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幻想短編小説「レディ・グレイの肖像」(前編)

 十八歳の年、亡き祖母の生家を管理することになった私は、そこで不思議な体験をした。

 その時起こった出来事をもし誰かに話すことができるとすれば……私はきっとその人を、生涯の伴侶に選ぶだろう。

***


「あの、うちに何かご用ですか?」

 鈴虫の鳴き声が木霊する庭先に、見慣れぬ男性が一人、立っていた。 

 祖母が晩年を過ごしたこの古い日本家屋を訪れる人はもう何年も見ていない。

 だというのに、今日この日、夕日の影から浮き出たように彼は私の前に現れたのだ。

「鷹匠墨子《たかじょうすみこ》サンは、イマスカ?」

「えっ、祖母ですか……?」

 さわさわと秋の草が奏でる音と共に聞こえたのは、程よい低さのバリトンだった。
 片言の声に思わず質問で返してしまった私は、目の前の男性が日本人ではないことに漸く気が付いた。

 よくよく見れば男性は薄い緑の目をしている。
 深い皺の刻まれた面は彫り深く、高い鼻梁と形良い顎先から若かりし頃は相当な美男子だったであろうことが推測できた。

 髪色はシルバーグレーに近く、背の高さは百八十をゆうに越えているだろう長身だ。年齢は六十代から七十代といったところだろうか。
 初老を迎えた紳士、という風体だ。

 もしもこの男性が執事服を身に着ければ、きっと映画のワンシーンのように似合うだろうと暢気にも思った。

「ワタシは墨子サンに、アイにキタのでス。レディは、オマゴさん、デスカ?」

 男性はそっと私に歩み寄ると、優しい笑みを浮かべてゆっくりそう尋ねた。男性は物腰も口調も柔らかで、淡い乳白色のシャツは襟がぴんと張って糊が良く利いている。
 上に着ているのは深い森を思わせる濃緑のベストだ。編み目の細かさと上品な質感から安物ではないとすぐに分かる。肌触りの良さそうな茶色いスラックスも、中心に綺麗な折り目の線が真っ直ぐ走っており洗練されていた。

 前髪から全体を後ろに撫で付けた髪型もこれ以上ないほど男性に似合っていて、まるで英国の上流階級に属する人間に見えた。

 祖母の知り合いのようだが、一体どういった関係だろうか。
 男性は片手に何か四角い包みを携えている。

 私はつぶさに相手を観察しながら、紳士の質問に縦に首を振った。

「はい。私は鷹匠栞、と言います。墨子は私の祖母です」

 肯定すると、紳士が一層笑みを深めた。嬉しそうに緑の瞳を細めた表情には「ああ、やっぱり」という言葉が滲んでいるようにみえる。

「ワタシは、ウィリアム・コナーといいマス。墨子サンは今日、イマスカ? 会いたいのデス」

「あの、祖母は……四年前に亡くなったんです」

 笑顔で祖母に会いたいと言う男性、コナーさんに真実を告げるのは心苦しかったが、言わなければ話が始まらないため仕方なく私は事実を告げた。

「え……」

 するとコナーさんの表情がさっと青褪め、信じられない、とばかりに緑の瞳が見開く。

 りりり、と。
 鈴虫が一際高く鳴いた。

「ソンナ……」

「四年前の冬に、脳梗塞で。……ごめんなさい。祖母のお知り合いの方には全員連絡を取ったと思っていたんですが」

 祖母が亡くなったのは突然のことだった。
 前日まで元気に庭の草むしりをしていたくらいだ。

 なのに、翌日に彼女は台所で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。

 もしも祖母が一人暮らしではなく、誰かと一緒に住んでいたなら、助かっていた可能性もあったかもしれない。それが私には悔やまれる。

 けれど祖母はもう何十年も独りだった。

 十八で見合い結婚をし、その後二十五歳で祖父を失った彼女は四十の年に私の父が独立してから、七十を迎えるまで再婚もせずに暮らした。他人にも自分にも厳しい人だった。

 祖母は華道の師範として多くの生徒を教えたけれど、六十五になるとすっぱり辞めてしまうような、思いきりも良い粋な人だったのだ。
 まあ、孫の私には、小言ばかりだった記憶しかないけれど。 

