23.二郡平定と四千里征伐

後漢の末、遼東で事実上の自立を果たしていた公孫氏は初代の度、2代の度の子の康、3代の康の弟の恭、4代の2代康の子の淵の3世にわたって遼東を支配した。天子は遼東が絶域のため海外のことは公孫氏に委ねていたが、4代・淵になって遂に東夷を隔断し、中国への朝貢ルートを通じなくした。(『魏志』東夷伝序文:「而公孫淵仍父祖三世有遼東、天子爲其絶域、委以海外之事。遂隔斷東夷、不得通於諸夏。」)
 
建安九(204)年、公孫氏初代・度が死んで息子の康がその後を継ぐと、康は朝鮮半島南部の経営の拠点とすべく楽浪郡の屯有縣以南を分けて帯方郡とした。康の配下の公孫模・張敞等が遺った民を収集して兵を興して韓・濊を討伐した。この後、倭・韓は遂に公孫氏の帯方郡に服属した(公孫氏に朝貢することになった)。(『魏志』韓伝:「建安中、公孫康分屯有縣以南荒地爲帶方郡、遣公孫模張敞等、收集遺民、興兵伐韓濊、舊民稍出。是後倭韓遂屬帶方。」)
 
黄初七(226)年、文帝亡きあとを受けて、明帝が即位。
夷蛮からの朝貢を皇帝の徳とする明帝にとって、倭・韓からの朝貢ルートを隔断する公孫氏は目の上のたん瘤であった。
 
太和二(228)年、公孫氏3代・恭を、甥の淵が脅迫してその地位を奪取すると、明帝は淵の懐柔を謀り、淵を楊烈将軍・遼東太守に任命した。(『魏志』公孫度伝:「太和二年、淵脅奪恭位。明帝即拜淵揚烈將軍・遼東太守。」)
 
呉の嘉禾元(232)年三月、呉の孫権は魏を背後から圧迫するため公孫淵に接近をはかって、將軍の周賀と校尉の裴潜を海路遼東に向かわせた。(『呉志』呉主権伝:嘉禾元年春正月、建昌侯慮卒。三月、遣將軍周賀・校尉裴潛乘海之遼東。)
 
呉の嘉禾元(232)年十月、公孫淵も使者を孫権のもとに送り、権のまもりになると称し、貂・馬を献じるとともに、藩を称して呉に臣属する態度を示した。孫権は大よろこびをして公孫淵に使持節督幽州・青州牧・遼東太守・燕王の爵位を加えた。(『呉志』呉主権伝:「(嘉禾元年)冬十月、魏遼東太守公孫淵遣校尉宿舒・閬中令孫綜稱藩於權、并獻貂馬。權大悅、加淵爵位。」
 
太和七(233)年、明帝は呉の孫権が公孫淵に燕王の爵位を加えると、対抗して淵に大司馬を拝し楽浪公の爵位を追封した。(『魏志』公孫度伝:「明帝於是拜淵大司馬、封樂浪公」
 
この爵位の追封は公孫淵の暗殺を狙ったもので、遼東に派遣された封爵使節団は選り抜きの猛者で構成されていた。
 
財政報告のために洛陽に赴いていた公孫淵の計吏がこの事実を察知して、封爵使節よりも一足早く遼東に帰還して淵に報告した。
 
淵は封爵使節を完全武装した兵士に囲ませた陣内に迎え、さらに賓客が列席するところで悪口を並べるという非礼をかさねた。
 
封爵使節は公孫淵の暗殺という使命を果たせず、洛陽に帰還した。
 
太和の末、公孫淵が遼東をたてに反逆した。明帝は公孫淵を征討したいと思ったが、司馬懿仲達は対蜀戦の最中だった。(『魏志』田豫伝:「太和末、公孫淵以遼東叛、帝欲征之而難其人。」)
 
呉の青龍二(234)年、五丈原の戦いの最中に諸葛亮孔明が病死し、蜀軍は撤退した。仲達は撤退した蜀軍を追撃しようとしたが、明帝は仲達を京師に呼び戻し公孫淵討伐の軍議を謀った。(いわゆる「死せる孔明、生ける仲達を走らす(死諸葛、走生仲達)」)
 
『魏志』明帝紀裴注所引干宝の『晋紀』に曰く、
 
帝問宣王:「度公孫淵將何計以待君?」
<明帝、宣王仲達に問う:公孫淵はどんな計略によって君に対応すると思うか?>
 
宣王對曰:「淵棄城預走、上計也、據遼水拒大軍、其次也、坐守襄平、此為成禽耳。」
<仲達、対して曰く:公孫淵は城を棄てて逃走するのが最善策です。遼水(遼河)に拠り大軍を拒むのは次善の策です。座して襄平城を守れば、生け捕りになるだけです。>
 
帝曰:「然則三者何出?」
<明帝、曰く:然らばこの三策のうちどの手に出るだろうか?>
 
對曰:「唯明智審量彼我、乃預有所割棄、此既非淵所及」、又謂、「今往縣遠、不能持久、必先拒遼水、後守也。」
<対して曰く:ただ明智あれば彼我を審量し、城を棄てることがありますが、それはとうてい公孫淵の考え及ぶところではありません。又、謂う。今は遠くに出かけるのですから、持久戦は不可能です。必ず先手をうって遼水で拒み、後に守りを固めます。>
 
