【短編小説】溺れるヤママユ

(完読まで15分程度の文量です)

瀬名裕貴はこの瞬間、凄まじい嫉妬心に駆られていた。しかも、同じクラスの藤堂勲に対して、こんなことを感じるわけがないと思っていたのだ。瀬名は藤堂という旧友の存在を心の底で軽んじていた。学校生活の中にひそかに存在する身分階級の中でも、瀬名は藤堂よりも遥かに高みにいるという自負すらあった。しかし、その貴賤の壁を超え、友情というバイアスを無惨に引き裂き、彼は藤堂という存在に痛烈に羨望したのだった。
その引き金を引いたのは、なんの変哲もないありふれた、ただの木片であった。そしてそれを大切そうに藤堂が眺めている姿を思い出した瀬名は、白刃のような鋭い激情によって自身の心臓を抉り取られているような感覚があった。しかしながら、彼はそれをどう捉えていいのかが分からなかった。あまりに鋭すぎる刃で切られたトマトが、しばらくの間その原型を留めているように、これまでの人生でこれほどまで傷ついたことの無かった彼は、その感傷の渦中にいることを瞬時に認識することが難しかった。そして、瀬名は自身のアパートに戻って来た時、初めて彼は自分の中にある歪に膨らんだ嫉妬心にありありと気付いたのだった。

それは長雨の降る9月の終わりのことだった。同じ大学に通う瀬名と藤堂は、週末のささやかな休日を、共通の趣味である映画を共に鑑賞しながら過ごそうと画策していた。そういうとき、彼らはいつも藤堂のアパートに集まるのが常だった。遮音性に優れた藤堂のワンルームには、立体音響装置と吊り下げ式の大きなプロジェクターが存在していた。藤堂は稼いだバイト代を、盲滅法に趣味の映画鑑賞に注いでいた。未だ一度も作品化していないが、8ミリフィルムの古風な撮影機も、彼のアパートのインテリアとして一角をなしていた。
そんな彼のアパートに向かう道中で、瀬名は買い出しをいつも快く引き受けた。普段のようにコンビニでストロング缶やポテチ、ファミチキやカップ麺を買い込んで藤堂の家に向かっていた。ここ最近は連休を狙ったように台風が本州を直撃していて、湿度をたっぷりと含んだ雨空の下を今日も歩くことになった。雨があたかも玉砂利を踏み締めるような激しい音を立てて、瀬名のビニール傘に無秩序に降り注いでいた。
この藤堂のアパートに向かう道を歩いている時、瀬名は少しばかりの郷愁に捕縛されていた。彼には、高校の時から数年間付き合っていた彼女がいた。その彼女と歩いた通学路がこの近くだったのだ。そして、その長い交際関係はほんの数ヶ月前に破綻していたのだ。それを招いたのは他でもない、瀬名自身だった。
雨脚が強くなり、煙幕が炊かれているかのように辺りが白んでいく。彼はその煙るような景色の中に、いつか見た彼女の姿がそこにあるように錯覚した。長い期間恋人として共に過ごしていた高木由奈の姿が、雨に濡れそぼった髪を気にも留めずにこちらをじっと見つめながら佇んでいる幻想を見た気がしたのだ。驚きのあまり目を凝らすとそれは、ただの民家の目隠し用の灌木を見間違えただけだった。彼はそんな幻想を見るほど失恋を引き摺り、その彼女の姿に未だに恋焦がれているのだった。その関係の終わりを招いた事柄が、たとえ自身の過ちのせいであったとしても。

