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専門性を高めるためには

東京は雨

窓に流れる雨の雫も綺麗ですよね。

雨垂れレースみたいに、どれが先に落ちるだろう、、、って観察したりして(暇か!)

昨晩は、動作学のオンラインサロン「動作学プラネテス」で、読書会がありました。

今回はこちらの本

「人類学」

あまり聞きなれない言葉ですよね。

近年ではユヴァル・ノア・ハラリさんが書いた「ホモサピエンス全史」により、人類学という分野が脚光を浴びていると思いますが。

本自体はページ数も少ないので、すらっと読める感じのボリューム感。

でもとっても興味深い言葉がたくさんありました。

本を読み始める前に、タイトルを見て、そして表紙の下にある一文

「わたし」という檻から出るために

とあり、何を意味しているのだろう、、、って思いながらスタート。

人類学は教養教育(リベラルアーツ)と言われる分野に含まれています。文化人類学とか比較人類学とか、人類学にも様々ですが、wikipediaによると人類学とは、

「人類学(じんるいがく、英: anthropology)とは、人類に関しての総合的な学問である。生物学的特性について研究対象とする学問分野を形質人類学もしくは自然人類学と呼び、言語や社会的慣習など文化的側面について研究する学問分野を文化人類学もしくは社会人類学と呼ぶ。さらに言語学や考古学、民俗学や民族学、芸能も包括する。」

と、書かれています。

なんとなく色々な文化や種族や民族や言語を研究するんだなってわかった気もしますが、大事なのはなぜそれが存在するのか、、、ということ。

上に紹介した著者の松村さんによると、自分自身が研究でさまざまな文化やエリアに接する事で、「相手を通して自分を知る事」に気がついたと言ったようなことを書いていました。

自分という存在は、他者がいるからわかる。

親がいるから、私は子であるということがわかり、韓国人やフランス人やエチオピア人がいるから私が日本人である事がわかる。(ちなみに本の中で、近接性と言うのも自分を知るキーであると同時に、近いから生まれてくる感情もある、、、と。たとえば、隣国の韓国や中国に対しては、嫌韓とか嫌中と言う言い方はあるけど、嫌エチオピアとか嫌ジンバブエとかは聞かれない。地理的な近接感だけでなく、文化や産業、ライフスタイルの近接性もおそらくあるから、嫌米、嫌仏とかが存在するのだろうと思う。)

話を戻すと、つまりは自分の外に自分とは異なる何かが存在するから、私を知る事ができる。それが表紙の下の一文に表現されているのかなって思っています(本の中にはもっといいお話がたくさん書かれています!)

そしてタイトルの教養

人類学は教養の一つであり、その教養は何のために存在しているのか?

filter book laboによると(リンクは下に)

教養ということばの意味

知覚できる世界を広げる
 ”教養”という言葉に対し、幅広く知識を知っている、会話が途切れない、といった具体的なイメージを持つかもしれません。
 しかしながら、大学教育などの中で重要視されている”リベラルアーツ(教養教育)”は、元来、人々を束縛から解放し生きるための力を育むことを目的としています。考える力や考えるための材料がないと、人々は特定の考えに束縛され、物事を深く理解することができないためです。
 また、『人間にとって教養とはなにか』を執筆された橋爪大三郎氏は著書の中で「教養は、自分の狭い範囲を越えていくためにある」と言及しています。すなわち、教養とは自分の思考の枠を越え、知覚できる世界を広げていく能力のことを意味します。


と、書かれています。
なんて素晴らしい学問でしょうか!

また教養は専門性を高める上での土台になるとも言われています。

こちらは横浜市立大学のサイトからの引用ですが、

(一般教養という意味で、大学で教養科目を学ぶという事の意味についての文脈で書かれています)

「一般的には専門教育に入る前に学ぶことには2つの意味があるようです。1つは、専門の基礎となる知識や方法論を身につけること。そして、もう1つは、将来専門だけを学ぶようになっても、ものの見方、考え方に偏りが生じないように、他の分野の知識でバランスをとることです(以前は、専門知識だけに偏った人間を「専門バカ」といって批判したものです。この言葉が端的に示すように、以前はバランスを重視していたことがわかるかと思います)

そしてこの文章の最後の一文は
「教養とは問題解決能力である」で締められています。

これらから言えるのは、

教養とは
自分を知ることでもあり
自分の狭い枠を越えることでもあり
専門性を高める基礎であり
問題解決能力でもある。

私たちは日々生活をしている。

私であるという事を感じながら、その私であるを探しながら。

色々な方と接する中で、自分らしく、自分の持っている力を誰かのために、その専門の中で最大限に発揮できている人は、「私とは?」という問いを忘れていないし、他者が存在する事で「私」がいることも理解しているし、その他者と比較することの愚問も理解しているし、教養の土台があるから、専門知識を学んだときも、そこで問題意識、問題の本質、問題解決、課題の発見する思考が身についていると思う。

今時、どこでもオンラインで専門的な内容のセミナーを学ぶことができるようになった。

いつもいうのは、how toは問題の解決にならないし、知識と情報は違うし、知識と教養もまた少し違う。

専門的な情報や用語を学ぶと同時に、教養を育てるための時間を、専門のそれと同じくらい費やしてみたらどうだろうか。

そのために、filter book laboで書かれていたのは

「では、どうすれば”視点”を増やし、教養を身に付けることができるのでしょうか。具体的かつ身近な手法をご紹介します。

人の話を聴く

 学びの機会は日常にも転がっています。誰かの話を聞くと、最も簡単に新しい視点に触れることができます。なぜ相手はこの発言をしているのか考えながら聴くと、気づきが増えるかもしれません。 

人に話す

 人の話を聴くことと同じくらい、人に話すことも重要です。自分の考えを伝え、他者との違いを感じることで自分が持つ視点をメタ的に理解することができます。

 また、いつも同じ人と会話をしている人も多いかもしれませんが、なるべく違った考えを持った人に話すことで教養はさらに磨かれていきます。」

と、書かれていました。(他にも紹介されています)

本当にその通りで、人との対話ができる環境を大切にする事が大事。

A-yogaの認定講習やセミナーでは、必ず対話の時間を取ります。専門的な事を学ぶのに、なぜ自分の考えや相手の考えを共有するのか。そう言う学びに慣れていなくて、方法や技術を学びにきたと思う人にとっては、まどろっこしくもあり、早く教えてって思うかもしれない。

でもそのスタイルを続けるのは、問題解決をする役割の私たちが持つべき、教養を育てるという意味合いもあります。

他者を通して自分を知り
そこから広がる未来がある

(来年1月からのA-yoga Movement Coach養成講習(京都)は満席になりました㊗️。来年は仙台で6月スタート予定)

対話をしよう!
教養を見直してみよう!

追伸:日本で唯一、リベラルアーツ大学のアライアンスに属するTheリベラルアーツ大学は、ICU。ぜひICUのリベラルアーツに対する熱い思いもこちらのサイトからご覧ください!

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