見出し画像

聖母マリア信仰と「中絶論争」

 奇矯な話に聞こえるだろうが、神学は、現代の政治に深い影響を及ぼし続けている。
 一人の女、マリアの物語である

 聖母マリア信仰は、神学的にはもちろん、政治的にも、実は複雑な構造を持っている。
 この奇怪な信仰は、カトリックに特有なものであり、ほとんどのプロテスタントにとっては、ある種の狂信に過ぎない。
 だが、この信仰が、奇妙なことに、現代アメリカの政治を左右する「中絶問題」の歴史的な背景を形成している。

 19世紀後半から20世紀中盤にかけて、バチカン教皇庁は、このマリア信仰を正統教義として確定させた。
 が、その内容を一般の人に説明するのは、とても気が重い。
 一体、何を言っているのか、わからないと思うからだ。

 その要点は、二つある。

 第一に、カトリック神学独特の用語を使えば、聖母マリアは「崇敬」の対象であり「崇拝」の対象ではない。
 崇拝されるのは、あくまで三位一体のイエス・キリストのみであり(とりあえず一神教だし)、だから、この意味では、マリアは「信仰の対象」ではあり得ない。

 だが、この教会の教えが、ほとんど詭弁に近いのは、言うまでもないだろう。
 マリア像の前で伏し拝んでいる信徒の姿は、世界中で、日本でも数限りない。

(*)断っておくが、私自身も、その一人だ。

 第二に、20世紀には「聖母マリアの無原罪のお宿り」という教義が確定された。
 この「お宿り」とは、マリアを、その母アンナが妊娠したということだが、それが「無原罪」であるということだ。
 これこそ、キリスト教とは無縁の人には何を言っているのか、さっぱり、わからないと思う。

 マリアがイエスを処女懐胎したことは、それについてどう思うかはともかく、とりあえずは有名な「お話」だろう。ここでは、彼女は「無原罪」(要するにセックスしていない)とされている。
 だが、この教義は、マリアに留まらず、マリアの母アンナが妊娠したときも、つまり受精したときも、アンナ自身もまた「無原罪」であるという。

 マリアが無原罪であるだけでなく、それだからこそ、その母アンナもまた「無原罪でなければならない」というわけだ。
 じゃあ、更に、アンナの母はどうなのか、などと突っ込んではいけない。
 こう書いていて、ひどく憂鬱になるが、これが現代カトリックの正統教義である。

 セックスしないことが「無原罪」とは、一体、どういう理屈でそうなるのか。
 そもそも、原罪とは何か?

 一般のクリスチャンであっても、聖職者であってさえ、容易に回答できるものではない。
 だが、キリスト教カトリックは二千年もの間、頑強に、この根本的かつ理解困難な教義(ドグマ)を抱えてきた。
 しかし、この奇怪な理屈の深層には、人間性の闇と秘密が潜んでいると私は思っている。が、それは、今は横に措く。

 ここからが本番だ。

 以上は、所詮は、キリスト教内部での話に過ぎない。
 私は冒頭で、このマリア信仰は「政治的にも複雑だ」と書いたが、それは、この信仰が、現代アメリカでの血で血を洗う「中絶論争」に深く関わっているからだ。

 受精という生物学的現象が発見されたのは、19世紀末のドイツである。
 この科学的発見と「無原罪のお宿り」の教義は、カトリックの、とりわけ、その保守派に、受精という現象の科学的重要性だけでなく、その宗教的な崇高さを意識させた。
 つまり、受精以後の中絶は殺人である、と。
 ここに、現代アメリカでの「中絶論争」の原点がある。

 受精という生物学的現象は、聖母マリア信仰を背景として、19世紀から20世紀という、ある特定の歴史的時点で、いわば神格化されたのだ。

 宗教と科学とは、必ずしも対立しない点に注意してほしい。
 それは、理論的なレベルで噛み合うという話ではなく、上記のように、科学的な発見と宗教的な教義が平然と共存し、複雑怪奇に絡み合って、強烈な衝撃力を備える場合がある。
 この種の傾向は、怪しげな新興宗教の場合など、特に顕著だが、カトリックのように古い宗教であっても、所詮は大同小異に過ぎないことを、しっかりと記憶しておくことには意味があると思う。

 元々、カトリックでは、死刑も中絶も、何ら罪ではなかった。
 聖職者の連中は、そんなことは考えもしなかっただろう。異端審問や宗教内戦、おまけに植民地で、一体、どれほどの人間を虐殺してきたか。
 それに反対するようになったのは、キリスト教カトリック二千年の伝統の中で、みるみる政治力と支配力が衰えた(ゆえに?)、高々、この一世紀くらいのことに過ぎない。

 しかもアメリカでは建国以来、カトリックは、ずっと弾圧される側だった。
 この国は、ピューリタンの創建であり、カトリックはむしろ仇敵だった。

 思い出しておこう。
 クリスチャン以外のアメリカ大統領は一人もいないが、しかし、カトリック出身は、今に至るも、ケネディ以外には出現していない。

 だが、カトリック保守派は徐々に力を蓄え、共和党の強固な支持基盤となり、トランプ当選にも重要な役割を果たした。
 あのトランプでさえ、呆れたことに、中絶反対だったのである。
 アメリカという国では、このように、良きにつけ悪しきにつけ、宗教(と人種)は熱狂的なまでに生きている。

 キリスト教、とりわけカトリック教会には、二千年にわたる血塗られた歴史がある。
 それを信仰するということは、この凄惨で奇怪な歴史をも引き受けた上で、他人ではなく、この自分が、現在を生きることだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?