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双葉荘 最終章

九、証

あの日から、もう2年と4ヵ月の月日が流れた。坂の途中から見る風景は、あの頃と少しも変わっていない。『双葉荘』はあの頃の私にとって、一体何だったのか…何故私はあの不思議な体験に導かれたのか…もう一度、何かを確認したいと思うようになっていた。

坂の途中に、当時と全く変わらぬ『双葉荘』の姿があった。道から見える二階のベランダ…雨戸が閉められている。懐かしさが胸に込み上げる…小さな石の階段を上がる…

美江が言った通り門に備えられた2つの郵便受けには、誰の名前も記されていない。門を開け、敷地に入る…人の気配はなさそうだ…沙季さんが置いていったのだろうか、奥には以前と同じ自転車が錆びついてそのまま置かれていた。今はもう、誰も住んでいないようだ…

美江は、あれから遂に沙季と再会することはなかった。暫くの間はこの辺りには近付きたくなかったらしい。そのうち、沙季の方から連絡があると思っていたが、何も音沙汰がないまま月日が流れてしまっていた。

せめて、消息だけでも確かめてみようと、寺田夫妻を訪ねることにする。寺田はあれ以降、何も言ってこなかった。私の脅しが余程堪えたのだろう。別にこれ以上彼を責めるつもりはない。沙季の消息を訊ねるだけだ…自分にそう言い聞かせた。


「まあ、随分と御無沙汰でしたねえ…」玄関の扉を開けると、出迎えたのは寺田夫人だった。
「どうも…その節は、いろいろとお世話になりました」
「どうぞどうぞ…その後、どうしてらっしゃるのかと思ってたんですよ」夫人の表情は以前よりも柔らかくなった気がした。

「ええ、結局、妻とは別れまして、今は実家の方に戻っています。あの…御主人は?」
「主人は…川村さんたちが越されて…そうねえ…ちょうど半年後に亡くなったんですよ」
「え?寺田さん、亡くなられたんですか?」
「ええ、脳出血で…あっと言う間だったんです…あ、少し待って下さいね。お湯沸かしてたから、今お茶入れてくるわ」
「あ、恐れ入ります…」

暫くすると夫人は盆にお茶を乗せ、戻ってきた。
「どうぞ…そうだったんですか、仲の良さそうなご夫婦だと思ってたのにねえ…」夫人はそう言いながら私の前に湯飲みを置いた。

「いやあ、今でも仲はいいんですけど…夫婦を続けるにはちょっと、お互い、何て言うか…愛情のすれ違いがあるんで…」
「あら、そんなこと言ったらうちなんて、一日だってもたなかったわよ…」夫人は自嘲的な笑みを浮かべる…

「御主人とは長かったんですか?」
「40年…でも、最後まで分かり合えることなんてなかったわよ」
「でも、愛し合ってたんでしょ?」
「さあ…父親が決めた結婚ですから…そりゃ、家のことはきちんとやってくれるし、真面目だし、嫌いじゃなかったけど…あの人女にはだらしなかったから…あら、あたし、何言ってんのかしら…ふふ…ご免なさいね。最近何だか人恋しくなっちゃって…あんな人でも居なくなると、やっぱり寂しいのねえ…」

「寺田さんは、お子さんはいらっしゃらないんですか?」
「息子が一人いたんですけど、十代で病死しまして…生きてたらちょうど川村さんと同い年。最初うちにいらっしゃった時、ちょっと感じが似てるんで、びっくりしたんですよ。お帰りになってから、主人と話してたの。リョウちゃんに…息子に…似てるねえって…生きてたら、あんな感じだったのかなあって…そうそう、あたし、川村さんに是非お伺いしたかったことがあるんですけど、いいかしら?」
「何ですか?」
「もし、お答えづらいことがあるんでしたら、仰らなくて結構ですから…あの…川村さん、あの時、突然引っ越されましたよね?」
「ええ…」
「あれって…何かありましたの?あの…何か主人とトラブルでも、あったんじゃないかって…あの後、主人の様子が急に変わって…何だか…神経質になって、苛々してる感じで、外出もしなくなって…ほら、川村さんの奥さん、お奇麗だったから、主人が変なちょっかいでも出したんじゃないのかしらって…ちょっと、心配してたんです。ご免なさいね、変なこと訊いて…」

