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文学研究の意義とは――日本近代文学研究を事例に

 国立人文研究所/KUNILABOが設立されて7年、この間コロナ禍で講座は全面オンラインに移行し対面のイベントを開催できませんでしたが、2023年3月4日、3年ぶりに恒例の周年イベント「NPO法人国立人文研究所7周年記念イベント「人文学からコロナ禍以降の世界を問う」」を国立市で開催いたしました。
 コロナによって私たちの生活は大きく変わりました。それは、人文学にどのような影響を及ぼしたのでしょうか?あるいは、コロナ禍移行の私たちの人文学との向き合い方はどのようなものになっていくのでしょうか? また、人文学はコロナ禍以降の世界にどのように貢献することができるのでしょうか? 
 7周年記念イベントでは、「KUNILABO五周年記念事業・人文学学位論文出版助成」の助成対象者となったピーテル・ヴァン・ロメルさんに、「文学研究の意義とは――日本近代文学研究を事例に」という題でご講演をいただきました。今回は、その講演を記事にしてお送りいたします。
 ロメルさんの助成対象論文は、その後、『「田舎教師」の時代――明治後期における日本文学・教育・メディア』(勁草書房、2023年)として刊行しております。


はじめに

 皆様、こんにちは。今回、KUNILABOから誠に寛大な出版助成金をいただきましたこと、とても栄誉あることと感動しております。博士論文を書いた長年の苦労は、書籍という形で出版されることでついに実を結びます。私の研究になんらかの価値を認めて、この出版を可能にしてくださいましたことを、心から感謝申し上げます。
 本日は自分の研究と文学研究そのものについて少しお話をさせていただきます。博士論文は、『「田舎教師」の時代――明治後期における日本文学・教育・メディア』というタイトルで7月ごろに出版予定です〔2023年7月に勁草書房より刊行(編者注)〕。内容は文学研究、教育史研究、メディア研究といった分野を横断するかたちで、次の問題を掘り下げたものです。小学校教員は明治後期の日本において新しい近代職業層として生まれ、新しい文学読者層も形成されました。地方の小学校で教鞭をとった数多くの小学校教員たちはどのような文学を読んでいたのか。教員たちのためにどのような文学が出版されていたのか。教員たちについてどのような文学が刊行されていたのか。また、教員たち自身がどのような作品を創作していたのか。私の研究は、こうした具体的な問題を出発点とし、いわゆる「田舎教師」たちという特定の読者層に焦点を当て、文学が果たした社会的な役割を究明することを目的としております。これは同時に、近代化していく明治期の日本社会の多様かつ複雑な実態に新たな光を当てる試みでもあります。研究成果は初稿ゲラで見ると430頁を超えています。つきましては、研究の詳細を無理やり30分で紹介するよりも、文学研究の意義について考察する上で、私がなぜこの論文を執筆したかについて述べたいと思います。とりわけ文学研究領域においては、研究の意義そのものについてはほとんど問われることがないと言ってよいでしょう。若手の私は微力ではありますが、文学研究の意義についての考えをいくつか述べることで、現在の日本近代文学研究のありように関する議論を巻き起こして、次の世代の研究者たちに刺激となるヒントを一つでも提供できれば幸いです。

人文学の一部としての文学研究の意義

 文学研究の意義とはいったい何でしょうか。文学研究の意義や価値は自明であると考える研究者たちが多いため、学術論文を読んでも、研究者たちと直接話しても、文学研究の意義を把握することは存外に困難です。文学研究は難解な用語から形成された理論や、範囲のあまりにも狭い専門的な議論、あるいは研究者自身の思想的な先入観によって左右された思考といった形態をとる傾向が根強いです。そのためか、文学研究の意義を説明してその存在を正当化することが最近特に困難となっていると感じます。これは、文学研究の実用性や経済的効果の薄さを訴える新自由主義的な批判とは異なった、より根本的な問題です。しかし、文学研究を人文学の一部と見なして、人文学本来の目的を明確に打ち出せば、現在の文学研究の問題点が明らかになるだけでなく、将来の文学研究の可能性と新たなありようも提示することができるはずです。