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彼らが交際し始めたのは高校1年の時だった。そしてその関係は、大学3年の夏休み前まで続いた。つまり、6年ほどの期間続いたことになる。その期間中の彼らの愛情は、海原に浮かぶ小さなボートのように、凪いだり時化たりする水面を転覆することなく揺蕩っていた。もちろん愛情が深まる時期もあれば、倦怠期によって喧嘩が多くなる時期もある。そういったあらゆる困難を乗り越えながら、彼らはその航海が素晴らしいものになるように、二人だけの甲板員として尽力して恋愛関係を続けてきた。
転機が訪れたのは、大学3年のときだった。その年に入学してきた新入生の一人が、熱を持った視線を瀬名に送り続けてきたのだ。彼は困惑した。その新入生の瑞々しい感情と、憂いを含んだ瞳が、彼の心の一部を確かに拐かしてしまった。それはあたかも泥濘に脚を取られるように、彼女のことを思わないようにと考えれば考えるほど、それに背反して一日一日と彼の思いは深く沈潜していった。彼女の眩しいと感じるほどの純粋な精神と、肩甲骨の当たりまでストンと伸びた細い髪の毛と、薄い小さな肩を恋しく思う時間が次第に増していった。
そんな状況で、その恋の悩みを相談出来るような恋愛経験をもった人が彼の周りにいなかったのかと聞かれると、決してそんなことは無かった。しかしながら、彼は自身の容姿が人並み外れて整っているという自負があった。他人よりも自分の能力が秀でていることをはっきりと自覚していた彼は、そんな劣等な友人たちの存在をどこかで見下していたのだ。そんな連中に、彼は自身の恋愛の相談をすることは無意味であると決めつけてしまった。しかも、複数の女性を手玉に取るという今の状況に対し、彼は少しばかりの優越を感じていたのだ。それはまさしく、このような贅沢はほかのどの友人にも真似することの出来ない、美しい自分にとっての特権であるという錯覚に陥っていた。そのため、遠巻きに囁かれる羨望の声に対して、彼は愚かにも男としての矜持を肥やしていったのだった。
ちょうど時期を同じくして、彼は高木との恋愛に少しだけ飽き始めていた。繰り返し行われるメールのやりとりも、連日同じような話題ばかりが続いていた。時間とともに氷が溶けて、だんだんと味が薄まっている冷たいドリンクのようだった。彼女と過ごす日々が、彼にとって次第に味気ないものに思えてきていた。
それから、瀬名はその新入生と連絡を取り始めた。最初は簡単なメールの交換だけだった。しかし、それは彼にとってとても新鮮に映った。そしてやりとりを繰り返すうちに彼は気づいた。自分の中に存在する高木への愛情が、他の別の女性にも同様に代用することが可能なのだということに。その発見は、彼に新しい恋への罪悪感を抱くことすらを忘れさせた。彼はこれまでと違う女性に向けて愛を呟くことで、自分の裡に曖昧に存在していた恋愛という感情の充足感が、日に日にましていく感覚があった。自分の溢れんばかりの愛情を二人に分け与えることによって、彼は自分の愛情の深さに感嘆し、次第に満たされていった。人生の絶頂期というものがあるのだとしたら、それは今なのかも知れないと、瀬名は感じていた。
そして、彼とその新入生との交際はエスカレートして、気付いたら後戻りができなくなってしまっていた。一度坂道を転がりだした林檎が、あとは傾斜の分だけ転がり続けていくように、もはや彼らの過ちを途中で止めることは難しかった。いつの間にか、彼は二人の女性を手玉に、言い訳を重ねながら交互に逢瀬を繰り返した。瀬名は彼女である高木を純粋に愛していながらも、その一方では心に出来た束の間の寂しさの中に、新たに別の恋愛を流し込むことで満たしていた。しかも、その特権を自分は有しているのだという風に勘違いをしていた。
斯くして、破綻はあっけなく訪れた。彼の浮気が高木に発覚したのち、最終的にどちらの女性とも関係を断つことになった。複雑にもつれた糸が、どうにもほぐしきれず、もはや全てを断ち切ることでしか解決できないのと同じように。

