新しくもないうんちくなので、ここではあえて触れない。しかし、登山を趣味にする者にとってこの質問は耳にタコであり、答えに窮したりすることもあるし、最早そんな自明なことを聞くことはナンセンスだと考える者もいるのではないであろうか。

登山もリスクのある趣味であるし、労力も大変なものであり、突き詰めれば位置エネルギーを稼いで解放するだけの仕事が0で無意味な(何なら熱エネルギーは外に放出されてしまう)行為である。だが、登山するものはそれぞれそこに至るまでの文脈があり、それぞれの答えを持っている。その複雑な答えが「そこに山があるから」というのは、非常に含蓄がある返しではないか。

でも、それをエベレストに消えたマロリーと同じ温度感で言えたものだろうか。趣味ではなくライフワークとして真剣に山に向き合っている知り合いなんて沢山いる。自分はそんな真面目に山をやっていない。学生時代だって一年に20日山に入っていたかどうかではないか。考えれば考えるほどメタ認知がぐるぐるして何も言えなくなってしまう。ルックバックを見た私と全く同じ類推ができる。そろそろ、自分より凄い存在を見てフリーズしてしまう問題と向き合うべきだ。

「神々の山嶺」との和解

マロリーとエベレストといえば、思い出されるのは夢枕獏の「神々の山嶺」だ。

羽生丈二。単独登頂家。死なせたパートナーへの罪障感に悩む男。伝説の男が前人未到のエベレスト南西壁冬期無酸素単独登頂に挑む。なぜ人は山に登るのか? 永遠の問に応える畢生の大作!

神々の山嶺 上 (集英社文庫)

谷口ジローの漫画版は小さい頃、誰かの家で読んで「雪山って怖いな」と感じたことを憶えている。一方で、原作小説は学生時代に読んだが、必要以上に風呂敷を広げてとっ散らかったように読めてしまい、なんでこの長さで書く必要があったのかと腑に落ちないまま終わってしまった思い出がある。

実は一番記憶に残っているのは、2022年フランス制作の、谷口版原作のアニメ映画版である。羽生がなぜ自分の山を続けているのか、という一点にフォーカスすることで1時間半という短さに綺麗にまとめてあると感じた。羽生が登頂したかというところはぼかすことで「なぜ山に登るのか」というメッセージ性が強調されている、良い脚色をされた話だと思った。見終わった後、やる気を我慢できずに冬の八ヶ岳に行ったのだが、この話を友人にしたら「普通はあんなの見たら冬山が怖くなるのでは」と眉をひそめられた。しかしながら、私はそんな自分の限界を試すような挑戦的な山をやっているわけでもないし、今思うと結構赤面ものだ。

ともかく、アニメ映画版を見ることで、神々の山嶺はミステリーやサスペンスではなく、人の生き方の話なんだなと心から理解できるようになったので、いずれ小説版をリベンジしたいと考えていた。今じゃん。読んできます。

余談だが、神々の山嶺アニメ映画版はさながら登るメイドインアビスのような雰囲気だな、と思っていたら、メイドインアビス自体が神々の山嶺に影響を受けているとあって、とても腑に落ちるものがあった。メイドインアビスでは戻ってこれない奈落に潜る理由を「あこがれは止められねぇんだ」と言ったりしている。

次の日は仕事だったが、一晩で小説版の神々の山嶺を読み切った。はたして、私が今欲しいことはそこに書いてあった。

羽生のやつが、今、どこにいるか、それはわたしにはわかりませんけどね、ひとつだけ、わかっていることがあります」「何でしょう?」「それはね、あいつが、今、どこにいるにしろ、生きているなら、必ず現役の山屋だろうってことですよ。必ず、山をやっているだろうってね、それだけは確信をもって言えますよ。生きていればね――」「そうですか――」「あいつの中には、こう、うまく言えませんがね、何か、鬼みたいな怖いものが棲んでいて、それが、山をやめさせないでしょう」「――」「あいつに、他の生き方なんて、できませんよ」 そうつぶやいた井上の言葉に、うらやましげな響きがこもっていた。

夢枕獏.神々の山嶺(上)(集英社文庫)

井岡や船島のことだけではない。あの遠征や、これまでにやってきた山との関わりを持った全ての時間、それに費やしたものの量――そういうものとの関係をつなぎとめているのが、今、自分にとっては羽生丈二なのだ。 もし、あのカメラを発見しなければ、もし、羽生丈二と会わなければ、自分は、苦い想いを胸に抱えたまま、ゆっくりと、山とは関係のない生き方を選んでゆくことになったであろう。 時おりは、昔の山仲間と会い、酒は飲むだろう。 時おりは、そこらの山に、ハイキング程度の登山にゆくかもしれない。 しかし、あの、胸がひりひりするような山――頂上を見あげれば、胸が押し潰されてしまいそうになるような思い、そういうものからは別の世界に、自分はゆくことになる。 それは、もう、具体的に、山に登る、登らないというような問題ではない。 たとえ、登らなくとも、街の中にいて、ふいに、切ない想いに胸を締めつけられ、白い岩峰を捜そうとして、ビルの群のむこうの青い空に、山の頂を視線で追ってしまう――そういう場所から、去ってしまうことなのだ。 去りたくない。

