パウロとペテロ 〜その抗争と死〜
キリスト教史上最古の教会史家であるエウセビオスの『教会史』(講談社学術文庫・秦剛平訳)には、次のような不思議な一節がある。
古代キリスト教史に関心ある人であれば、誰もが、この一節には違和感を覚えるだろう。ここでエウセビオスは、アレクサンドリアのクレメンスの一節を引用しつつ、パウロがなじった相手は、あの「使徒ペテロ」ではなく同名の別人であると指摘しているからだ。要するに「あのパウロとペテロが口論などするはずはない」と(*1)。
だが、パウロ書簡「ガラテア人への手紙」の該当箇所は、誰が読んでも、パウロとペテロとの抗争であり、これこそ原始キリスト教会史上に名高い「アンティオキア事件」なのである。
(*1)上の引用文中の「ケパ」とは当時のアラム語で「岩」を意味し、「ペテロ」はその意味のギリシア語である。この「岩」は、イエスがシモン(ペテロの本名)につけたあだ名であり、マタイ福音書には「おまえは教会の岩(土台)となれ」と書かれている。ペテロが全教会を統率する「初代ローマ教皇」であることの聖書的根拠は、ここにある。
1.「キリスト教」誕生の決定的条件
3世紀末から4世紀にかけて、当時の「世界」、つまり古代ローマ帝国下で最も「新約聖書」(*2)に精通していたはずのエウセビオスが、一体なぜこのような引用をしているのか、私には、よくわからない。
彼は、ここで、単に護教論的なスパイスを忍び込ませているだけなのかもしれない。時代は、ようやく、コンスタンティヌス大帝によってキリスト教がローマ帝国公認の宗教になったばかりの頃だからだ。
このような時代背景の下では、原始キリスト教会を一貫して分断させていた「ヘレニスタイ(ギリシア語を話すユダヤ人キリスト教徒)」と「ヘブライオイ(アラム語を話すユダヤ人キリスト教徒)」との間の内部抗争は、そして、それを鮮明に露呈させたパウロとペテロの対立は、エウセビオスにとって、表沙汰にしたくなかったとしても無理はなかろう。
ここにある対立は、正統と異端との間の抗争ではない。キリスト教正統のど真ん中、あのパウロとペテロとの間の確執なのだ。
(*2)この当時はまだ「新約聖書」は正典として成立していなかったことに注意。現在あるような形での新約聖書が成立したのは、エウセビオスの死後、あの聖アタナシオスが主導した4世紀中頃のことである。(この男もまた古代キリスト教が生み出した化け物の一人だ)
しかし、この両派は、対立とはいうものの、拮抗しているわけではなかった。少なくとも、パウロやペテロの生前は、ヘブライオイ側が圧倒していた。
当然であろう。当時の原始キリスト教会は「キリスト教」ではなく(そんなものは存在しなかった)、エルサレムを本拠とするユダヤ教の弱小一派「ユダヤ教ナザレ派」に過ぎなかったからだ。
イエスはもちろん、パウロもペテロも、自分を「キリスト教徒」などとは夢にも思っていなかった。彼らは、自分こそが「正しいユダヤ教徒」であるとの自己認識を持っていたに違いない。
キリスト教とは、1世紀から2世紀にかけて、ようやく形を成し始めた新興宗教に過ぎなかった。1世紀後半(西暦70年頃)に勃発した第一次ユダヤ戦争という偶発的な事件が、その誕生の決定的な条件となったのである。この戦争でエルサレムは徹底的に粉砕され、ユダヤ教ナザレ派の本拠地であったエルサレム教会は消滅し、ヘブライオイたちは離散せざるを得なくなったからだ。
つまり、この第一次ユダヤ戦争こそがユダヤ教からユダヤ教ナザレ派を分離独立させ、従ってまた、ヘブライオイの離散後、残されたヘレニスタイが継承した異邦人宣教を主力とする世界宗教としてのキリスト教を誕生させたのである(*3)。
異邦人宣教の驍将パウロは、それまで完全な敗北者であった。ところが、第一次ユダヤ戦争の後、パウロは亡霊のようにして甦ったのである。
(*3)キリスト教のユダヤ教からの分離独立は、第一次ユダヤ戦争の壊滅的な敗北によって、いわば強いられたものに過ぎない。離散したユダヤ人たちは、パリサイ派を中心にして再編成されてゆく過程の中で、1世紀末、キリスト教(ユダヤ教ナザレ派)に対して決定的な異端宣告を行った。
2.アンティオキア事件とユダヤ民族主義
ここで、この第一次ユダヤ戦争での壊滅的敗北という視点から、いわば遡行的に、パウロとペテロの対立を眺めてみると何が見えてくるだろうか?
