漫文駅伝特別編 『アル北郷人生挽歌~続きを待てずに』㊾ アル北郷
殿の運転手になったわたくしの食生活は、著しく充実したものとなっていました。
殿が仕事場から出前を取る、老舗洋食屋さんのステーキ丼。
殿の横で、綺麗な檜のカウンターに座り頂くお寿司。
殿の番組だからこそ出る、収録スタジオで頂く叙々苑の焼肉弁当。
今まで食したことのない、値段の張る食事ばかりが毎日続き、その結果、66㌔だった体重は、3ヶ月で72㌔にまで増殖したのです。
芸人の修行時代の定番トークである、貧乏ゆえに食えず、ひもじい思いをするといったものとは、真逆の状態でした。
そんな、殿回りの食事の中でも、以前こちらに書いた、Wのうな重は、わたくしの中で別格でした。
国産天然物のうなぎが、気の利いたのり弁のように、二枚重なるそのうな重は実に美味しく、付け合わせのおしんこと肝吸も抜群で、食べ終わった後の満足感といったら、それはもうほとんど理想でした。
ちなみに、現在このお店は閉店しているため、わたくしの中で、記憶に残る、もう二度と食せない幻のうな重になります。
その日はいつも通りわたくしが運転手。ショー小菅が助手席でナビを務める二人体制で、午後1時半、殿をお迎えにあがると、都内の某ホテルへ送り届けたのです。
この日の殿のお仕事は、映画「HANA-BI」の取材であり、入ったホテルで夕方まで、数社の取材をうける予定で、終わりは午後5時となっていました。
運転手は殿を現場に送り届ければ、基本、やることがなく、暇な時間が出来ます。
車の中で寝ていてもいいし、洗車や給油のため、現場を抜けてもいい。とにかく、現場で殿が仕事をしている間は自由でした。
が、この日は大好きな北野映画の取材という事もあり、わたくしは駐車場に車を停めるとホテルへあがり、殿にばっちり張り付き、殿が語る、北野映画の撮影方法や役者を選ぶ基準などの話を、興味津々で聞いていました。
そんな贅沢な時間が過ぎ、取材は終了。
「なんか疲れたな。昨日飲みすぎたから、今日は酒飲まねーで飯食って寝ちまうか」と、殿が大きな独り言をもらしたのです。
この時、殿の運転手になって3か月程が経ち、諸々馴れてきたわたくしは「お!今日は早く帰れるかもしれないぞ」と内心ワクワクしたのです。
殿の運転手は、殿が家に帰るまで帰れません。
殿が朝まで飲む。そうなると運転手も朝までコースです。
ですから、たまのこういったサプライズ的な早上がりには、自然と胸が高鳴る習性が身についていたのです。
そんな、‘‘今日は飲まずに早々に帰宅する予定の殿‘‘は、車にお乗りになると、「おい。00のうなぎ屋。あそこ何時からだ?」と、助手席のショー小菅に聞いてきたのです。
小菅は殿の行きつけの店のデータが全て入っている手帳を開くと、「18時からになります」とお答え。
殿「今何時だ?」
小菅「はい。5時21分になります」
殿「まだちょっと早えーな」
沈黙。殿はなにやら思案しているご様子。ひと間あって、
殿「よし。じゃーよ。青山墓地の前で待機だ」
小菅&北郷「はい」
殿は、約束の時間まで少しばかり余裕があると、よく、青山墓地の前で車を停め、時間を潰す事がありました。
ですから、この日もいつも通りといった感じで、わたくしは青山墓地へとベンツS600を走らせたのです。
墓地の前へ着くと、休憩中のタクシードライバー達が列をなしていて、やっとみつけたスぺースにベンツを駐車。
沈黙。車内はエアコンの音だけが響く。
当たり前ですが、すぐ後ろに世界の北野がいる訳です。緊張します。
そんな静かな車内で、殿が『ぷ~』っとオナラを致しました。
車内での殿のオナラは、わりとよくある光景ですので、わたくしも小菅も、何もなかったようにやり過ごします。が、この日は殿がオナラをした二秒後に、なぜか、常に24度に設定してあるエアコンの風が、急に一段パワーアップして、『ブーン』といった音をあげて、強風に変わったのです。
それはまるで、殿のオナラにエアコンのセンサーが反応したかのようで、これがやたら可笑しく、小菅とわたくしは眼を合わせ、必死に笑い声をこらえました。
すると、後ろの殿から、「おい、お前ら。肩が揺れてるぞ」と、‘‘何俺の屁で笑ってんだ‘‘的ツッコミが。そのツッコミでまた肩が揺れるわたくしと小菅。
世界の北野を相手に、こんな幼稚な事で笑っていていいのでしょうか?そんな疑問を抱きつつも、時間は過ぎ、
殿「おい。何時になった?」
小菅「はい、5時56分です」
殿「よし、じゃー行くか」
小菅&北郷「はい」
今日もまた、あのすこぶる美味いうな重が頂ける。
ワクワクしながらハンドルをうなぎ屋へと切り、程なくして到着。
店へ入ると、わたくし達が一番乗りでした。
いつもの個室に案内され、いつもの席につく殿。
殿と向かい合う形で座る小菅とわたくし。
この日も、う巻きや白焼きなどの前菜的うなぎ料理を堪能した後、いよいよ待ち焦がれたWのうな重が登場。
美味い!何度食べても美味い物は美味い!
