13.伊都国王と倭奴国王

「東南陸行五百里、到伊都國。官曰爾支、副曰泄謨觚柄渠觚。有千餘戸。世有王、皆統屬女王國。郡使往來、常所駐。」

 ○「世有王」

 陳舜臣・陳謙臣著の「日本語と中国語」に、

 『中国語は活用しませんし、“てにをは”も時相(テンス)もほとんどありません。

―我念書。

右の中国文は<私は本を読む>と日本語に訳せます。念は読むことです。

しかし、これを、<私は本を読んだ>と、過去に訳してもまちがいとはいえません。

<私は(これから)本を読もう>と、未来に解してもかまわないのです。

現在であるか過去であるか、それとも未来であるかは、前後の関係できめるほかありません。』

とある。

 翻って、伊都国の「世有王」は<代々、王がいる>と現在形で読まれている。

 しかし、「世」とは“代々、父子相つぐこと”という意味であるから、どちらかというと現在より過去に重きをおいた用語である。

「世有王」は<代々、王がいた>と過去形にも読めるのではなかろうか。

 卑弥呼が「女王国」の王になった経緯について「其国本亦以男子為王、住七八十年、倭国乱、相攻伐歴年、乃共立一女子為王、名曰卑弥呼。<その国はもとまた男子をもって王となす、住七八十年、倭国乱れ、相い攻伐すること歴年、乃ち一女子を共立し王となす、名を卑弥呼という。>」とある。

 卑弥呼以前の「男王」ついて、魏志倭人伝を参考にして倭国伝をものしている『後漢書』に「建武中元二年、倭奴国奉貢朝賀、使人自稱大夫、倭国之極南界也、光武賜以印綬。安帝永初元年、倭国王帥升等献生口百六十人、願請見。」とある。

 中元二(57)年の倭奴国は倭国の南界を知らしめた功績により光武帝から「漢委奴国王」の金印を下賜された。

 金印を下賜された倭奴国王(委奴国王)は50年後の永初元(107)年には「倭国王」になっている。(『旧唐書』倭国伝:「倭国者、古倭奴国也」)

 「伊都」の「伊」は字の前後について熟語を作る動作状態を形容する助辞。

 「伊都」という表記には、伊都国が卑弥呼以前の男王、代々の倭奴(イト)国王が都とした国であったことを示している。

 〇「皆統属女王国」

『諸橋大漢和辞典』は、唐律12編500条の各条にわたって字句の解釈をほどこした『唐律疎義』を引いて、「統属」の意味を“所属の官司を統べ治める”としている。(『唐律疎義』:「所統屬官者、若省寺監管局署、州管縣、鎮管戌、衛管諸府之類、是所統屬、殴傷官長者、官長、謂尚書省諸司尚書、寺監少卿少監、國子司業以上。」

 統属の統(すべる)は“たばねる。あわせる。一つにまとめる”という意味であり、統べられる客体が単数ということはない。

 伊都国王をいう「皆」はその意味では複数であるが、統属関係の時点では単数であり、一人の伊都国王が女王国に統属するわけにはいかない。

 伊都国王(人格)と女王国(非人格)との統属関係においては、その統べる主体(統主)は人格たる代々の伊都国王である。

 従って、この「女王国」は女王・卑弥呼が都する邪馬壹国一国を意味するものではなく、女王・卑弥呼が統属する「女王国」のことである。

「皆統属女王国」とは、卑弥呼以前の代々の伊都国王(倭奴国王)は皆、今は卑弥呼が統属する女王国を統属していた。

〇『後漢書』の「国皆称王、世世伝統」

『後漢書』の「国皆称王、世世伝統」は、『魏志』倭人伝には見えない記事である。

「国皆称王、世世伝統」は、伊都国王についていう「世有王皆統属女王国」の“世”“王” “皆”“統”からの造文ではなかろうか。

 つまり、後漢書の范曄は「世有王、皆統属女王国」を、「世有王皆統、属女王国」と読んだのではなかろうか。

「統属」を切り離して「世有王皆統、属女王国」とすると、代々の伊都国王をいう「皆」は、卑弥呼の女王国に属する倭の諸国の王をいう「皆」となった。(<諸国は皆、王と称す>)

 そして「統属」の「統」は、諸国王が代々その王家を伝える「伝統」の「統」になった。(<代々、統(王家)を伝う」)

 その結果(范曄の観念の中で)、倭の女王卑弥呼は諸国の王の上に立つ“king of kings”の「大倭(ダ~イ)王」になり、卑弥呼は邪馬壹(ヤマ・イ)国から邪馬臺(ヤマ・ダイ)国に居を“移す”ことになった。(『後漢書』:「其大倭王居邪馬臺国」)

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