日本近代文学の現状①――作家論・作品論

 まず、日本近代文学の現状をより克明に捉えてみましょう。日本近代文学研究は大きく二種に分類できます。一つ目は作家論や作品論から形成されている伝統的な文学研究です。たとえば、夏目漱石(1867-1916)がどのような作家であったか、作品『こゝろ』(1914)がどのような小説であるかを明らかにしようとする研究です。こうした研究の長所は、作家の生活や文学思想、作品に関してあらゆる資料を収集することです。作家の伝記を執筆したり、彼のすべての作品やエッセイなどを全集として刊行したり、文体という形式的な側面を含めて各作品を細かく分析したりすることは、文学研究を可能にする基盤を整えます。その一方で、こうしたオーソドックスな文学研究は、多くの場合文学を趣味とする研究者たちによって行われ、作家論や作品論の範囲を超えたより広い展望に欠けるため、少人数の専門家や文学の愛好家を中心とするいわば閉じた文学研究領域の外ではさほど意味を有しないと言わざるを得ません。逆に言うと、文学研究は文学領域の外にある課題に貢献する際にしか意義を成し得ないのです。

日本近代文学の現状②――理論に立脚した研究

 二つ目の文学研究は理論に立脚した研究です。その原点は大正時代に発生したマルクス主義的な文学批評ですが、そうした批評はのちに、意識的にせよ無意識的にせよ、多くの研究者たちの文学論を左右し、その影響は現在まで見られます。むろん、現時点ではポストモダニズム、あるいはポストモダニズムに基づいたポストコロニアリズムやジェンダー論がマルクス主義に置き換わって文学研究の主流となりました。現在に至っても影響力の極めて大きい思想家の名前としては、とりわけポストモダン主義的な権力論を唱えたミシェル・フーコー(Michel Foucault, 1926-1984)、フーコーをポストコロニアリズムの理論的な基盤としたエドワード・サイード(Edward Said, 1935-2003)、フーコーとジャック・デリダ(Jacques Derrida, 1930-2004)から大きな影響を受けたジェンダー思想家ジュディス・バトラー(Judith Butler, 1956-)が思い浮かびます。理論を出発点とする文学研究は言説(と言説の一部である文学)の重要性を主張しながら、資本主義や帝国主義、国家主義、人種差別、性差別にまつわる数多くの問題点を提示することで、文学と社会との関係に解明の光を当て、独立した文学研究領域を切り拓きました。この点だけでも、いわゆる文学理論の果たした意義は軽視できません。しかしながら、新たに生じた問題点も多くあります。たとえば、ポストモダニズム及びそれを基盤とするポストコロニアリズムやジェンダー論は難解なレトリック、あるいは極端な相対主義となってしまう傾向が顕著なため、学術的な有効性は疑わしいといえます。理論を真実として捉えて、単なる応用研究に陥ってしまう研究者たちも少なくありません。あらかじめ決められた価値観に基づいて取り組む研究者たちは、そもそも客観的で公平な学術研究ではなく、むしろ社会運動を目的とする研究活動を重んじることが多いのです。すなわち、理論を根拠とする型にはまった研究動向は、無意識的にせよ、文学研究の信頼性を覆し、その生存権を明らかに危険にさらしているのです。

