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漫文駅伝特別編 『アル北郷人生挽歌~続きを待てずに』㉓ アル北郷

1995年、秋。憧れの‘‘殿‘‘の元へ、弟子入りを志願したわたくしは、諸々あって、翌日からダンカンさんの付き人を務める事に。
が、持って生まれたポンコツぶりを遺憾なく発揮し、付き人稼業でミスを連発。その結果、罰的な意味合いとして、ダンカンさんの発案により、当時一大ブームを巻き起こしていた、「猿岩石・ユーラシア大陸・ヒッチハイクの旅」のパロディとして、芸名を犬岩石と命名され、一切交通費を使わない事を条件とした、ヒッチハイクで宮崎県まで行って帰ってくる旅に出されたのです。

季節は11月。新中野から始まった、犬岩石の旅は、トラックを乗り継ぎなんとか名古屋にたどり着く。
で、諸々ありまして、店舗型のファッションヘルスにて2週間程働いたあと、今度は大阪へ。大阪で一晩野宿的に過ごしたあと、戻る形で京都へと辿りついたのです。なぜに京都?説明します。

名古屋のヘルスで働いていた時に知り合った方から、“もし京都に行く事があったら、この人に電話してみるといいよ。面白い人だから、きっと何かしら面倒みてくれるよ”的な言葉を添えられ、その方の電話を教えてもらっていたのです。

で、大阪で全く知人友人のいないわたくしは、京都へ早々に向かったのでした。
ちなみに、犬岩石の旅の基本ルールその①『一切交通費を使わず、移動はヒッチハイクで』のルールを破り、大阪から京都までは電車移動を選択。

その交通費は、旅に出される前、ボディチェックにてダンカンさんから一切の金品を取り上げられていたわたくしだったのですが、靴下の中に隠し持っていたわずかな金を使用して京都へ。なんにだって、少しのズルがなければ、人間はパンクしてしまいますから。

とにかく京都へ辿り着き、早々に‘‘京都の面白い人‘‘に電話を入れると、話は通っていて、「おう!聞いてるわ。すぐおいで」と、なんとも頼もしい返事が。で、京都駅から徒歩10分、教えられた住所に辿り着くと、そこは「DX東寺」というストリップ小屋だったのです。

初めてストリップ小屋、「DX東寺」を目にした時は、「え?こんなとこにあんの?」とかなりびっくり致しました。なにがって?
古都、京都の地にて、歴史や由緒ある建造物が四方に散らばるこの町で、駅ちかの場所に、昼から公然と女の裸を見せて、それを生業としている建物が普通に存在している事実に驚きました。

そんなカルチャーショックを感じつつ、恐る恐る受付で「あのー、先程電話した犬岩石ですが・・・」と名乗ると、受付に居たハッピを着た年配の方は、‘‘聞いてますよ‘‘とった感じで、「どうぞ」とスムーズに中へご案内。

案内された先は、ストリップ小屋の客席ではなく6畳程の狭い事務所で、そこには、見た感じ35歳くらいに見える、太平サブロー師匠によく似た男性が、皮張りの椅子に座っていたのです。

勘の悪いわたくしでも、“この方が電話で喋った、京都の面白い人”だという事が分かり、「初めまして、たけし軍団の犬岩石です」そう当たり前の自己紹介を述べると、そのサブローチックな顔した男性は、「島田です。よろしく」と名乗ったあと、間髪入れず、「どや?今から舞台に出るか?」と、いきなりとんでもない提案を放り込んできたのです。

舞台?出たとこで一体何をするのだろう・・・不安な顔のわたくしに、サブローチックな顔の島田さんは、「ちょうど今から、前半の部の休憩が15分あるから、舞台出て、なんか喋るか?」と説明してきたのです。