「いえいえ、そういうことじゃないんです。あの…あの家なんですけど…変なものを見るんです」
「変なもの?…」
「ええ…亡霊みたいな。で、いろいろ訊いてみたら、随分前にあの家で自殺された方がいるって…それで、家内が気持ち悪いって…で、急に出ることにしたんです。御主人にはそうお話ししたんですけど…」

「ああ…そうだったの。本当にご免なさいね。主人たら、何にも言わないんだから…あの…今更言っても、弁解にもなりませんけど…あたし、あそこお貸しするの、本当は反対だったんです。以前にあんなことがあって…やっぱり変な噂が立って、暫く借りてくれる人もいなかったんで、もう取り壊しましょうって、ずっと言ってたんです。でも、あの人、勿体ないから、暫く寝かせて、そしたら噂も落ち着くって…内装を手を入れれば充分高く貸せるって…だから、川村さんたちにお貸しする時も、私はやっぱりお断りしましょうって言ったんですよ。でも、あの人強引にお話進めちゃって…本当にすみませんでした。ご迷惑お掛けしたわねえ…まさか、それで奥さんとお別れになった訳じゃないんでしょう?」
「いや、それはまた、プライベートな問題がありましたんで…なるほど、それで奥さん、何だか嫌がってたんですね?」
「あら、そんな感じがしました?」
「ええ、結構しました。俺たち嫌われたのかなって…はは…」
「嫌った訳じゃなかったのよ。でも、奥さんがお奇麗なんで、ははあ、成程って…また、変な病気が出たかなって…嫌あねえ…あんな主人持つと気が休まる暇がないのよ。今はちょっと暇過ぎるけど…ふふ…」

「あ、そうだ。実は今日はちょっとお伺いしたいことがあって来たんです」
「あら、ご免なさい。私ったら、自分のことばっかりお話しちゃって…何ですの?」
「えーと…八井さんのこと御存知だったらお伺いしたいんですけど…」

夫人の表情が変わった…眉間に皺を寄せ、怪訝そうに私に訊き返した。
「え?…八井さん?…って、仰った?…」
「ええ、ほら、うちが入居してた時に、双葉荘の隣に住んでらっしゃった、八井沙季さんですよ。随分仲良くして頂いたんで、何処にいらっしゃったのか御存知かと思って…」
「あ、あなた…冗談で仰ってるの?嫌がらせなら、怒りますよ…」夫人の声は震えていた。

「いえ…沙季さんと僕たち、あの、入居した日から2年間ずっと仲良く付き合ってましたから…あの郵便受けにお名前が無くなってたんで…連絡先をお伺いしようかと…えーと…」

夫人は真剣な眼差しで私の目をじっと見つめていたが、やがて間を空けてゆっくりと、私の話を確認し始めた。

「本当に…八井沙季さんなのね?」
「ええ…ここ初めて見に来た時から、隣の郵便受け『八井』って書いてありましたよ」
「いい?あなたたちにお貸しした家の隣は、誰にもお貸ししていません。もうずっと、うちの荷物置き場になっていますから。あの自殺騒ぎがあってから、暫くはお隣の方だけはお貸ししてたんだけど、それでもみなさん気味悪がって、すぐに退去されるんで、それからずっと…もう20年以上、あそこにはどなたも住んでませんよ」
「ええっ!だって…八井さん、よくうちに来られて、おかずお裾分けしてくれたり、一緒に食事したり、お酒飲んだり…そんな筈ありませんよ。お正月のお祝いも3人で一緒にしたんですよ。俺、引っ越す前の晩にも会ってるし…」
「本当に、八井沙季さんって、仰ったんですか?」
「ええ、ただ、いつも一人で、旦那さんはめったに帰って来ないって…我々も遂に一度もお目に掛からなかったんですけど…」

夫人は考えを巡らせているようだった…

「ね、川村さん?あなた、まだお時間大丈夫?」
「ええ、今日は別に予定はありませんけど…」
「じゃ、ちょっとここで暫くお待ちになってて…いい?」
「え?ええ…はい…」

