「世界全体が敵」という感覚
以下の文章は、昨年の秋、独り言のようにして書いたものです。
本来、この種の独り言は公開するべきではないと思う。だけど、一人の喫煙者が、かなり特殊な事例だとは思うけど「どのように感じてるのか」という点で、かろうじて、一つのサンプルにはなると思います。
タバコの問題は、私の生にとって、一つの「象徴」なのだと思う。悪い意味で。
街を歩くときにはもちろん、自宅にいてさえ、この息苦しさ。全身が押し潰されてしまいそうな圧迫感。
この世界が、全体として、私の敵なのだ。
人は、私が何を言っているのか、わからないと思う。
「たかがタバコごときで?」と嘲笑されるのが関の山だろう。
この暗鬱な感覚を、人に理解してもらうのが難しいことは、わかっている。たとえ、喫煙者同士であったとしてもだ。
そして、コロナが、いや、より正確に言えば、コロナの名の下で狂弄する「善男善女」が、私と世界との間の齟齬を決定的なものにした。
だが、今の私には、世界全体から追い詰められているような、この感覚を一つの文書として書き尽くす能力がない。
その代わりに、私は「健康増進法に対する違憲訴訟」のための文書、ただし、その「ドラフト」を書いた。
しかしながら、そこで展開された言葉と論理は「法廷での文書」という制約条件の下、否応なく、一定の法的な観点からの「論理的構築物」という性格を帯びざるを得なかった。
これは、本来であれば、私の本意ではない。
その証拠に、私は、この「ドラフト」を書きながら、標準的な意味での法的観点から逸脱した箇所でさえ「どこか違う」という内心の疑念、いやむしろ焦燥感に似たものを打ち消すことはできなかった。
私が書きたいのは、このような言葉ではない。法律以前の、もっと手前の・・・。
繰り返し、このような思いが吹き出るのは、冒頭で触れた、ごくプライベートな私の感覚を「法廷」というパブリックなフォーラムへ向けて、いわば強引に「人が読んで理解できるロジカルな形」に変換したからだと思う。
おそらく、私には、全く別種の能力が必要なのだ。
だが今は、この「ドラフト」を生み出すことしかできず、これが私の能力の限界である。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?