國丸
これは我が家でおこった怪異を綴ったものです。blogからnoteに移し替える際、少し手直しをしました。 一部を怖話サイトで公開しています。
家でおこる怪異を降魔師の阿部さんに祓ってもらってから、1年が経過した。 家の中の怪異はそのほとんどが消えた。 私の金縛りもなくなった。 愛犬が一点を見つめて吠えたり怯えることもなくなった。 娘は最初YouTubeで活躍されてる阿部さんを、胡散臭いと言って信じていなかった。 お祓いを受けた時も、お金の無駄と言いきった。 お祓いを受けて1〜2ヶ月が過ぎたある夜のこと。風呂場で娘が私を呼んだ。 「となり、歩いてる…」 娘に言われるが、私には聞こえない。 「聞こえんよ」 「うそっ
これは私が20代半ばの頃の話。看護師がまだ看護婦と呼ばれていた頃の話。 その病院は日勤と夜勤の二交代制だった。 夜勤の仕事は日勤者から申し送りを受けたあと、夜の検温と必要な処置、夕食の介助、21時に消灯した後は0時、3時と巡回があり6時から朝の検温をする。ごく普通の病院だった。 5階建ての建物で、1階が外来、2階から上が病棟でナースステーションは3階に一つ、そこから担当する病室へいく。巡回して記録が終わったら次の巡回まで仮眠がとれる。 以前勤務していた病院では仮眠をとって
看護学生だった時の話。 そこの学生寮はアパート形式で、一年生は1階の12畳の和室に4畳のキッチンがついている一室に、3~4人で住むことになっていた。私の部屋は3人部屋で、幸いなことにとても気が合い、助け合って生活していた。 洗濯機は外に3台あって2階の個室に住む先輩たちと共同で使っていた。 その日、午前中は病院で仕事、午後は学校。夜は飲み屋でバイトをして終電で寮に戻った。他の2人は眠っていた。 私は急いでお風呂に入り歯を磨き、電気を消そうとして、洗濯物を取り込んでいないこ
以前、夫の仕事で東北にいた時、同じ社宅に、霊感があり霊と話すことができる奥さんがいた。 視えることを大っぴらにしているわけではないので、最初は知らなかったが、心霊現象に悩むママ友の話を聞いているときに、その奥さんが言った言葉で知った。 「その霊と話してみようか?」 これは以前投稿した「心霊写真 」のその後の話。 心霊写真を撮ったことがきっかけで、霊が視えるようになった男の子に集まってくる霊の存在に悩むママ友に、同じ社宅に住む霊感のある奥さんが言ったのが上記の言葉。
※注 最初の部分は今までのまとめです。不要の方は💠マークまでとばして下さい。 2005年12月、(娘が幼稚園の年長の頃)今住んでいる家に越してきてから、ずっと怪異に悩まされてきた。 今からおよそ9年くらい前に霊能者(Yさん)に視てもらったら、原因は隣家だと言われた。隣家は霊が集まりすぎて、霊能者のYさんには隣家が真っ黒に視えるとのことだった。その集まった霊が我が家の二階のトイレの窓から入ってきて、階段を伝って一階に降りてきているとのことだった。 Yさんは、隣家は危険すぎ
主人の転勤で東北にいたときの話。 長女が幼稚園に入る前の年の夏。 夕方、まだ明るい時間。いつものように買い物を終え、社宅へ戻る車中でのこと。 坂を下っている時に娘が言った。 「おまつりだー。いっぱいひとがいるね。◯◯(娘の名前)もいくー」 「はあ?」 と思いながら、周りを見てハッとした。 ゆるい下り坂の先は左カーブになっているのだが、そのカーブになっている上に視線を向けると、そこには段々になったお墓があった。 引っ越してきてから何度となく通った道。でも私は今までここにお墓
子供の頃の話。 母の実家は農家だ。 家屋は藁葺屋根で、縁側の下はに鶏小屋になっていた。 今はもう見なくなったが、子供の頃お祭りの縁日にはピンクや水色をしたひよこが売られていて、私はお小遣いで緑色のひよこを買った。 わかってはいたが、母に怒られた。 母曰く、縁日で売られているひよこは弱くて長生きしない。選別もされていて雄ばかりで卵も生まないから田舎にもっていっても、食べられてしまうだけ。 極めつけは、可愛いのは最初だけ。 あっという間に大きくなって凶暴になるよ。 (母は子供
結婚して長女が生まれたあと、主人の転勤で5年ほど東北で暮らした。 息子が生まれ長女が幼稚園の年少の頃、近所(主人の職場の奥様とその子供たち)の人とバーベキューのあと花火をした。 赤ちゃんを連れている人は少し離れたところにいて、赤ちゃんを連れていないお母さんたちが、花火をする子供たちの世話をしてくれていた。 私は息子がいたので離れたところにいた。 しばらくして花火をしているところがざわつき始めた。 何だろうと思っていると、娘が走って来て私にしがみついてきて、服のすそを噛んだ
