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漫文駅伝特別編 『アル北郷人生挽歌~続きを待てずに』㉚ アル北郷
「なんだ、猿岩石の実家に寄ってないのか?お前、それはダメだな。もう一回行ってこいよ」
約一か月に及ぶ、『犬岩石・ヒッチハイクの旅』から帰ってきたわたくしが、旅の報告をすると、ダンカンさんは気にいらない顔をして、冒頭の言葉を放り込んできたのです。
元々、この旅は当時放送されていた人気番組、「進め!電波少年」の中の「猿岩石・ユーラシア大陸ヒッチハイク旅」のパロディから始まったものです。それ故に、いくつかダンカンさんが決めたチエックポイントがありました。
1 広島の猿岩石(有吉・森脇両氏)のどちらかの実家に寄る事。
2 電波少年つながりで、山口の松村邦洋さんと、香川の松本明子さんの実家にも寄る事。
以上が、旅立つ前ダンカンさんがわたくしに課したチェックポイントでした。
で、松村さんの実家にだけ寄って帰って来たわたくしを、ダンカンさんは許さなかったのです。
そんなダンカンさんに、実際旅をしたこちらの言い分を言わせてもらえば、ヒッチハイクをして乗せてもらうトラックが、都合よく目的地に運んでくれるわけもなく、土台無謀なチェックポイントなのです。
松村さんの実家に寄って来ただけでも、充分に褒めて欲しいぐらいです。
が、そこは悲しいかな、たけし軍団という徒弟制度、先輩の兄さんが気に入らないとなれば、それは逆らえません。
ただ、帰ってきたばかりで、また冬の寒空の下、野宿覚悟のヒッチハイクの旅へ行かされるのは絶対に避けたい。
ですから、わたくしは目の前のダンカンさんに対し、精一杯不服な顔をしました。口に出して「嫌です」という勇気がなかったので。
が、これが逆効果でした。こちらが嫌がれば嫌がる程、ダンカンさんは意地になってわたくしを2回目の旅へ強行させる性格です。
結果から先に言いますと、わたくしはその日の夜、ダンカンさんの圧に負け、再度「犬岩石・ヒッチハイクの旅・シーズン2」へと旅立ち、1週間程かけて、広島の猿岩石のお二人の実家へ行き、東京へ戻ってくることになるのです。情けない・・・。
シーズン2の旅の詳細を、ここで長々と書くつもりはありませんが、一人だけ、大変思い出深いドライバーさんの事を書かせて下さい。
ダンカンさんと飲んだあと、新中野の居酒屋を出たわたくしは、「どうせ行くのなら早い方がいいな。ぱぱっと広島まで行って、ちゃちゃっと済まして戻ってこよう」と思い立ち、終電ぎりぎりの電車で用賀まで行き、東名高速、用賀インター前でヒッチハイクを決行。
4台目に声をかけた、なにわナンバーの大型トラックを転がす、憂歌団のボーカル・木村充揮さん似の50代ぐらいのおじさんが、「ええで。東京で荷物を下ろして、ゆっくり帰るつもりだったから、浜松あたりで高速降りて、のんびり下道で大阪まで行こうか?」と、ナイスな方で、快く乗てせもらうと、途中浜松でうなぎをごちそうになり、車中で一泊して大阪へ到着。
さらに、通天閣の真下の、大変おっかないあの地区の、一泊3000円程の簡易ホテルを取ってくれて、「ここで1日ゆっくり寝ていき。それと、夜は出歩かない方がええで」といったアドバイスを残し、わたくしのポケットに一万円札をさっと押しこみ去っていったのです。
で、その後もヒッチハイクの旅は恐ろしい程順調で、とんとん拍子に広島の猿岩石のお二人の実家へ行き、わずか一週間程で、東京へ戻って来ました。
人間、なんでもやっていれば上手くなるもので、二回目の旅では、乗せてくれるトラックと、乗せてくれないトラックの判別がなんとなく分かるようになり、やみくもに声をかけず、これ!と思ったトラックに効率よく声をかけ、なるべく体力も精神力もすり減らすことなくヒッチハイクが出来るまでに上達していたのです。
そんなこんなで、再度東京へ戻ってきたわたくしの元に、「犬岩石の旅について取材させて下さい」と、今は無き「週刊宝石」から取材を受けたのですが、これが思っていたより大きな扱いで、電車の中吊り広告に、でかでかと「君は知っているか?猿岩石ならぬ犬岩石を!日本横断、ヒッチハイク風俗の旅」と題された見出しの横に、わたくしの顔写真がどかんと掲載され、非常に恥ずかしい思いをしました。
さらに、事務所に断りをいれず取材を受けてしまったため、これが大問題となり、当時若手を仕切っていた、やたら威張りちらしていたマネージャーから、はっきりと無視をされる状態が続くことになるのです。
ちなみに、ダンカンさんの計らいで、雑誌「宝島」でも、4ページ分の取材を受けたのですが、こちらは大変紳士な取材で、少しばかり良い気分でした。
とにかく、罰として始まった犬岩石の旅も終わり、芸名も北郷注に戻って、水道橋博士邸に居候をしながら、またダンカンさんの付き人を務める日々が始まったのです。
そこから憧れの殿の付き人になるまで、約1年程かかるのですが、この1年は、それはそれは色々とありました。
博士の免許不正取得事件で、わたくしも立川署に連行されたり。
5年程付き合う事になる彼女が出来たり。
ダンカンさんとパンチパーマをかけ、「Wパンチ」といった漫才コンビを組み、独演会をやったり。
そして、相変わらずミスを重ね、しっかりと日々叱られたり。
とにかく、デタラメな日々を駆け抜け、なんとかわたくしは殿の付き人にたどりつくのです。
つづく。
*写真は辞めていった、『原田ブー』と、先日、20数年ぶりに会った時のやつです。