 遺言などの準備もしていなかったことから、本人もまさか突然亡くなるとは思っていなかったのだろう。

 幸い父は一人息子だったため、遺産などで揉めずに済んだが、困ったのは訃報を伝える人間の連絡先だった。

 祖母の家をくまなく探し、手書きの電話帳にあった名前へ順に連絡は入れたものの、それ以外についてはわからなかったのだ。 

「ワタシは、間に合わなかったのですね……コレを、墨子サンに渡すハズだったのに」

 言って悲痛な表情で彼が取り出したのは、手に持っていた妙に薄く、けれども大きく四角い包みだった。紫色のちりめん生地で出来た風呂敷に包んである。彼はそれを片手で解くと、風呂敷をさらりと抜き取り私の前で掲げてみせた。

「えーーー?」

 中身は布張りのキャンバスだった。額装はされていない。

 だけど私は一瞬、目の前に『影』が現れたのかと、錯覚した。

 日は夕暮れに色付いていたというのに。

「もしかしてその絵、お祖母ちゃんですか?」

「ハイ。墨子サンでス」

 驚きながら言えば、男性、コナーさんは嬉しそうに、けれど少し寂しそうに眉尻を下げてふっと微笑んだ。

 彼が手にしているのは一枚の油絵だ。

 そこには片目を髪で隠した一人の女性が描かれている。

 豊かに波打つ髪をもった、色気のある大人の女性だ。
 黒地の着物に身を包み、じっとこちらに視線を向けている。
 その凜とした顔立ちは、歳は違えど私が覚えている祖母墨子そのものだった。

「これは貴方が、コナーさんがお描きになったんですか?」

「ハイ。ソウです。ああ、ワタシのことはウィルとヨンでくだサイ」

 私は視線を絵から外さないままコナーさんに尋ねた。
 すると彼が頷く気配がして、先程より少し明るい声でそう言ってくれる。

 私の目は絵の女性、つまり絵の中にいる祖母に向いたまま。

 その時急に、りりりーーーと、鈴虫の泣き声が止んだ。

 庭で伸びた雑草と、すすきが風に揺れる音だけが聞こえる。
 鳥の声は遠く、視界に無いはずの雲が空を流れ行くのを感じた。

 そんな中、私の唇がひとりでに動く。

「あの、庭先で立ち話も何ですから、良ければ中へどうぞ。今日は私しかいませんが……」

「イイんデスカ?」

 気が付けば、ウィルを家に招いていた。言った後にあれ?と自分に疑問を抱く。
 普段なら、たとえ祖母の知り合いといえど初対面の人間を家に招いたりなどしなかっただろう。何しろ時間も夕刻を過ぎ始めている。
 それに、家と言ってもここは祖母が残した家だ。
 私の父にとっての実家になるが、今は私も父もここには住んでいない。

 祖母が亡くなり管理する人間がいなくなったため、大学への推薦入学が決まり暇だった私にそのお鉢が回ってきたのだ。

 そう、私は偶々ここに居合わせただけなのだ。
 ウィルに出会ったのも偶然でしかない。

「はい。祖母のお話を……その絵について、是非お聞かせ下さい」

 けれども私はなぜか今彼を家に招かねばならないと、そう強く感じたのだ。
 理由は二つ。

「嬉しいデス。感謝シマス」

 玄関へと促すと、破顔したウィルが私を見つめて目を細めた。
 だけど、彼の緑の瞳が見ているのはもっとずっと遠く、私の向こうにある祖母の面影のように思えた。

 目尻に皺を刻んだ瞳に覗くのは確かな憧憬と、そして、甘やかな恋慕の念だった。もしかしたら彼は祖母のかつての恋人なのだろうか。
 厳格だった祖母から浮ついた話は一言も聞いたことがないけれど、そんな好奇心が湧き上がる。

 そして気になることはもう一つ。

 彼が描いたという祖母の油絵は、普通とは少し違っていた。

 何しろその油絵は『色』を使っていなかったのだ。

 あるのはただ一色。
 『灰色』だけ。

 まるで祖母墨子の名にある墨の濃淡だけで描いたように絵は灰色一色で塗り尽くされていた。

 私は色の無い祖母の絵を持つウィルを玄関に招き入れ、山の稜線に吸われる夕日を見送りながら戸を閉めた。
 絵のせいだろうか。

 家の中に、祖母が帰ってきたような、そんな不思議な気配が漂っていた。


後編へ続く

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