第一次ユダヤ戦争はパウロとペテロの死後のことであるにせよ、ユダヤ人がローマ帝国と戦端を開くに至るプロセスが、この両者の存命時代に影響を与えなかったはずはないからだ。
この点を説得力ある仕方で描いているのが、ジャン・ダニエルー『キリスト教史1 初代教会』(平凡社ライブラリー)である。彼は、パウロとペテロの対立を、単にヘレニスタイとヘブライオイとの二元的対立としてのみ捉えるのではなく、両派の対立を、第一次ユダヤ戦争に至るプロセス、とりわけユダヤ民族主義の勃興を中軸として立体的に描いている。
——西暦49年、ペテロはアンティオキア教会に滞在していた。
そこではパウロが異邦人宣教を主導していたが、エルサレムのヤコブ(イエスの兄弟)周辺の人々がやって来ると、ペテロは、しかもパウロの盟友であるバルナバさえもが、異邦人キリスト教徒の集まりに参加するのを拒否するようになった。
正統的なユダヤ教徒にとって、割礼を施さず律法も遵守しない異邦人は「罪人」であり、食事で同席するなど穢れ以外の何ものでもなかったからである。
パウロは激怒した。そこで、次のような有名な罵声を使徒ペテロに対して浴びせることになる。
これが原始キリスト教史上有名な「アンティオキア事件」である。
パウロの激怒には理由があった。
この事件の前に、これもまた原始キリスト教史上有名な「エルサレム使徒会議」にて異邦人宣教の是非を巡って議論が戦わされており、そこでは次のような結論に至っていたからである。
しかも、ペテロは、既にエルサレム教会を掌握していた「主の兄弟ヤコブ」周辺の人々がやって来る前までは、パウロと共に異邦人たちの集会に参加していたのである。その「変わり身」の早さに弁明の余地はなかろう。
彼には、どうしても(私自身も共感せざるを得ない)この種の「弱さ」がある。ペテロ自身、マルコ福音書で描かれた次のような風景は、イエスへの思い出と共に、彼の人格の根底に刻みつけられていたにもかかわらず。
だが、とはいえ、ここでの問題はペテロの性格の「弱さ」にはない。この事件について、ダニエルーは次のように言う。
注意して頂きたい。
ここで、カトリック神学者としてのダニエルーは、必ずしも護教論的観点から両者の対立を緩和しようとしているのではない。確かに、この著作には、ときおり護教論的な記述が顔を出すが、それはご愛敬としても、少なくともこの箇所ではない。
彼の論点は、ペテロは、パウロと異なり、原始キリスト教団の主力であるユダヤ・キリスト教徒を燃え盛るユダヤ民族主義と調和させて、どうにか維持することにあったという点にある。これは、生まれたばかりの原始キリスト教団の統率者としてのペテロの責任感の発露とも言えるだろう(*4)。
(*4)しかし、当時、ペテロはエルサレム教会の主導権を「主の兄弟ヤコブ」に奪われていたことは、パウロ書簡などから読み取れる。既にペテロは原始キリスト教団の第一人者ではなかったのである。
このペテロの視点を、ダニエルーは、より直截に次のように描いている。
つまり、パウロとペテロの対立の背景には、両者の教義上の対立以前に、燃え盛るユダヤ民族主義と同調しがちな(むしろ同調せざるを得ない)キリスト教徒たちがいたのである。
従って、当時の原始キリスト教団には、パウロ的なグループ、ペテロ的なグループ、そして当時の原始キリスト教団の主力を形成するユダヤ民族主義的なグループの三者が併存していた。
3.パウロとペテロ、その死
では、このような構図の下で、パウロとペテロの死の状況を捉えると、事態はどのように浮かび上がるであろうか。
ここでダニエルーは、ペテロもパウロも共に、ユダヤ・キリスト教徒たちの密告によって、つまり原始キリスト教団の内部抗争の果てに死に至ったと考えている。
しかしながら、ユダヤ・キリスト教徒たちと直接的に衝突するパウロならばともかく、より親和的な方向を模索してきたペテロをも密告する理由とは何だろうか?
ダニエルーは、残念ながら、この点を明確に述べてはいない。
確かに、当時のローマ・ユダヤ間の政治的な状況は混沌としたものであったろうから、教団維持を至上命題として、ペテロがユダヤ・キリスト教徒たちとどれほど妥協を積み重ねたとしても、この両者が対立衝突する可能性はあっただろう。
だが、ここには、もう一つの可能性がある。
ダニエルーの上記の(護教論的?)推測とは異なり、ペテロもパウロもユダヤ・キリスト教徒たちから密告されたのではなく、実は、彼ら二つのグループの相互対立の結果という、より陰鬱で陰惨なシナリオである。
この可能性を明確に指摘したのが、世界的な聖書学者エチエンヌ・トロクメである。彼は、晩年の著作「聖パウロ」で次のように書いた。
私は最初、この一節を読んだとき、何が書いてあるのか、わからなかった。何度か読み直して徐々に、ようやく理解することができた。それほど衝撃的な叙述だったからだ。
つまり、パウロとペテロは、お互いのグループ抗争がエスカレートした結果、ローマ帝国警察への告発合戦の挙げ句に滅んだと書いてある。
真相は、どうだったのか。
それは古代の闇に埋もれたままである。ダニエルーとトロクメ、この両者の推測のどちらが歴史的真実なのか、それを確定するに足る史料的な証拠は存在しないだろう。
だが、はっきりしていることがある。
たとえ、教会が「キリストの体」(パウロ)であったとしても、それは否応なく、血塗られている。キリスト教二千年の歴史のあらゆるページが、これを歴然と示している。
「聖人」など、いない。いるのは、ただ人間だけだ。
パウロもペテロも、むしろ、私たちの、少なくとも、私自身の隣人なのだ。この認識を、圧倒的な感情と共に共有できない人と、私はキリスト教について対話をすることはできない。
しかし、その果てに何を遠望するのか、それは各人各様だと思っている。
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