この時、“ここで断ったら、つまらない奴だと思われてしまう”といった思いから、即答で、「はい。お願いします!」と元気よく、が、内心はビビりながら返事を返しました。だって、25歳のこの当時のわたくしは、コンビで客前で漫才をやったことが数回あるだけの、経験値の無い芸人の駆け出しであり、しかもピン、一人喋りなど全くやったことのない、只のヒッチハイカーみたいなもんでしたから。

そんなこちらのビビりなどお構いなしに、すぐに舞台袖へ案内され、口から五臓六腑全てが飛び出しそうな程、ド緊張して舞台袖で躍るストリッパーを見ながら、「何喋ろう?とりあえずはダンカンさんに命令されて始まったこの旅についてのいきさつを、出来るだけ面白可笑しく喋るしかないか・・・」
と、ぼんやりと頭の中で整理して、出番を待っていると、わたくしと同じ年頃の、若いあんちゃんがこちらにすたすたとやってきて、「俺、ここで司会やってる般若文章。よろしく」と暗い袖で挨拶をしてきたのです。

「あ、始めまして。さっき来た、たけし軍団の犬岩石です。お世話になります」恐縮してご挨拶すると、そのあんちゃん、「いきなり来て舞台に出ろって、島田さんもキツイよな。もしあれだったら、一緒に出て、俺が色々聞く感じで二人でやろうか?」と、願ってもないやり方を提案されてきたのです。

二つ返事でその提案にすがりつき、程なくして踊り子が舞台からはけ、すぐさま出番となり、なんの打ち合わせもないまま、わたくしと般若さんは舞台へ。

東と西で違いはあれど、憧れの師匠、殿がかつて修行した、ストリップ小屋の舞台に、いみじくもわたくしも立てた瞬間でした。

で、舞台へ出てびっくりしたのは、その客の多さです。
平日の昼だというのに、客席はぎっちり満員で、立ち見が出ている程の客入り。

で、これは後になって分かるのですが、当時、DX東寺は「素人:女子大生大会」と銘打って、顔に目元が隠れる程度の仮面をかぶった、アルバイトで雇った裸の女子大生7,8人を舞台に上げ、ジュリアナ東京的な、ディスコ的な乗りで、皆勝手に踊りまくるイベントが大当たりしていた時期で、連日超満員を記録したのです。
そのイベントの仕掛け人が、わたくしに会ってすぐ、「どや?舞台に出るか?」と提案してきた、DX東寺の専務、島田さんでした。

当時、島田さんはストリップ界の風雲児と言われ、マスコミからの取材をひっきりなしに受けてもいた。
それまでのストリップといえば、プロの踊り子、訓練をつんだプロ意識の高い女性が上がる場で、けして素人がおいそれとは上がれる場ではありませんでした。
そこに、ただのアルバイト感覚で、訓練などしたことのない素人を投入して、好き勝手に若い子に踊らせたわけです。これが、客には新鮮だったらしく、とにかくうけたのです。

で、わたくしのストリップ小屋初舞台です。

時間にして10分程、般若さんの質問に答える形で喋ったのですが、これが、まさかの、信じられない事に、それ程すべらなかったのです。
わたくしの拙い喋りを、満員の客はわりと好意的に聞いていて、リアクションも良好で、ざわざわと笑いが生まれたのでした。

とりあえずなんとか、滑りまくりの事故を起こさず、舞台を降りたわたくしは、「ありがとうございました」と般若さんにお礼を述べると、「全然あの感じでいいじゃん、自分、次は一人でできるんちゃう?」と。
え!次もあんの?

そして、島田さんにも「ありがとうございました」と礼を述べると、「ここにいる間は、つまらん雑用はやらんでええから、合間見て、舞台に出て喋ればええ。自分の練習にもなるやろ?」と、さらっと述べたのです。

うん?ここにいる間・・・・。
そうです。この日から、わたくしはストリップ小屋『DX東寺』にて、住み込みで、舞台に出て喋る修行の日々が始まったのです。

つづく。

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