夢枕獏.神々の山嶺(上)(集英社文庫)

そうか、神々の山嶺に出てくる男たちは皆、山をやる羽生にどこかうらやましさを感じている。そうはならなかった自分、なれなかった自分を重ねている。それでも主人公の深町は山に関わっていたいという一心で羽生を追いかける。そして羽生という男のやる山に夢中になっていく。そう考えると、意識して深町が女に未練がましく情けない男として描写されているように見えるのは気のせいだろうか。深町は、そうはなれなかったあなたの分身ですよと。今読めば、これだけの文脈を与えるためには、人の人生を書くためには、これだけの文章を重ねる必要があったであろうことが分かる。

羽生には、山しかなかった。羽生のことを調べた深町には、それがわかる。山しかない。ああ――おれにはわかる。深町はそう思った。おれにも、そういう時期は、間違いなくあったのだ。山にのめり込み、それしかないと思い込んだ時期が。きりきりと山に登った。すがるものが山しかなかった。噛みつくようにして山に登った。学生のうちは、それでいい。しかし、卒業をして社会に出れば、いつまで山に登ってるんだという声が、周囲からおこる。山と仕事とどっちが大切なんだ。いいかげんに大人になれ。山にゆくのなら、仕事を持って、休みの日にゆけばいいではないか――と。そうではない。そうではない。仕事をして、金をもらって、休みの日に山へゆく。おれがやりたい山はそういう山ではなかった。そういう山ではないのだ。おれがやりたいのは、うまく言えないが、とにかくそういう山ではないのだ。おれがやりたたかったのは、ひりひりするような山だ。

夢枕獏.神々の山嶺(下)(集英社文庫)

そうして描かれた深町の山への未練を読んでいると、学生の時のような一生懸命さを失った私が、一流の言葉に思いを重ねることも許される気がした。ここに無事神々の山嶺と和解した。なんだ、ルックバックって山の話だったのか(過度な抽象化)。もう大丈夫だ。

待てよ。そもそもだ。山じゃなくたっていい。じゃ、人は、何のために生きているのだ。何のために、毎日働いて、金を稼ぎ、生きている?何故山へ登るのか、という問いは、考えてみたら、何故生きているのかと問う行為と同じじゃないか。
そうさ。 何のために山に登るのかなど、答えられなくたっていいんだ。 それに、答えろというんなら、そいつは、自分自身が、何のために生きているのかと、まず答えなけりゃいけない。 それができないのなら、他人に、そういう難しいことを問うもんじゃない。

夢枕獏.神々の山嶺(下)(集英社文庫)

勝手に許しを得て安心したらどっと疲れた。もう筆を置きたい。

おわりに

「じゃあ藤野ちゃんはなんで描いてるの?」の後に藤野の具体的な答えが無くてよかった。その言葉を思い出した藤野が、何も言わずにスタスタと仕事場に戻って、黙々と描き続けることで、自分の信念を示してくれてよかった。そこに明確な物語がなかったお陰で、私は自分の物語としても受け止めることができた。その余白で、自分が歩めなかった人生を「振り返って」、重ねることを、許された気がする。

そもそも、創作者の葛藤が、創作する事でしか得られないとするのはあまりに心が狭い。それを抽象化したとき、同じように悩んだり、楽しんだり、そういうことがあっても良いと思う。ただ、よく知らない間柄で文脈の複雑な話題にいきなり「わかるわかる私もね」なんてことを話すのは難しいだろう。やはりコミュニケーションで必要なのはリスペクト……。

しかしながら、ここまで作品上のキャラクターにリスペクトを持って語ることができるというのは、そういう人生を歩んだキャラクターがいたのだという説得力があったからだと思う。これを1時間、もしくは1冊という短さで納得させられる技量がすさまじいと感じる。詳細に描き切るというよりは、余地が沢山あることで、読者それぞれの記憶にある文脈を用いて納得させられたのだろうか。

上手な作家は詳細な設定と描写ではなく、いかに読者の共感の記憶を引き出すかで複雑な状況設定を納得させるものだと、どこかで見た気がする。プログラミングで、どっかからライブラリを呼んでくるのと同じかしら。

ともかく、ここまで色々考える余地をもらえた作品は久しぶりで興奮した。しかし一回目の視聴は、京本がいない人生を歩んでいく藤野の背中が悲しすぎて、色々細かいデティールを忘れてしまったので、もう一度観に行こうと思う。次はちゃんと自分と似たような文脈を理解してくれる友人と一緒に。

割と文字数がかさんで疲れました。細かく推敲する元気もないのでここまでとします。

後日談(二回目の視聴)

結局、あのあとすぐ、我慢できず友人(未視聴)を雑に誘って観に行った。急な誘いなのに付き合ってもらってありがたかった。

観終わった後、共通の友人を失くしたかのようにあまりに深いダメージを負い、1時間はぶらぶら公園を散歩し、3軒はしごして7時間飲んでぐだぐだ管を巻いていた。上記の数倍以上の熱量で色々話したが、その内容は私たちだけの秘密ということで。

しかし正直なところ、人と話すことでこのnoteを残す目的は失われた。でも結構な字数をぐだぐだ書いて勿体ない精神もあるので、少し手直して投稿しておこうと思う。乱筆御免。

疲れました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?