嫁姑①
高校を卒業した年、同居していた父方の祖母が死んだ。心不全だった。元気だった祖母の突然の死に立ち会うことができたのは、母だけだった。
皮肉なものだ。決して仲の良い二人ではなかったから。
祖母は母に冷たい人だった。だから祖母が亡くなったことを、母は喜ぶかもしれない。
でも母は祖母の死を悼み、泣いた。
母はよく、祖母に介護が必要になったら精一杯お世話して、最後にありがとうって言わせてみせる!と言っていた。
それは祖母に認められたいという、切なる願いから発せられた言葉ではなく、母の抱え持つ昏い感情から湧き出た言葉だったと思う。だからなのだろう。
「あんなこと思ったりするんじゃなかった」
って凄く後悔してた。
私も祖母とは色々あったけど、死者に唾を吐く気持ちがわいてくることはなかった。あの気の強い祖母が、静かに横たわっているのは、なんだか哀しい気がした。
祖母が死んでしばらくして、母が不思議な夢を見たと言った。
「おばあちゃんが玄関に立ってこっちを見とる。おばあちゃんなんじゃけど、蛇なんよ。蛇じゃけど、おばあちゃんなんよ。で、ジッとこっちを睨んどるんじゃあ。なんか言いたいことがあるんじゃろか?」
不吉な予感が頭の中を、駆け抜ける。
嫌な気持ちしかしない。
続けて母は言った。
「朝、起きて気づいたんじゃけど、おばあちゃん、巳年なんよね」
それから少しづつ母は体調を崩していった。病院で調べてもはっきりとした原因はわからなかった。
年が明けて四月になって、私は東京の准看護学校に入った。
祖母も看護師で、同じ職業を選ぶなんて考えられなかったが、准看は働きながら資格を取ることができる。家を出て自分の力だけで生きていくのは、中学生の頃からの目標だった。
具合の悪い母を置いていくのは申し訳ないと思ったが、私は自分が決めた道を変えなかった。
上京して、よく見た夢。
母の元に帰ろうとするのに帰れない。すれ違って会うことができない。
そんな夢ばかり見るようになった。
夏になって母が胃癌だとわかった。わかった時にはもうあちこちに転移していて、手の施しようがなかった。
父は最後の望みを免疫療法にかけた。今どうなのかわからないが、当時は保険のきかない高額な療法だった。実施している施設も少なく、広島から横浜まで新幹線で通った。東京に住んでいた私も一緒に行った。
でも効果はなかった。
免疫療法は効く人には劇的に効くけど、そうでない人はかえって苦しむことになる。資格を取って准看護婦として働きはじめて、医師から聞いた。
母は後者だった。
動くことができなくなった母は、免疫療法をやっている岡山県の大学病院に入院した。
そして翌年の2月、母は死んだ。死ぬ間際まで意識があり、苦しんで死んだ。危篤の報せを受けて、東京にいた私は急いで帰ったけど間に合わなかったし、姉と弟も間に合わなかった。
看取ったのは父と、母の妹だけだった。
※これは2019年8月にブログにあげたものを再編集しています。