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長雨の中を傘を差して歩きながら、瀬名は手にした加熱式タバコを吸っていた。湿度を多分に含んだタバコの味は、妙に辛く感じる。にがにがしく煙を吐きながら、ようやく藤堂のアパートまでたどり着いた。軒先に出ていた藤堂が、「おっす」と手を挙げる。藤堂はキツい紙巻きタバコをよく嗜んでいて、その枯れ枝のように細長い右手の人差し指と中指にはいつもロングピースが挟まっていた。そのほのかに甘く煙るタバコの匂いを嗅ぐと、彼は藤堂のアパートに来たんだなという感じがするのだった。
「おっす、今日は何にする予定?」
「最近プライムに良いのがはいったからさ、丁度公開になった洋画の中から興味ありそうなヤツにしよう」
と藤堂が言う。瀬名は「分かった」と言いながら、タバコの味を惜しむように嗜んだ。
藤堂は田舎出身の、快いなまりが残ったイントネーションで会話する癖がある。それは彼の素朴さと清楚さを感じさせたが、同様にそれは童貞のような垢抜けない印象も他人に与えた。実際にも、藤堂はずっと童貞なのだと瀬名は聞いていた。大学生にもなって情けないやつだと思っていた。
「また今日も雨だな」と瀬名は独りごちた。
「まったく嫌になるな」
「つっても、お前はどうせ家に引きこもるだけのくせに、生意気だな」
「ははっ、確かに。でも、雨の日のほうが虫の声も聞こえなくていいさ」
「この前、ひぐらしの声がゲーム画面から出てるのか、それともリアルで鳴いている声なのかが分からないときがあったな」
「あったあった。たまに映画の演出なのか分からなくなる時があって気に食わないよ。あと夜中にこの辺を通る、五月蝿い車とかバイクとかは漏れなく消してやりたいよ」
「はは、その時は俺も参加させてくれ」
「助かる」と藤堂はヤニで汚れた前歯を見せて微笑んだ。
雨に濡れたアスファルトが、街灯の灯りを吸収してヌメヌメと黒光りしていた。瀬名は吸い終わったタバコを、その川の流れのようになっている道路に向かって投げ捨てた。その残滓は、ほかの色に交わらないような白を携えながら、水たまりに沈むことなく浮かんでいた。それはあたかも大海原に転覆し、高波に打たれてバラバラに四散した小さなボートの死骸の破片がゆらゆら揺曳しているようにも見えた。

藤堂の部屋に入るなり、瀬名は買い出ししたものをとりあえずテーブルに拡げたのち、いつもの指定席であるくたびれたクッションに座し、今日見るべき映画をどれにするかの相談をした。そして少しばかりの議論の末、ダーグル・カウイ監督の映画、『好きにならずにいられない』に決定した。予告編を見ても瀬名はあんまり惹かれなかったが、藤堂は是非一度見てみたかったのだと言って譲らなかった。そのため、今回は藤堂の意見に従ったのだった。
藤堂がプロジェクターの準備をしている際、瀬名はふと部屋の雰囲気と、藤堂の様子がいつもと少し違って見えることに違和感を感じていた。その小さな違和感の正体が果たして何なのかはわからなかったが、瀬名にとってそれは取るに足らないことのような気がしたので、何も気付かないふりをし続けることにした。彼にとって藤堂の些細な変化は、取り上げるまでの重要なことのようには思えなかったからである。しかし、その瞬間に色々と訊ねておけば良かったのだと、後になってから思うことになるとはこの時の瀬名には知るよしもなかった。

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映画を見終わった後で、やはりこの作品は面白くなかったと瀬名は感じた。一年の半分ほどを降雪に覆われたアイスランドが舞台のこの映画は、常に陰鬱な雰囲気が染み付いたように漂っていて辛気臭く感じ、また最後のシーンも一体何を訴えたかったのかが彼には理解出来なかった。そして、主人公の男の考え方や境遇にも全く共感できないでいた。
しかし、隣でお菓子も食べずにスクリーンに集中していた藤堂は、終盤にはすすり泣きをしていたし、そしてエンドロールが流れている時には晴々しい表情を浮かべていた。彼はあまりお酒に強くなく、飲むと感情の箍が外れてしまう性質を持っていた。細いストローが刺さったまま空になったストロングゼロが、藤堂の目元から頬の辺りを鮮やかな赤に染め抜いていた。あまり酔いが顔に出ない白い顔をした瀬名と、赤ら顔で感情豊かに映画を見ていた藤堂とは、一つのコタツテーブルを隔てたこちら側とあちら側で、全くの別の空間で過ごしていたような感じがした。瀬名は、
「やっぱり面白くなかったな」
と不機嫌そうに言いながら、飲み掛けのストロングゼロを豪快にあおった。それに対して呑気な声のまま藤堂は、
「そうか?」
と呟き、それに続けて、
「そういえば今日は泊まっていくのか?」
と聞いた。瀬名は、
「いや、レポートの期日が迫っているのを忘れてた。今日はこの辺で帰る」
と何故かはわからないが、自然と嘘の言い訳をついていた。なんだか今日は早く帰宅しようと考えていたのだ。
「そうか」
と、座椅子に胡座をかいていた藤堂は、ポケットから取り出したスマホを眺めながらあまり気のない返事を返した。クッションから立ち上がってその姿を睥睨した瀬名は、普段とは違った藤堂のにべない返事になんだか肩透かしをされた気分になった。いつも映画に関しての感想を、色んなシーンを回想しながら賛否問わずに語り合う時間も楽しみにしていたはずだ。そして今日も、そんな風に議論をしながら酒を飲んで、ゆっくり考えを深めていく時間を過ごしたいと考えているはずだと瀬名は思っていた。しかしながら、今日の藤堂は何か様子が違っていた。それはまるで、湿度の高いぬるい風が、これから近づく雨雲の存在を知らせるように、藤堂の態度からは早く部屋を辞して欲しいような居心地の悪い空気を感じていた。
「じゃあ」
と言って、瀬名は帰ろうとする際、部屋の奥の方にある本棚の上のところに、一つの木片が置かれてあるのに目が留まった。それは「1本当り」の文字が彫られている、ただのアイスの棒だった。しかし、それを目にした途端、瀬名の胸の中に何か得体の知れない、嫌な胸騒ぎがした。薮の中で獲物を狩ろうとしている肉食獣の瞳を発見してしまった草食動物のように、彼は途端に身動きが取れなくなった。
「雨まだ降ってるみたいだし、気をつけろよ」
という藤堂の声に対しての返答もせずに、彼はその場で硬直していた。その瞬間彼の脳裡には、ある思い出が走馬灯のように流れていたのだ。

