21.山島と洲島

『魏志』倭人伝冒頭の「倭人在帯方東南大海之中、依山嶋為国邑。倭人は帯方東南の大海の中に在り、山島に依って国邑を為す。>」とある「山島」とは、津軽海峡を三等分するかのように存在する、島の89%を山地が占める対馬(対海国)や標高212.8mの岳の辻を擁する壱岐(一大国)のように山のある島のことである。

津軽海峡を千里~千里~千里と渡海してきた九州も、故なくして火起こる阿蘇山をはじめ多くの火山を擁する「山島」である。

風俗記事の最後の「参問倭地、絶在海中、洲島之上、或絶或連、周旋可五千余里。」とある「洲島」とは、川の中で土砂が堆積してできた中洲状の島のことで、海島の場合、例えばサンゴ礁の海底隆起によって形成された平べったい島のことである。

中国から見て絶在海中(陸を遠く離れた海の彼方)の洲島(中洲状の島)が或絶或連(遠く或いは近く連なる)しているのは、山島である九州の南の東シナ海に連なる南西諸島以外にみられない。

〇「周旋五千余里」

 「周旋」とは“あまねく巡る。すみずみまで行き渡る。渡り歩く。旋回する。”という意であり、遠く或いは近くに連なっている洲島の上を“端から端まで行き渡る”ということ。

『魏志』崔琰伝に「琰既受遣、而寇盜充斥、西道不通。于是周旋青、徐、兗、豫之郊、東下壽春、南望江湖。<崔琰は既に受遣していたが、寇盜(盗賊)が充斥(満ち溢れる)しており、西への道は通じなかった。そのため、青州・徐州・兗州・豫州の郊外を周旋(渡り歩く)し、東に向かって寿春まで下り、南に江・湖(江西省と湖南省、江南地方)を望む(眺めやった)。>」とある。

 「五千余里」は約375kmである。

南西諸島のうち奄美群島の端から沖縄諸島の端までは約350kmであり、それはほぼ浙江省の東に位置する。

古来、浙江省の東の海は「会稽海外」と称された。

『前漢書』地理志呉地の条に「会稽海外有東鯷人、分為二十余国、以歳時来献見云。」とある。

〇「参問」

“問い参る”の「問う」は“知りたいことをたずねる。聞く。質問する。”ということ。(『大辞林』)

「参る」は“行く、来るの謙譲語、目上の人や身分の高い人に対して用いる。”ということ。(『角川古語辞典』)

陳寿が“倭地を問い参る”と謙譲語を使った身分の高い人物とは誰か?

 歴史上、倭地を問い参らせた人物は『後漢書』の建武中元二(57)年条に「倭奴国奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭国之極南界也、光武賜以印綬。」とある光武帝である。

光武帝は奉貢朝賀してきた倭奴国の使者に、『前漢書』地理志燕地の条に「樂浪海中有倭人、分爲百餘國<楽浪海中、倭人あり、分かれて百余国を為す>」とある、楽浪海中の倭国の「南界」を問い参らせた。

倭奴国の使者は答えて曰く、《会稽海外の東鯷人の国が倭国の南界である。》

光武帝は東鯷人の国が倭国の「南界」と知るや、倭奴国に金印紫綬を下賜した。

「(光武帝が)倭地(の南界)を問い参らすに、(使者が答えるには、そこは会稽海外の東鯷人の国で)絶在海中(=会稽海外)の或絶或連(遠く或いは近く連なる)洲島(中州状の島)の上を、周旋(端から端まで行き渡る)すること五千余里(約375km)可(ばか)り。」

『魏志』倭人伝に「東鯷人」に関する記述がないのは、陳寿のこの一文が東鯷人の国についての記述だからである。

〇夷洲と亶洲

『後漢書』は倭伝に続けて「會稽海外有東鯷人、分爲二十餘國。又有夷洲亶洲。傳言、秦始皇帝遣方士徐福、將童男女數千人、入海求蓬莱、神仙不得。徐福畏誅不敢還、遂止此洲、世世相承、有數萬家。人民時至會稽市。會稽東冶縣人有入海行遭風、流移至。亶洲者所在絶遠、不可往來。<会稽海外に東鯷人あり、分かれて二十余国を為す。また、夷洲および亶洲あり。伝えて言う、『秦の始皇帝は方士徐福を遣わし、童男女数千人を将いて、海に入り蓬莱を求めしも、神仙を得ず。徐福は誅されるのを畏れて敢えて還らず、遂にこの洲に止まり、世世相承し、数万家あり。人民、時に会稽に至り市(市場)す。会稽東冶県の人、海に入り、風に遭いて行きて、流い移りて至る有り』と。亶洲は在るところ絶遠にして、往来すべからず。>」としている。

この記事中の「又有夷洲及亶洲・・・」以下の記事は、『呉志』呉主権伝黄龍二(230)年条の「遣將軍衛温諸葛直將甲士萬人浮海求夷洲亶洲。亶洲在海中。長老傳言、秦始皇帝遣方士徐福、將童男童女數千人入海、求蓬莱神山及仙藥、止此洲不還。世相承有數萬家、其上人民、時有至會稽貨布。會稽東縣人海行、亦有遭風流移至亶洲者。所在絶遠、卒不可得至、但得夷洲數千人還。<(孫権は)将軍衛温、諸葛直を遣し甲士一万人を将いて海に浮かび夷洲及び亶洲を求めしむ。亶洲は海中に在り。長老、伝えて言う、『秦の始皇帝は方士徐福を遣し、童男童女数千人を将いて海に入り、蓬莱・神山及び仙薬を求めしむるも、此の洲に止まりて還らず。世(代々)、相承し数万家有り。其の上の人民、時に有りて会稽に至り貨布す。会稽東県の人、海に行き、また風に遭い流移して亶洲に至る者有り』と。在る所絶遠にして卒を得て至るべからず、ただ夷洲の数千人を得て還る。>」からの引用である。

三国時代は戦乱、飢饉、疫病の流行などで人口が激減し、どの陣営も兵士不足に悩まされた。

呉の孫権は黄龍二(230)年、兵力の不足を「人狩り」で補うため、将軍の衛温と諸葛直に兵士1万人の船団を率いさせ、夷洲および亶洲に派遣した。

『後漢書』は夷洲・亶洲は共に会稽海外にあるとするが、陳寿は亶洲は海中(楽浪海中?)にあるとしている。

列島各地に徐福伝説の地がある。

“在る所絶遠にして卒を得て至るべからず”という亶洲は日本列島で、“ただ数千人を得て還る” という夷洲は琉球沖縄ではなかろうか。

(余談)
清の胡渭になる『禹貢錐指』に「東鯷、後漢謂之大倭國、即今日本」とある。

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