そう言うと、夫人は応接室を出て行った。夫人が戻るまでの間、十数分程だっただろうか、私は懸命に考えを巡らせていた…隣には誰も住んでいなかった?…いや、そんな筈はない。あの2年の間に隣の扉の呼び鈴を幾度鳴らしたことか…その度に顔を見せたあの沙季さんは一体誰だったのだ?…

確かに倉田や倉田の妻は幻影だった。その存在は朧げで不確かだ。しかし、八井沙季は間違いなく実体だ。我々は彼女の調理した料理を食べ、彼女の声を聴き、会話を交わし、笑い、共に長い時間を過ごした。あれ程確かな存在が実体でないとしたら、私と美江と沙季が共有した時間は、体験は、一体何だったのだ?…


 夫人は抱えた一冊の分厚い写真アルバムの埃を布巾で拭いながら、部屋に戻ってきた。

「主人は妙に几帳面で…ああいうの何て言うのかしら…記録マニア?昔からこうやって写真は全部年代ごとに整理して、写真アルバムに貼って、一枚一枚メモを書き加えて…一昨年、亡くなるまでずっと…ふふ…一体こんなの、何になるのかしらって思ってたけど…こうやって、役に立つこともあるのねえ…」

そう言いながら、私の横に腰掛け、アルバムのページをめくっていく…まだ若い寺田夫妻…白いワンピースをすらりと着こなした夫人が幼い息子を抱く…伊豆だろうか、海辺の家族旅行…親戚が集う祝いの席のスナップ…恰幅の良い和装の義父と建築現場を視察する寺田…まだまだ雑然とした百葉の駅前…など、昭和30年頃の寺田家の画像が次々と映し出されてゆく…

「そうだわ…確かこのあたりよ…あ、あった…」夫人が示したページの写真は、まだ新築されたばかりの『双葉荘』だった。坂道沿いの植込みにはまだ木々はなく、下位置から煽るように撮影された双葉荘の前に、得意満面の笑顔を浮かべた、まだ若いあの寺田が立っていた。写真の下にはこう書かれている…『昭和30年5月、テラスハウス・双葉荘 完成』

「えーと…このすぐ後だから…そうそう、これこれ、川村さん、これ、良くご覧になって…」夫人は、その次のページの中の一枚の写真を示す。正方形サイズの白黒の写真…私は、この写真をどう理解したらいいのか分からず、顔を強ばらせることしかできなかった…

 何人かの人々の集合写真…寺田夫妻や作業着姿の人々の中央で薄手のニットのサマーセーターにフレアスカートを身に着け、にこやかに微笑んでいるのは…間違いなく沙季だった。そして…その横には…あの倉田が立っている…こう記されていた…『昭和30年6月、双葉荘、初入居。入居者の八井夫妻と…ご主人は若き画家』

「ほら、あなたの言った八井沙季さんって…もしかして…この人かしら?…」
「………なんで…沙季さんが……」
「やっぱり……川村さん、あなたたち、越されて良かったわよ。いい?この方がね、あそこで自殺された方なのよ…」
「え?…沙季さんが……」
「きっと、主人も見たんだわ。だからあんなに脅えて…」
「でも…あの…この人は?…」恐る恐る倉田を指差した…

「八井さんのご主人よ。ほら、下に書いてあるでしょ?絵描きさんだったの」
「あの、でも…倉田さんじゃないんですか?倉田誠司さん…」
「倉田?…いえ、八井さんよ。えーと、下の名前は…あ、すぐ分かるわ。あなた、ちょっと一緒にいらしてくれない?」
「あ、はい…」