✳︎

瀬名が大学2年のころだった。彼の部屋に泊まりに来ていた高木は、瀬名に対して、
「もっと痩せた方が良いかな?」
と聞いてきた。
毎日のように部活に明け暮れていた高校生の時には、全く気にしていなかったお腹やお尻周りの皮下脂肪が、大学に入り部活も運動もやらなくなってきた途端、少しずつ確実に肥大化している自覚が高木にはあった。その日に日に肥えていく高木の背中の贅肉をベッドの上で眺めていた瀬名も、同様にそのことを認識していた。このまま彼女のプロポーションが損なわれてしまえば、兼ね備えていた美しさが失われてしまいそうだと感じていた彼は、
「確かに少しダイエットしたほうが良いかもね」
と言ったのだった。
そのため、高木は思い切って減量することを一緒に手伝って欲しいと瀬名に告げたのだった。その方法の中の一つとして、
「私、当たり棒を出すまで、アイスはガリガリ君しか買わないことにするわ」
というものだった。
それ以来、バニラ味のスーパーカップや雪見だいふくのような甘いアイスが好きだったはずの彼女の冷蔵庫の中に、ガリガリ君ばかりが櫛比するようになった。どれだけ食べてもあまり体型の変化が無い瀬名にとって、正直アイスの種類を変えただけで減量効果があるのか懐疑的ではあったが、それでも彼女の必死の提案を無下にするわけにも行かず、その後の数ヶ月は高木と一緒にガリガリ君ばかりを食べ続けることになった。お陰で夕飯後の高木から漏れた吐息や、そしてキスの後味が、ほんのりとソーダの香りがすることがあったなと瀬名は憶えている。しかしながら、その後二人とも当たり棒を引き当てることは出来なかった。

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そのガリガリ君の当たり棒が、奇しくも藤堂の部屋にあるということが、一体どういうことなのか、瀬名の頭には上手く理解が出来なかった。藤堂がガリガリ君を買って食べているところなんて一度も見たことがなかった。それどころか、どれほど気温が高い日であっても、アイスの自販機でなく、その隣にある紙コップ式の自販機から、氷がたっぷり入ったブラックコーヒーばかりを買っている姿しか見たことがなかった。甘いものと藤堂の組み合わせが、熱帯雨林の中から白熊が躍り出てきたように不釣り合いなものに見えた。
瀬名の中で、考えないようにと思えば思うほど、背反して大きくなっていく自我の声が存在していた。ただの憶測のはずが、考えるほどに蓋然性が増していくような気がしてならなかった。そう言えば、藤堂がプロジェクターを用意している時も、チラリとこの本棚の上を見ていたようだったと後々になって勘づいた。きっとこのアイスの当たり棒を、藤堂の切長の瞳が捉えていたのではないかと感じた。
その時、外の雨音が突然大きくなり、遠雷が聞こえた。横殴りの雨と風が、窓に当たって不確かな音楽を奏でていた。これ以上の滞在を天気すら望んでいないようだった。
「あんまり天気が崩れる前に出ないと、帰れなくなるんじゃないか」
と藤堂は言った。
「あぁ、そうだな」
と言い、瀬名は藤堂の部屋を辞した。藤堂の部屋に泊まるという選択肢は、瀬名の頭の中にはちっとも浮かんでは来なかった。