『「田舎教師」の時代』を例として

 私の研究から一例を挙げて、日本近代文学研究で見られる以上の問題点をより具体的に紹介します。現在準備中の私の書籍は「第I部 小学校教員と文学」、「第II部 教育小説と教育ジャーナリズム」、「第III部 自然主義文学と教育」という三部から構成されています。第III部は日本の自然主義文学を代表する小説家である田山花袋(1872-1930)及びその名作『田舎教師』(1909)を中心とする論です。既存の花袋論、『田舎教師』論、自然主義論は豊富にあり、日本近代文学の重点の一つを形成しているので、日本近代文学研究の主な傾向を示すために有益な一例となるでしょう。
 まず、花袋についての作家論や作品論に関しては、花袋の伝記や彼の多くの作品やエッセイを収録する花袋全集などが大いに役に立ちました。花袋が『田舎教師』の題材とした実在した地方教員の日記の一部も発掘され、出版されたおかげで、手に入れやすくなっています。しかし、作家花袋と小説『田舎教師』の意味は作家の伝記や創作技法にとどまらず、むしろ文学が社会において演じた役割にあると言えます。私の書籍で論証するのは、花袋と当時の読者たちの間の密接な関係が、『田舎教師』と自然主義運動を理解するための重要な鍵となるということです。文学がもつ、そうしたより広い意味を究明することには学際的な研究方法が不可欠です。
 理論が文学研究をいかに左右してきたかを明確に示すのは、まさに花袋や自然主義の社会的な位置づけを試みた先行研究です。マルクス主義の立場を引く文学研究では、日本の自然主義文学と特にその熱心な主導者であった花袋の小説は「私小説」もしくは「告白小説」として批判的に解釈されました。私小説は小説家の実生活ばかりに目を向けて、社会性に欠ける小説として理解され非難の対象となりました。たとえば、先行研究は、小説『田舎教師』の「主観的感慨」や「ロマンチックな空想」、「半ば封建的な要素」を指摘して、この小説をさらに「社会環境の解剖の上にも、個人心理の分析の上にもつっこみが不足」している作品としてやや否定的に位置づけました。花袋は、ある研究者によって「少い天分」しか有さぬ「死ぬまで未完成の作家」と呼ばれたこともあります。花袋の自然主義文学は、「近代日本文学の歪み」をもたらしたとされ、「社会性の喪失」の原因として猛烈に批判されてきました。花袋バッシングは現在も見られます。最近、花袋や日本の自然主義文学全体を忠君愛国主義と結びつける論文が日本近代文学研究を代表する学術雑誌に発表されています*。
 しかし、一次資料を検討すると、そうした批判の根拠を見つけることは困難です。逆に、告白小説を小説として認めない、現実的かつ批判的な精神を重視する花袋の姿がうかがえます。たとえば、花袋は青年文学雑誌兼投稿雑誌『文章世界』(1898-1928)の記事において「此頃流行の告白といふ文字も甚だ無意味なことだ」とか「芸術が芸術家の日記として役立つばかりでは甚だ心細い次第である」という強い発言で告白小説を否定しました。さらに、花袋が投稿小説に添えたコメントとしては「小説を書かうと思ふなら、今少し抒情的調子――殊に、作者の書き加へた抒情的調子を去らなければならぬ」とか「今少し真面目に、研究的態度を取つて」といった助言が見られます。花袋はどの作家よりも真剣に自然主義に取り組み、青年投稿者たちにも同様の姿勢を要求したのです。
 思想的には花袋の忠君愛国主義どころか、むしろ彼と当局との対立関係が明らかです。花袋は『文章世界』の記事で小説家を従軍記者にたとえ、「真の従軍記者としての使命は、前後左右何等の顧慮を費さずして、たゞ軍(いくさ)のありのまゝの真相を伝へることがあるであらう」と小説家の自立性を主張しました。日露戦争後、文部省や内務省は社会的混乱を恐れて、「危険」と見なされた思想、とりわけ個人主義や社会主義、及び伝統・慣習・公徳・権力を批判的に見なす自然主義に対する抑圧を強化しました。しかし、花袋は新聞のインタビューにおいて自然主義小説の検閲に対して次の意見を述べています。「これが文部省当局者の方針ならば私達は極力反駁し尽す積りです、子弟を教育すると云ふ大きな頭から此自然派問題に対して文部省が多少でも我々に向て非難を加へるなれば夫こそ打放つては置きません、ソリやウンと論(や)りますよ」。花袋の文学作品もこうした態度を裏付けています。とりわけ、10代の若者として花袋の自然主義文学によって近代社会の矛盾に目覚め、のちに社会主義作家となった江馬修(1889-1975)や片岡鉄平(1894-1944)による証言は、自然主義が明治後期の青年たちに与えた強いインパクトを生き生きと語ります。たとえば、江馬修はのちに、明治末期の自然主義のエネルギーを1950年代のマルクス主義の影響力と類比させ、次のように語っています。「じっさい、あの当時の私たちは、現代(1950年代、引用者)の若い人がマルクス主義によって目を開かれ、生きる路を発見し、勇躍して闘争に立ち向ってゆくあの革新的なはつらつとした気持を感じとったのである」。このように江馬は明治末期から50年が経った後も自然主義の影響をまだ感じ続けていると証言しました。総じて、一次資料に立脚するのではなく、理論を研究の出発点とすることによっていかに異なった解釈に至ってしまうか、ということは明らかでしょう。

