No.170/自ら可能性を閉じさせる大学組織
2024.06.18
こんにちは、くのてつです。
大学時代は今の自分にとってのルーツが多い時期でした。
これは良くも悪くも、未熟さ故にいろんな経験をさせてもらいました。
思い出したくないこともたくさんありますし、今でも目を背けているかも知れません。
楽しかったこともたくさんありますが、負の遺産的なものの方が鮮明に覚えているものですね。
仮に戻れるならば・・・という話になると、自分は間違いなく大学時代を選択します(笑)
そんな学生時代を思い出すかのように、昨日は大学で授業を受けてきました。
大講義室に200人くらいいたでしょうか。
おそらく自分が一番真面目に話を聞き、思考を張り巡らせていた自信があります。
スマホをいじったり、ゲームをしたり、EURO2024を観たり、圧倒的多数は眠っている。
そんな状況を見て感じること、学べることがあったので整理してみます。
学生にその90分の価値は分からない
よく講義中に寝ている学生を見て、学費の無駄遣いなんて指摘を見聞きしないでしょうか。
実際に自分がそうでしたが、これって学生に言っても分からないよな、って思います。
そりゃそうだよね、とは分かっても心底理解できるのは極々一部の数%といったところでしょう。
だって、それが分かっていれば寝ませんし、講義に集中しますよね。
そんな状態にも関わらず、その90分の講義の価値を話すアプローチはそもそも誤っているのかも知れませんね。
そう捉えることがまずはじめの一歩なのだと思います。
寝かせたまま話し続ける講師が悪い
自分が講義を受けながら思ったのは、寝ている学生をはじめ講義を聞いていないと分かりながらも、ただひたすら目を合わすことなく話し続ける講師って・・・ということでした。
教育の場でも何でもない訳です。
自分にはこの時間、この話をすれば一定水準の給料がもらえるってことだけで動いているように見えました。
そこに何の情熱もない訳ですし、学生に響く訳がない。
そんな大人でいいのかと、自分が恥ずかしくなりましたね。
もちろん全員がそうでないと分かっていますが、学生のことをああだこうだ言う前に、講師のあなたが変わりなさいって感じですね。
可能性は閉じている
学生の状態、講師の状態を掛け合わせると、何の可能性も生んでいないことは明白です。
むしろ負の方に引っ張られているようにも思います。
この状況を生み出しているのは、明治以降大きく変わらない日本の教育文化と、価値観から発せられているものではないでしょうか。
何のために大学へ生き、何のために学ぶのだろうか。
青臭い話ではありますが、そんな志を原点に、最上位目標に自身の言動、行動ができるようにしない限り、虚しい未来が待っているように感じます。
そんな現状を見て、自分が動くことの意味を考えました。
自分が誰の何のために動くのかと問えば答えはシンプルなものでした。
未来を明るくするためにまずやるべきことは「アクション」しかない、と思考が強化できる経験になりました。