雨に濡れて次第に冷たく重たくなる脚を動かし続けながら、しかしその熱を帯びた頭で瀬名は考え続けた。あの小さな木片が何故そこにあったのかという、その意味を。
もしあのアイスの当たり棒が、藤堂が高木から譲り受けたものだとしても、二人がそれ以上の関係になっていると断定できる訳では無いはずだ。それはただの気まぐれ的に、丁度良いタイミングでその当たり棒を高木から受け取った可能性だってある。いや、そもそもその木片の所在が、高木からのものとも限らないはずだ。それなのに、なぜこんなにも居た堪れない気持ちが滔々と湧いてくるのか。次第にそんなことを考え、気にし続けているのをやめられないでいる自分自身の未熟さに対して、瀬名は煩わしく感じていた。
もしあのアイスの当たり棒が、高木の手から藤堂に渡ってきたものだとしても、それは本当に取るに足らないくらい小さい行動であり、そしてただの彼女の気まぐれな感情の単なる残滓であるはずだ。それは瀬名がこれまで彼女から受けてきた愛情に比べたら、ダンゴムシほどの大きさしかない些細な慈悲である。
しかし、アイスの当たり棒があの部屋に存在することが、まるで彼女の一部を藤堂の手に拐かされているような幻想に駆られてしまっていた。そのことは、瀬名の心の裡にある真っ白な雪原に、穢らしい荷馬車の車輪で引かれた轍のような跡を、いつまでもくっきりと残ったまま消せないでいるようだった。
瀬名は今、自分の胸の当たりが酷く痛くなっていることに気付いた。彼は高木から受けてきた沢山の愛情の、その尊さに感づくことなく、湯水を排水に垂れ流すように暮らしてきたのだ。そのことを今になって自覚した彼は戦慄した。降り頻る雨の中にいるはずなのに、砂漠の真ん中にいるように、感情が水分を失ってカラカラに枯れてしまいそうになるとは思っても見なかった。彼は女性から受けてきた愛情に関してどこまでも幼稚で、どこまでも怠惰だったのだ。行きの道中に瀬名に幻想を見せた民家の灌木は、今はただの真っ黒い影にしか見えなくなっていた。

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瀬名は自分のアパートに戻ってきた。濡れた身体をひきづるようにしながら、頭は薪をどんどんと焚べられたように熱く冴え渡っていた。勢いを増しながら降り頻る雨という檻の中に、自分自身が絡め取られ纏綿されたまま、全く身動きが取れなくなっているような心地がした。そして、彼は自分がこうして何度も何度も彼女のことを思い出すことは、果たして自分を先に進ませているのか、それとも後退しているのか分からなかった。一体この感情は自分をどこに連れていこうと言うのだろうか。理解不能な強大な引力に導かれるように、彼は今すぐに何か行動しなければ気持ちが収まらなくなっていた。しかし、連絡を取りたくても、彼女への連絡はブロックされていて通じなかった。
ふと、瀬名は自分のバッグの中に、高木から借りた一冊の小説がそのまま入っていることを思い出した。彼は教科書などが乱雑に入れてあるバッグの中から、『江戸川乱歩傑作選』の文庫本を見つけ出した。真っ黒な暗闇の中央に隧道が描かれた表紙は、高木の趣味にしては渋すぎるような気がしたが、瀬名はその本にすがるように手に取り、ページを何枚かめくってみた。その紙には何度か読まれたような折り跡がついていて、めくるにつれてページがしなう柔らかい感覚の中に、彼は彼女の存在を見つけ出そうと努力した。そして、文庫本の真ん中当たりのページを開いて、あたかも接吻をするかのように鼻先を押し付け、その本の匂いを嗅いでみた。しかしその本から仄かに薫るのは、先ほどまで共に映画を見ていた、あの藤堂がよく嗜んでいるロングピースの、ほんのり甘いタバコの匂いが染み付いていた。その瞬間、何かを悟った瀬名は、しかし受け入れられずに何度も何度も匂いを確かめながら、変わることのない真実に打ちのめされた。そして、粒の大きな雨に撃たれて身動きが取れなくなったヤママユガのように、彼は小さく蹲りながら静かに啜り泣いた。雨はまだ止むことなく、様々な光を吸収しながら、肌寒い夜長の帷をしっとりと濡らしていた。

おわり


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