20.奴国は倭国の極南界?

『後漢書』:「建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭国之極南界也、光武賜以印綬」

 後漢の建武中元二(57)年に光武帝から賜った金印の「漢委奴国王」を<漢の委(ワ)の奴(ナ)の国の王>と読んだ三宅米吉は、中元二年条中の「倭国之極南界也」を<倭国の極南界なり>と「也」を決定をあらわす「なり」として読み、この一文は奉貢朝賀してきた「倭の奴国」の所在地についての范曄の地の文とする。

 『魏志』倭人伝には奴国は「女王国より以北」と「其の余の旁国」の2国があるが、三宅説はこの「倭の奴国」を金印の出土した「女王国より以北」の九州北岸部に比定する。

しかし、九州北岸部を「倭国の極南界」というのはあたらない。

このため三宅説は、『魏志』倭人伝を参考にして『後漢書』倭伝をものしている范曄が、「女王国より以北」の奴国と「其の余の旁国」の奴国を取り違えてしまったのだという。

三宅説を「無理なこじつけ」と批判する古田武彦も、この一文を范曄の奴国に対する地理観とみて「倭国の極南界なり」と読んでいる。

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古田武彦『失われた九州王朝』(極南界問題P45):「狗邪韓国は倭国の西北界(三国志では倭の北岸)である。だから倭地とは、その中心領域を朝鮮・対馬・壱岐の三海峡とする海峡国家だ。“倭国の中心国(三世紀の女王国)は、倭国の西北の入口から五千里(漢里では六倍の実体、2255キロメートルを指す)の「極南の地帯」に存在している”。これが後漢書倭伝の「倭国の極南界なり」という表現の背景をなす范曄の地理観だったのだ。」

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〇「也」と「以」

『論語』學而に「夫子至於是邦也、必聞其政。<夫子の是の邦に至るや、必ずその政を聞く。>」とあり、「也」は決定をあらわす「なり」の意だけでなく、下を起こす辞の「や」の意もある。

清の王引之の著わした虚字 (指示詞・接続詞・助詞・副詞など)を解釈した『経傳釈詞』に「以、猶由也」とあり、「以って」は“理由”とある。

「倭国之極南界也」に続く「光武賜以印綬<光武、以って印綬を賜う>」の「以って」は光武帝が印綬を下賜した理由である。

「倭国之極南界也」を范曄の地の文として読むと、光武帝は何を以って印綬を下賜したのかその理由が書かれていないことになる。

「倭国之極南界也、光武賜以印綬」は<倭国の南界を極むるや、光武帝は以って印綬を賜う>と読む。

光武帝は倭奴国の使者からの情報で倭国の南界を極めることができたので、その功績をもって印綬を下賜したのである。

 『魏志』挹婁伝に「挹婁在夫余東北千余里、浜大海、南与北沃沮接、未知其北所。<挹婁は夫余の東北千余里に在り、大海に浜し、南、北沃沮と接す、未だ其の北の極むる所を知らず。」とある。

中国にとって夷蛮の国の境界を「極める」ことは、極めて重要な関心事であった。

〇「使驛所傳於此矣」

范曄は『後漢書』倭伝を「自朱儒東南行舩一年至裸國、黒齒國、使驛所傳於此矣」と結んでいる。

范曄は倭伝を締めくくるに際し、中元二年条の倭奴国の使者の情報により極めた南界とは何処かを考えた。

『魏志』倭人伝には女王国の東に倭種の国(『後漢書』はこれを「拘奴国」とする)があり、その南に侏儒国があり、更にその東南に船行して1年という極めて遠い所に裸国・黒歯国がある。

范曄はこの極めて遠い所の裸国・黒歯国が極めた倭国の南界だろうと判断した。

 「使駅」とは、中元二年に奉貢朝賀した倭奴国の使者である。

 「極」とは、「倭国極南界也」の「極」である。

 「矣」は断定・決定などの意をあらわす「なり」の他に、「乎」と同じく疑問・反語の意をあらわす「か」の意味もある。

范曄は『魏志』倭人伝の裸国・黒歯国を指して「使駅の伝えるところの『極』とは、ここなるか(そう、ここである)」と倭伝を結んでいる。

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