夫人の後に付いて応接室を出た。長い廊下の奥にある小振りの洋間に通される。そこは小さな窓が一つだけの書斎だ。片方の壁は全面作り付けの書棚になっている…

「主人が使ってた書斎です。えーと…確かこの辺…」夫人は書棚の前でしゃがみ込み、一冊のファイルブックを引き出した。

「昭和30年…これだわ…」窓脇の机の上で広げる…
「双葉荘は…あ、これ…ほら、あの時の八井さんの契約書…」

 双葉荘の賃貸契約書だ…数枚の書面の最後のページに賃借人本人の自筆で氏名が記されていた…
『八井清二』…そう記されていた…夫人はさらに続けた…

「確か…八井さんのご主人、何て言うのかしら…ご本名とは別の作家名を持ってらっしゃったわ。ちょっと覚えてませんけど…奥さんが亡くなってすぐに…すっかり気落ちしたご様子で、あそこを引き払われたの。…実は絵の方があまり売れなかったらしくて、家賃も大分たまってたんです。私、あんまりお気の毒だったんで、お支払はもう結構ですって、申し上げたんですけど…ご主人、描き上げた絵を2点置いていかれて…必ず支払いに来るから、それまでこの絵を預けますって…」
「八井さんの描いた絵をお持ちなんですか?」
「ええ、あたしは見ていないんです…主人が梱包を開けるのも嫌がって…そのまま、しまってあると思うわ…」
「その後、八井さんから連絡はあったんですか?」
「ええ…2年後位だったかしら、代理の方がいらっしゃって、お支払頂きました。その時作品をお預かりしてるって言ったんですけど、ご本人は今海外にいるから、帰国したら伝えておきますって…で、それっきり…まあ、海外でご活躍なんだったら、きっと成功されたんだわって、安心してたの。多分探せばまだあると思うわよ。サインがあるかも知れない…ご覧になりたい?」
「ええ、できたら、是非」
「じゃあ、行ってみましょう…」


夫人に案内されたのは、双葉荘だった。かつて沙季が住んでいた側の扉に鍵が差込まれ、扉が開いた…中は家具や古い電化製品が置かれ、大きな棚には、大小様々な箱類が収められている。

「ああいうのは、あるとしたら多分二階だと思うわ。ちょっと、お手伝いして頂ける?」
「あ、はい。分かりました…」

我々が暮らしていた家とちょうど対称の構造になっていた…鏡の中の世界を探索しているような妙な気分だった。流石に室内は埃っぽかったが、足の踏み場もないという状態ではなく、一様に整理されている。

私は夫人に指示されるまま四畳半の奥の押入を開けた。その上段には、多分額の類いだろう、新聞や包装紙で梱包されしっかり紐が掛けられ、ずらりと収められている。上にも積み重ねられている。

「こちら側に全部荷札が付いてるでしょう?多分、それを見ていけば、分かると思うわ」

なるほど…全ての梱包には紙の荷札が付けられており、見易いように全てこちら側に向けられている…端から一枚ずつ確認していく…それはすぐに見付けられた…

「あ、これじゃないですかね?…昭和32年、八井さん油絵って書いてありますけど…」
「きっとそれよ。出してきて頂ける?」
「はい…ちょっと待っててください…」


2人は、新聞紙で厳重に包まれた絵を持って、再び寺田家の応接室に戻った。梱包を解く…出てきたのは八号キャンバスの油彩画2点だった…

「まあ…いい絵ねえ…こんないい絵なんだったら、飾れば良かったわあ…」

二つの作品は、どちらもいつか倉田が私に見せてくれた作品だった。1枚は双葉荘二階のベランダから臨む横浜港の風景、もう一枚は、あの時はまだ未完成だった人物画…それは、窓辺に腰掛けて微笑む沙季の肖像画だった。両方とも下の隅にサインがあった…『Seiji Kurata』…

何故彼はこの絵を寺田に残したのか?…私には分かる気がする。彼はこう言いたかったのだ…『あなたは、この場所で、この人を殺した…』

「でも、川村さん、あなた何故、八井さんの作家名、御存知だったの?」
「僕たちがよく見た亡霊のような人…そのご主人だったんです。彼が自分の名前は倉田誠司だって言ったんです…」
「…不思議なお話……」


八井清二の消息を調べてみると言うと、寺田夫人は沙季の肖像画を私に渡してくれた。この絵はあなたが持つべきだと…そして、また是非訪ねて欲しいと何度も念を押し、名残惜しそうに駅までの坂道まで私を見送った。多分彼女自身が言ったように、昔亡くした一人息子と私を重ね合わせたのだろう。もちろん、私が見た寺田氏の凶行については、一切伝えずにおいた。

電車に乗る前に公衆電話から美江に連絡し、寺田家で知ったばかりの事実を全て詳しく伝えた。彼女は驚きを隠せない様子で、興奮を抑えるように『八井清二』と『倉田誠司』について、すぐにもう一度調べてみると申し出た。


