【平成といえば、3回死にかけたな私…あ、4回かも】~アメリカ同時多発テロ 持病での再入院~
双子のインフルエンザ感染
子どもを産んで約1年。
交互の夜泣きに悩まされ、眠れない日々はあったが、体調を崩すことも無く過ごしていた私。
双子育児は、さぞ大変でしょう?とよく言われたが、4畳半の部屋から、子どもが口にしそうな小さな物や、倒れてきそうな物を排除し、子ども部屋を作り、入り口にゲートをして「2人で遊んでてね」と、遊ばせていた。
一見育児放棄的に聞こえるかもしれないが、大人1人に対して乳児2人の日中は、こうでもしないと、気力体力が保ちません…
日中は読み聞かせなどはしても、一緒に遊んであげられる余裕はなかった。
社宅は、4階に住んでいてエレベーターなし!
2人の乳児を連れての外出もままならず、社宅の皆様に「買い物行ってくるよ~」と言っていただいて、甘えさせてもらった。
実は、潰瘍性大腸炎は、出産がきっかけで再燃する可能性があると聞いていた。
だが、疲れてはいるけど、お腹の痛みを感じる事が少なく、もう病気が再燃するとは考えられなかった。
私は完治した!と思い込むまで、再燃の兆候は感じられなかったのだ。
ところが、子ども達最初の誕生日が間近に迫ったある日、双子同時にインフルエンザに罹った。
看病している私も、高熱に見舞われた!
そして…潰瘍性大腸炎が再燃したのだった。
絶食と24時間の栄養点滴
一度再燃して入院すると、絶食となりすぐには退院ができない。
絶食…そう、食事はできない…
具合が悪いから、むしろ食べたくないのだが、食べないのでは、生きては行けない。
そこで、栄養点滴を鎖骨の辺りにある、大きな静脈に針を刺して24時間点滴で栄養を送り続ける。
24時間ずーっと、点滴をし続けるということは、どこへ行くにも点滴と行動を共にしなくてはならない。
必ず一緒なので、私は点滴台に「ぽち」と名付けて、トイレに行くにも「ぽち行くよ」と声をかけて行動を共にした。
そして、ある日はたと気づく
「ん?繋がれているのは私の方だから、ぽちは私じゃないか?」
と…まあ、動かしているのは私だからいいか。
絶食が約1ヶ月半経った頃、少しずつ重湯から食事を開始しした。
「食べられそう」と医師が判断してやっと、栄養点滴が外される。
外れると、自由な身になった気がする!
なのに、夜トイレに行く時などはつい
「ぽち行くよ」
と、点滴台を連れて行こうとしてしまう。
それだけ、点滴台が体の一部となっていたのを実感するである。
食事ができるようになったといっても、薬の都合で退院がすぐにはできず、入院から約3ヶ月ころに、やっと解放される!
夫の実家に預けられていた子ども達に
「この人は誰?」
的な眼差しが、寂しかった。
すぐに、そんな寂しさも解消されるのだが、印象に残る出来事である。
ある朝、TVニュースでは、ビルに突っ込む飛行機の映像が繰り返されていた
退院から数ヶ月後の朝、TVの画面では、映画の宣伝を思わせるような、光景が何度も繰り返し再生されていた。
アメリカ同時多発テロ。
この日からしばらくは、このショッキングなニュースが繰り返され、これからの世界情勢に、皆が注目した。
この頃、退院してそう日が経っていないにもかかわらず、お腹の調子が悪くなっていた。
朝起きて、トイレに駆け込み、朝食を作ろうとして、またお腹がグルグル言いトイレへ…
これは入院レベルだな…と観念し病院へ…
そんな、3ヶ月入院、退院半年後に再入院を、繰り返すようになっていた。
2回目の死にそうになったのは、何回目の入院だったろう?
それは、入院中に起きた出来事だった。
それについては、次回書くとしよう。
<続く>