帝曰:「住還幾日?」
<明帝、曰く:往復に何日かかるか?>
 
對曰:「往百日、攻百日、還百日、以六十日為休息、如此、一年足矣。」
<対して曰く:往くに百日、攻めるに百日、還るに百日、六十日をもって休息とします。このようにすれば、一年で足ります。>
 
景初元(237)年七月辛卯(26日)、公孫淵は自ら「燕王」と称し、魏、蜀、呉につづく四番目の王朝として国号を「燕」、年号を「紹漢」とした。(『魏志』明帝紀:「(景初元年秋七月)辛卯、太白晝見、淵自儉還、遂自立爲燕王、置百官、稱紹漢元年。」)
 
明帝は公孫淵討伐を決行するに当たり、公孫淵にとっての最善策である城を棄てて呉への逃げ道となる楽浪・帯方の二郡を制圧するため、青州・兗州・幽州・冀州の四州に詔勅を下して大いに海船を作らせた。(『魏志』明帝紀:「詔、青・兗・幽・冀四州大作海船。」)
 
景初元(237)年、明帝は公孫淵に気づかれぬよう、密(ひそか)に帶方太守の劉昕、樂浪太守の鮮于嗣を遣わし、海を越えて二郡を平定し公孫淵の退路を断つとともに、公孫氏に服属していた東夷の倭・韓を屈服させた。(『魏志』韓伝:「景初中、明帝密遣帶方太守劉昕、樂浪太守鮮于嗣、越海定二郡。」、『魏志』東夷伝序:「景初中、大興師旅誅淵、又濳軍浮海、收樂浪帶方之郡、而後海表謐然、東夷屈服。」)
 
二郡平定作戦を成功させた帯方太守劉昕のその後の消息は不明だが、劉昕の後任太守が景初二(238)年六月に卑弥呼の遣使を洛陽に送って行った劉夏であるので、おそらく劉昕は景初元年には死亡していた。
 
明帝は公孫淵の退路を断つ二郡接収を見定めると景初二(238)年春正月、大尉・司馬懿仲達を征東将軍に任命し、公孫淵討伐いわゆる四千里征伐を開始した。(『魏志』明帝紀:「景初二年春正月、詔太尉司馬宣王、帥衆討遼東。」)
 
初め、明帝は公孫淵討伐に司馬懿仲達に四万人の兵を与えることを議臣に諮ったところ、議臣は皆、四万兵では戦費が供し難いので多すぎるとしたが、明帝は『四千里(遼東の代名詞)を征伐するに、奇を用いると云うと雖も、また力に任せて当る、役費(戦費)の稍計(出し惜しみ)するにあたわず。』と議臣の反対を押し切り、遂に四萬人を以って決行した。(『魏志』明帝紀:「初、帝議遣宣王討淵、發卒四萬人。議臣皆以為四萬兵多、役費難供。帝曰:『四千里征伐、雖云用奇、亦當任力、不當稍計役費。』、遂以四萬人行。」)
 
景初二(238)年正月、仲達は牛金・胡遵らに歩兵・騎兵四万を師いさせ洛陽を出発した。(『晋書』宣帝紀:「景初二年、帥牛金・胡遵等歩騎四萬、發自京都。」
 
仲達は洛陽を出発したときから、賊が攻撃してくることは恐れておらず、ただ賊が逃走することばかりを恐れていた。(『晋書』宣帝紀:「自發京師、不憂賊攻、但恐賊走。」)
 
景初二年六月、仲達軍は遼東に到着した。帯方太守劉夏は部下を遣わし卑弥呼の遣使・難升米等を将い送らせ京都に詣らしめた。(『魏志』倭人伝:「景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝獻。太守劉夏遣吏、將送詣京都。」)
 
公孫淵は淵にとっての次善の策である、将軍卑衍に仲達軍を逆戦(迎え撃つ)させたが、仲達は将軍胡遵等を遣わしこれを撃破した。(『魏志』公孫淵伝:「宣王軍至、令衍逆戰。宣王遣將軍胡遵等撃破之。」)
 
公孫淵は仲達の思惑どおり、公孫淵にとって最下策である襄平城籠城に追い込まれた。
 
景初二年八月丙寅(7日)、仲達は公孫淵を襄平城に圍(かこ)み、大いに之を破り、公孫淵の首を洛陽に伝えられた。ここに燕はその誕生から僅か一年で滅亡し海東の諸郡は全て平定された。(『魏志』明帝紀:「(景初二年八月)丙寅、司馬宣王圍公孫淵襄平、大破之、傳淵首于京都、海東諸郡平。」、『魏志』公孫淵伝:「傳淵首洛陽。遼東、帶方、樂浪、玄菟悉平。」)
 
遼東公孫氏は度が中平六(189)年に遼東に割拠して以来、淵まで三世四代、およそ五十年にして滅んだ。 (『魏志』公孫度伝:「始度以中平六年據遼東、至淵三世、凡五十年而滅。」)
 
景初二年十一月、明帝は公孫淵を討伐し倭国の朝貢を実現した仲達の功績を記録して、仲達以下に領邑の加増、封爵を行ったが、功績の度合いによって各々に差はあった。(『魏志』明帝紀:「冬十月、録討淵功、太尉宣王以下増邑封爵各有差。」)
 
景初二年十二月、明帝は海外の遥か遠き所から朝貢をしてきた卑弥呼を「親魏倭王卑弥呼」に制詔した。(『魏志』倭人伝:「其年十二月、詔書報倭女王曰、制詔親魏倭王卑彌呼。」)

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