火の玉
母の子供のころの話
母の実家は田舎の農家で、日本昔話に出てくるような藁葺き屋根の家で、トイレも風呂も外にあった。
家の前には小山に向かって小さな段々畑がある。
夜になると辺りは真っ暗で頼れるのは月明かりだけ。畑の先の小山には闇が覆い被さるように拡がっていた。
ある夜のこと、母とすぐ下の弟が風呂に入っていたら、前方にぼんやりと灯りが見えた。
それは闇に呑まれた山を背景に、ふわりと浮かんでゆらゆらと揺れていた。
火の玉だった。
火の玉は上の段々畑のあたりを漂うように揺らめき、しばらくすると山の奥ではなく、他の民家がある方へと消えていった。
あとに残されたのは闇と静寂だった。
「うわぁー」
突然 叫び声をあげた弟が、湯船から飛び出ると家の中へと逃げた。
「きゃー」
弟の叫び声で我に返った母も叫んで家に入った。
「火の玉いうんは、本当に在るんよ」
生前 母はそう言って、火の玉を見た時のことを話してくれた。私が物心ついた頃には、トイレはまだ外にあったが、風呂は家の中だった。
夜、トイレに行きたくなると、子供たちは大人に一緒に外に来てもらう。
怖いから…。
私も怖かった。でも怖いと言うのが、恥ずかしかった。だから、一人で外に行った。
引き戸の側にある電気をつけるのは忘れない。
電気のお陰で庭先は、うっすらと明るい。
空を見る。
晴れた夜空は満天の星できれいなのに、山はどこまでも暗く、闇から這い出てきた化け物のよう。
見つめていると呑まれてしまう。
「クマ、クマ、おいで」
私が呼ぶと、白い犬が犬小屋から出てきて尻尾を振った。
私はトイレには行かず、クマの近くで用を足した。
クマの優しい目を見る。
山は絶対 見ない。
急いで用を足し、側にいてくれたクマの頭を撫でる。
山を見てはいけない。絶対に…。
山は見ない… だけど、闇は其処彼処に在る。
ふと、公道へでる私道に目を向ける。母の見た火の玉が消えた方角だ。そしてそこにあるのも夜の闇ばかり…。けれどその闇の奥で瞬く光を見た時、私はクマを置いて家の中に入って布団の中にもぐりこんだ。
夜の闇に不安を煽られた小さな私は、公道を走る車のライトに恐怖を感じた。暗闇の中で見つけた車のライトは、時に希望の光にもなり得るのに…。
隣で眠る母にしがみつくと、恐怖が嘘のように退いていく。心の中で、おいてきたクマに謝りながら温かな眠りの闇におちていく。
火の玉いうんは本当に在るんよ。
私自身は火の玉を見たことはない。けれどそれは、亡き母と子供の頃の思い出が重なる記憶の狭間で今も揺らめいている。