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人、動き、運動指導 2024.11.8に思ったこと
2024年もぐんぐんと日が過ぎていきます。
2028年の引退に向けて、そこまでに何をどうすればいいのか、、、をぼんやりとだけど、でも常に考えています。
2024年は、「痛みと運動」について少し焦点を当てて考えた年でした。
痛みのない人生はおそらく存在しない。
なぜなら、痛みとは「心理的でもあり、身体的でもあるから」
体が痛くなくとも、心が痛みを抱えていることもある。
そんな「痛み」の影と並走する私たちにとって、その切っても切り離せない「痛み」とどう付き合うことができるのか、その付き合い方をどうすれば変えていけるのか、変えなくとも少なくともその正体を理解することができるのか、、、そんなことを考えた。
基本は「痛みがあっても幸せでいることはできる」という考え方。
「痛みがあることは不幸の始まりではない」ということ。
逆に、「痛みを通して自分を学び、痛みからの解放が自己組織の再構築につながる」と考えている。そもそも痛みがある=自己形成、自己組織化のなにか、自律神経系機能のバグの表れともいえるのだから。
「一瞬でもあの痛みが消えた」
そんな時間を過ごすことはできる。
何かに夢中になる
誰かと一緒に時間を過ごす
そうやって人は痛みを超えることができる瞬間を経験する。
私が運動を人間形成とつなげたのには理由がある。
運動というよりは、「感覚」を人間形成につなげたといったほうが近いのかもしれない。
「自分の感覚を明確に表現できる人」と「自分の感覚がわからない人」
この2つの間にはなにかはわからないけど、結果圧倒的なパフォーマンス、安定性、自己受容に違いがある、、、と。
「明確に表現できる」と書くと、それがいったい何でどのようなものなのか、をはっきりと言語化すること=明確な表現、と受け取られがちだけど、実際はそうではなく、「さっきとは何かが違う」ということも感覚の違いを
理解していることに入る。
理屈はいらない
「ただなんとなく何かが違うことはわかる」
それこそが大事。
その曖昧さを許さない、決まりきった何かを押し付けるような運動指導(トレーニング)がアスリートの可能性をつぶしている、、、と思ったあの頃(多分27歳頃)
私は基本、周りが当たり前と言っていることに疑義を呈したい人。
大衆が良いというものは、「マジっすか!」、「いや、みんなが良いなんて言うものあるわけないでしょ」って言いたくなる人。
ただその中でも、みんなに良いものは存在することも知っている。
そこには、誰しもに共通して存在する何かが連携して存在している。
A-Yogaでいえば、人という存在を考える上での原理原則で
感覚と運動(知覚行為循環)
動的平衡(福岡伸一先生)
適応
予測予期
感覚・知覚・情動・感情・心(Dr. Antonio Damasio)
右脳と左脳(Iain McGilchristの考え方)Youtube(英語ですが、Duke Universityでの講義)
自由エネルギー原理(Carl Friston)
Fascia
自律神経系(ポリヴェーガル理論)
自己効力感
まだまだあげればあるけど、こういった原理原則がお互いを支え、お互いとつながり、お互いの隙間を埋めて人が存在する。
どの理論も私自身の理解がまだまだ中途半端ではあるし、もっと深いつながりを見つけていく必要はあるとも思うけど、今はこれまで出会ってきた多くの人が教えてくれたことの説明が、これらの理論によってより理解、説明できる形に近づくと思っている。
A-Yogaを運動指導ではなく、動作教育とした意味。
「動作を教育すること」と、「動作を通して教育すること」
その両方の意味を持つ。
2025年、「動作教育」をさらに何かの形に作り上げていきたいと思う。
そのためには「動作教育が何をもたらすのか」それをさらに考えていく必要があるな、、、と。