花袋と自然主義が果たした社会的な機能を明らかにする

 私は学際的な研究方法をもって主に一次資料に依拠することにより、社会において文学が演じてきた役割を検討する中で、これまで取り残された花袋と読者たちの間の密接な関係に新たな光を当てることができました。とりわけ教育史的背景は文学の生産及び需要とは切り離せないため、手短に説明しておきます。明治維新後、自由主義や個人主義に基づいた近代教育制度が導入され、立身出世主義という革新的な思想が若者たちに提供されました。よく頑張って勉強すれば大臣や実業家、軍人になり、美人と結婚し、東京の洋風の家に住むことができるという約束が国民全員になされました。この新たな理想と夢は教育、メディア、文学を通して若者たちの間に広がりました。急速に拡大した初等教育と中等教育は、上京して成功することを夢見る中程度の教育を受けた青年層を生み出しました。そうした青年たちの多くが上京を夢見ながら、経済的な理由や家庭の事情、教育制度の構造的な問題のために、結局のところ地方に留まり、たとえば小学校教員として生活を送ることになったという事実があります。出版文化の熱心な受容者であったこの青年たちは、青年向け雑誌を購読したり交換し合ったりし、さらにみずから創作作品も投稿しました。投稿文学作品を掲載した雑誌には、立身出世や恋愛にまつわる夢に耽ったり、そうした理想がもたらす苦痛や葛藤をロマンティックに描き出したりする短編小説や詩歌があふれていました。
 こうした歴史的な文脈に照らし合わせてみるとき、選者として学習雑誌『中学世界』(1898-1928)と青年文学雑誌『文章世界』(1906-1920)の懸賞小説欄を担当した田山花袋の姿勢は注目に値します。文学青年たちの間で尊敬された「花袋先生」は空想に耽ることを戒め、ロマン主義の代わりに自然主義の作法を読者たちに教えました。花袋は、現実社会、とりわけ自分の身の回りを観察し、それを文学の題材とすることをよしとしました。美文をもって読者たちを感服させるのではなく、飾り気のない文体で人間と社会を正確に描くべきであり、また、伝統や公徳から距離をとり、批判的精神を養って、物事について深く考察しなければならない、としました。恋愛について書くならば、その精神的な側面だけではなく、本能的で肉体的な側面も検討しなければなりません。成功について書くならば、その理想だけではなく、各個人の運命を定める環境の影響も研究しなければなりません。戦争を題材にするなら、英雄だけではなく、無意味な死を遂げた兵士にも注目しなければなりません。実に花袋は日本全国に散在した若者に対して新しい世界観をもたらし抵抗のエネルギーを喚起したのです。
 花袋と自然主義が果たした社会的な機能をこのように明確にすることによって、花袋論や『田舎教師』論に貢献することができますが、同時に近代社会と密接に絡み合うテーマを再考することも可能となります。たとえば立身出世主義の導入・受容・変遷の過程は政治小説、立志小説、ロマン主義文学、自然主義文学といった文学資料に基づいて検討することが有益です。こうしたテキスト群は立身出世主義を近代社会の構成要素として捉え、それぞれの時代に応じてその問題点と可能性を多角的に描いたわけです。また、中程度の教育を受けながら比較的周辺的な存在である「平凡」な人々が明治後期に多数登場しました。近代社会の過半数を占めるようになるそうした「平凡」な人々がどのように自分の生きがいを見出したかというテーマも、文学研究という方法で究明することができます。さらに、近代社会で様々な考えがどのように普及され、論じられ、問われてきたかという研究課題についても、明治期の地方社会において雑誌やその掲載文学が演じた非常に重要な役割を考慮すれば、何よりも文学研究の方法が有効であることが明らかです。要するに、文学研究を広い人文学・人文社会学の手段として工夫すれば、極めて有意義な研究方法になるのです。

有意義な文学研究の5つの特徴

 これで文学研究の意義という問いかけに戻りました。見てきたように、文学研究は狭く孤立した領域としてある限り大きな意義をもちえませんが、広く人文学の研究方法としては存在意義を十分に成し得ます。私の考えでは、人文学は人間と社会についての理解を深めることを目的とする研究分野です。個人として人生をどのように切り拓くか、あるいは共同体として社会をどのように組織するかという根本的な問題は、過去から現在まですべての人が直面してきたものです。したがって、これらの問題を取り扱う人文学という研究分野の重要性も明らかでしょう。また、これらの問題に対する解決策を見つけるためには様々な方法がありますが、歴史を通して人々がどのような生き方をしてきたか、あるいはどのように社会を構築してきたかを入念かつ客観的に検討することがまず肝要な課題となります。現在の人間と社会が有する特質や可能性、問題点などを把握するために、とりわけ近代の歴史を研究することが有効です。文学研究は人文学、私の場合、特に歴史学の手段として発展させることで、その学術的な有効性や意義を確かなものにできるのです。

以上より、有意義な文学研究を特徴づける次の5点が列挙できるでしょう。

l  研究が学際的であること

l  研究が既存の理論ではなく、十分な量の一次資料、すなわちデータを出発点とすること

l  資料の分析や論の発展が可能な限り公平かつ正確に行われていること

l  論点が、比較的平易で明瞭な言葉で説明されていること

l  研究の意義が明確であること

このリストには修正すべき項目もあれば、新たに付け加えるべき項目もあると思いますが、文学研究のありようの再検討を促すことができれば幸いです。

* 本講義で取り上げる引用の出典は、『「田舎教師」の時代――明治後期における日本文学・教育・メディア』の第III部、特に第9章を参照のこと。

本研究はJSPS科研費JP16J01716, JP21K20022の助成を受けたものです。

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