私の母方の祖母は霊が視える人だった。 私が小学生だった頃の話。 祖母が入院した。どこが悪かったのかは知らないけれど、原因不明の病気ときいた。 入院中、祖母が私の母や叔父たち(祖母にとっては自分の子供たち)に言った。 「目ェ閉じたら、目の前(眼裏)に山伏の姿をした人がでてきて、殺してやる!って怖い顔して言うんじゃあ」 心配した母たちはお寺の住職に相談した。 住職は自宅の近くに無縁仏があるはずだから、探して供養しなさい。と言ったらしい。 探すまでもなく、それは藁葺き屋根のお家
母の死がずっと心に引っかかっていた。もしかしたら母は祖母に連れて行かれたのではないか? そんな思いが棘のように心に突き刺さっていた。もしかしたら次は私かもしれないという不安もあった。 祖母は私のことも嫌いだったから。 でも私は今も生きている。 母が亡くなって数年後、母方の祖父が死んだ。母が胃癌になるよりも前に肺癌を宣告され、手術を勧められたが、 「今更手術とか、はあ ええわ」 と言って手術を拒否した祖父は、その後も元気に生きて、元気にあの世に旅立った。 楽しいといったら不
小学5年生の秋、父方の祖父母との同居が始まった。 長年勤めていた大学病院を定年退職する祖母からの提案で、祖母が退職金から頭金を出し、残りを両親がローンを組んで家を購入した。 それまで県営住宅に住んでいた私たち姉弟は、庭のある新築の一軒家に暮らせることを喜んだ。両親は共働きだったので、これからは家にいつも祖父母がいることが、私は単純に嬉しかった。 でもそんな楽しい気持ちは引っ越してから間もなく消えた。 祖母は別に私たちと暮らしたかったわけじゃない。同居を決めたのは仕事を辞める
高校を卒業した年、同居していた父方の祖母が死んだ。心不全だった。元気だった祖母の突然の死に立ち会うことができたのは、母だけだった。 皮肉なものだ。決して仲の良い二人ではなかったから。 祖母は母に冷たい人だった。だから祖母が亡くなったことを、母は喜ぶかもしれない。 でも母は祖母の死を悼み、泣いた。 母はよく、祖母に介護が必要になったら精一杯お世話して、最後にありがとうって言わせてみせる!と言っていた。 それは祖母に認められたいという、切なる願いから発せられた言葉ではなく、母
小学5年生の秋、父方の祖父母と同居するため一軒家に引越した。 私と姉は同室で弟は1人部屋になった。姉は早々に片付けを終え、片付けの苦手な私は、1人で足の踏み場のなくなった部屋を前に途方に暮れていた。そこへ一歳下の弟がやってきた。 「邪魔じゃけん、あっち行きんさいや!」 イライラしていた私は弟を邪険にした。対し、弟は気にすることなく辺りのものをいじる。 「物踏んで壊しんさんなよ」 そう言いながら不安になる。 今夜この部屋で寝ることできるんじゃろか…? 不安と苛立ちで、片付けが進
主人の職場の社宅で出会ったママ友の話。 そのお宅には当時幼稚園年中の息子さんがいた。とても優しい息子さんで一歳年下の私の娘もよく遊んでもらっていた。 ある夜、ご主人の新しく買い替えた携帯のカメラを使って息子さんが室内の写真を撮りまくっていたときのこと。そこに、お風呂からご主人が裸で出てきて、その姿をカメラの前に晒してしまった。 「ちょっと、何撮ってるの!」 ママ友は笑いながら息子さんから携帯を取り上げた。 げんなりしているご主人を横目に、携帯を覗く。 携帯のカメラには
夫の同僚の、小学生の子供さんが亡くなった。 交通事故だった。 子供を失う悲しみは想像を絶する地獄だろう。 事故死からしばらくして、その人は何か思うところがあったのか、その地域では有名な霊能者にみてもらったそうだ。 霊能者から、死んだ子供がその人にまとわりついている。何で気づいてくれないのか、不思議がっている。そう言われたそうだ。 そのあと子供をどうしたか、浄霊したかどうか、夫は聞かなかった。というか、その人の心情を思えば、聞くことは出来なかった。 その人には奥様と
狐は人を化かすんよ。じゃけぇ気ィつけんさい <其の一> 「狐はね、人を化かすんよ」 昔、母が言った。 母は子供の頃、狐に化かされた人を見たことがあると言う。 朝、学校へ行く途中のこと。先の方で数人の子供たちが、大きな木の下に集まっているのが見えた。 誰かが叫んでいる声も聞こえてくる。 近寄ってみて母はびっくりした。 男の人が木に登って騒いでいた。 男は木にしがみつき、何もない地面に向かって 「来るなァァァァ」 と叫んでいた。 「あのおじさん、何しようる