殿はいつものように、かなりの早食いペースでうな重をたいらげている。
殿より早く食事を済ませ、お会計をして車を回さなくてはいけないわたくしと小菅も、殿に負けじとうな重をかきこむ。
個室で3人、黙々とうな重をかきこむ。ここでのいつもの光景です。が、この日は少しばかりのアクシデントが。
黙々とうな重を食していた殿が、「痛てっ!」と、いきなり声をあげたのです。
瞬時に箸を止め、殿に注目するわたくしと小菅。
と、殿は持っていたうな重をテーブルに置くと、右手を口の中に突っ込み、なにやら口の中を、虫歯でも確認するように、ごそごそとやり出したのです。
「なんだ? 何やってんだ殿?」(心の声)
突然始まった、殿の奇怪な行動に、困惑顔で殿を見つめるわたくしと小菅。
と、殿は口に入っていた右手を口から出すと、その右手には、小さな釣り針が!
「え! どういうこと?」(心の声)
目の前の釣り針を理解できず、さらに困惑顔で殿を見ていると、殿は一言、「天然物か・・・」と呟き、釣り針をテーブルの上に置くと、何もなかったように、またうな重を食べ出したのです。
「え!だからどういうこと?」(心の声)
驚き目をぱちくりしていると、横の小菅も、何もなかったように食事を再開したのです。
殿の口から出てきた釣り針に視線を向け、箸が止まっていたわたくしは、「そうだ、殿より先に食事を済ませなければ」と我に返り、一旦釣り針の事を無視して、再びうな重をかきこみ出しました。
釣り針が頭の片隅に引っかかったまま、無事殿よりうな重を先に完食し、会計を済ませ車を回したわたくしは、殿が車に乗るまでのわずかな時間に、「あの釣り針、なんですか?」と小菅に聞くと、「あーあれね。天然物のうなぎだとたまにあるんだよ。釣り針が残ってて、そのままうなぎにくっついて出てくるんだよ」と、さらっと説明したのです。そんな事があるのか。
しかし、よりによって殿のうな重にそれが起こり、弟子の見てる前で、釣り針が口から出てくるとは。うん。やはり殿は持っている。
そんな事を思いながら、店の前で殿を待つと、店から出てきた殿は、ベンツに乗車するとすぐさまティッシュを取り、口の中をごそごそやりながら、「口の中切ったな」と険しい顔で、小さな独り言をもらしたのです。
バックミラーで殿をちらりと確認すると、ティッシュが赤く染まっているではありませんか。
天然物のうなぎを食し、釣り針が出てきて口の中を切った殿。それでも何もなかったように食べ続けた殿。そして今、口の中の血を、ティッシュで拭っている殿。
そんな殿を見て、つい、ニヤついてしまったわたくしを殿は見逃さず、「北郷、何が可笑しいんだよ」と、まずは軽くツッコむと、続けて「お前この話よ。俺が釣り針で口切って、だらだら血流しながら、うな重食べたって話にしていいぞ」と、何とも素敵な指示を出してきたのです。
もちろん、この時の話は、少しばかり色を付けて方々で語り尽くしました。
殿、その節は素敵なエピソード、ありがとうございました。