洗濯物の分別の仕方について。
「誰が」ではなく「どの側面が」という問題。
誰が強者で誰が弱者かということを、「どの側面において?」を抜きに判断することはできないと思うし、誰かが「常に配慮すべき側の」健常者で誰かが「常に配慮されるべき」障碍者であるとも私は思わない。
弱い人ではなく、それを弱いとみなす価値観が、
正しい考え方ではなく、それを正しいとみなす価値観が、
あるのだと思う。
「弱者とは誰のことか?」「障碍者とは」「正義とは何か」といった議論に出会った時、私はいつも、洗濯物のことを考える。
**
昔、お昼のラジオで、主婦が料理やら家事やらのやり方についてあれこれ意見を戦わせるコーナーがあった(今でもあるのかな?)。
母がラジオをつけっぱなしにしていたので、小学生だった私はよくその手の奥様番組を聞いていた。大人になったら賢い主婦になろうと思っていた。
その日のテーマは「洗濯物の分別」についてだった。「洗濯物を分類せずにぜんぶ一緒に洗うなどあり得ない」というのが、番組にはがきを寄せた主婦たちの意見だった。その点ではみな、一致していたような気がする。ただ、ある人は「上に着るものと下着とは一緒に洗えない。絶対に分けて洗わなければ」と言い、あるひとは「色物と白いものは絶対に分けなければならない」といい、あるひとは「外で汚れるものと食卓なとで清潔に使いたいものとは一緒に洗うわけにはいかない」といい、…もっといろいろあったけど、とにかく皆、<絶対に守らなければならないその分け方>が違うのだった。私はその問題の当事者ではなかったので、少し距離をもってその議論を聞いていた。なので混乱した。
私が気になったポイントは、「色物と白い物を分ける人は上着と下着を分けて洗わない」「上着と下着を分けるひとは外のものと中の物の区別には関心がない」「外と中でわけるひとは色物かどうかは気にしない」という点だった。
今でも覚えてるんだけれど、その番組を熱心に最後まで聞いて、小学三年生だった私は、「つまり洗濯物は分けなくてもいい」という結論に至った。
どんな分け方も、何かに対して有効で、別の何かに対しては確実に無力なのだ。
そして十数年後、洗濯物を分けずに洗う大人になった。特に困ったことは起きていない。
**
ただ、私が洗濯物を分けないで洗っている限り、「絶対にこの分け方で洗った方が良い」洗い方があっても私にはわからないと思うので、この判断自体が「ひとまずこれまでの私の人生において」という限定付きなのだけど。