15.「漢委奴国王」の金印

天明四(1784)年に志賀島から出土した国宝の蛇鈕の金印は、『後漢書』倭伝に「建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭国之極南界也、光武賜以印綬。」とある、中元二(57)年に“倭奴国”が後漢初代皇帝の光武帝劉秀から賜ったものである。

金印には一部に贋作説もあったが、1981年、中国江蘇省の甘泉2号墳で出土した中元三(58)年に光武帝の子劉荊に下賜された「廣陵王璽」の亀鈕の金印の円い鏨(たがね)の文様や字体が「漢委奴国王」の金印と似通っていることから、同じ工房で制作された可能性が高いとされ贋作説に終止符が打たれた。

印刻の委(イ)は倭(ワ)の省画とされ、印文は「漢の委(ワ)の奴(ナ)の国の王」と読んだ三宅米吉説が定説となっている。

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三宅米吉『漢委奴国王印考』明治25年12月:「漢委奴国王の五字は宜しく『漢の委の奴の国の王』と読むべし。委は倭なり。奴の国は古の儺県、今の那珂郡なり。後漢書なる倭奴国も倭の奴国なり。」

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三宅が「奴」を「ナ」と読むのは、本居宣長が『馭戎慨言』で魏志倭人伝の奴国を儺県・那津に比定しているからである。

しかし、「奴」の字音は呉音(ヌ)、漢音(ド)であり、「奴」を「ナ」と読む辞書はない。

金印が出土した志賀島あたりが古くは儺県(ナノアガタ)と呼ばれていたからといって、金印の「奴」だけは例外的に「ナ」と読むのは恣意的である。

発見された当時(1784年2月)、福岡藩の亀井南冥は『金印弁』のなかで「委奴」を「ヤマト」と読んでいる。 

4月に京都の藤貞幹が「委奴」を「イト」と読む「伊都国」説を提唱、翌5月には大阪の上田秋成も『漢委奴国王金印考』で「此委奴ト云ハ皇朝ノ称号ニアラズ、当今筑紫ノ里名ニテ魏志ニ云 伊都国是也、伊都国ト云ハ 和名抄ニ筑前国怡土郡アリ」と論じている。

亀井南冥も後に伊都(イト)と読み改めている。

印文は、授与する側(中国の天子)と授与される側(夷蛮の長)の二者の関係を示すもの。

今、大谷大学に現蔵の銅印駝鈕の「漢匈奴悪適尸逐王」の印文は「漢の匈奴(キョウド)の悪適尸逐王」と読まれる。

「漢委奴国王」の印文は「漢の委奴(イト)の国王」と読む。

 『後漢書』なる倭奴国も倭奴(イト)国なり。

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