今は住まいとなった実家に戻る…台所では母親が甲斐甲斐しく夕食の支度をしている…

「あら、お帰りなさい。なによ、帰るんだったら帰るって連絡くらい入れなさいよ。あなたの分用意してないわよ…」
「いや、いいよ…勝手に自分で作って食べるから…はあ、疲れた…」荷物を食卓の椅子の上に置き、冷蔵庫を物色する…

「ねえ、ビール一缶貰っていい?」
「いいわよ。ちゃんと足しとくのよ、お父さんのなんだから…」
「分かった分かった。親父は?…」
「今日は何にもないって言ってたから、7時ぐらいには帰るんじゃないかしら…あ、そうそう、さっき美江さんから連絡があったわよ。帰ったら会社の方に電話欲しいって…何?あんたたち遂に離婚したんですって?…」
「ああ…結局、そうなった…大分話し合ったんだけどね…」
「お父さんにはちゃんと報告しなさいよ。結婚式のお金も出させたんだから…全くもう…詐欺よね。ちゃんと返しなさいよ」
「ああ、そのうちちゃんと返すよ」
「そのうちとお化けは出たことないってね…」
「それが、出たことあるんだよ」
「何よ、それ?…」
「いや、何でもない何でもない…じゃ、ちょっと俺、部屋で電話してくるわ…」


美江は興奮していた。
『すぐ分かったわよ。セイジ ヤツイ…有名な画家よ。いい?…大正15年生まれ、愛知県出身、本名八井清二。旧東京美術学校中退。昭和34年に二科展で注目されて、それからすぐにパリの有名な画商に呼ばれて、ヨーロッパで有名になったみたい。海外でいくつも賞を取ってるわよ。印象派の正当な継承者だって。国内にはあまり作品が残されてなくて、殆どが海外の画商か美術館が収蔵しているらしいわ。経歴の中にちゃんと書かれてるわよ。無名時代は『倉田誠司』を名乗る。昭和28年、栃木県小山市の商家の娘沙季と結婚したが、昭和32年、生活苦から妻を自殺に追い込んでしまう。以後、画家名を本名に戻す。生涯独身を貫いたって…』

「生涯?ってことは…」
『亡くなってるわ…昭和48年、パリの病院で…死因は肝臓癌ですって』
「そうか…倉田さん、亡くなってたんだ…一度会いたかったけどなあ…」
『倉田誠司時代の作品が国内に多く埋もれていることが最近分かって、今は画商が躍起になって発掘してるらしいよ。高額で取引され始めてるって、その絵も凄い価値みたいよ』
「そう…いい絵だよ。寺田さんとこに置いてきた絵も凄くいい…」
『今晩、見に行ってもいい?』
「もちろん…待ってるよ…」


食卓に戻ると、私が持ち帰った絵を母が手提げ袋から勝手に取り出して、しげしげと眺めていた。母は少し怪訝そうに首を傾げている…

「あんた、この絵どうしたの?」
「ああ、ちょっとね。知り合いから貰ったんだ…」
「あたし…この人、知ってるわよ…」
「ええっ!本当っ?八井沙季さん?…」
「違うわよ。描いた人よ。ほら、サインが入ってるじゃない。倉田誠司さんでしょ?」
「え?…倉田さん、知ってるの?…何で?」
「だって、うちにもこの人の絵一枚あるもん。お納戸に仕舞ってあるわよ。あなた、覚えてないの?…」
「覚えてないのって…まさか、俺もその、倉田さんに会ってるの?」
「そうか…まだ小さかったからねえ…あなたが、5歳位だったかな、ほら、裏の方によく連れてった公園があるでしょ?あそこであんたを遊ばせてたらさ、何か風采の上がらない男の人が声掛けてきて、息子さん、とっても可愛いからスケッチさせて貰ってもいいですかって…自分は倉田って言う画家なんだって…で、どうぞって…30分位だったかな…あなた、ちっともじっとしてないから恐縮したらさ、大丈夫です、構いませんよって…ささっと…やっぱりプロは凄いなあって、本当に上手なのよ…それで、それから2ヵ月くらい経ってからかなあ…その倉田さんって人から油絵が送られて来たのよ。うちの住所なんて教えてなかったのにさ…」

「嘘だろ…その絵、納戸にあるの?…」私はすぐに納戸に急ぐ…
「あるわよ。ほら、開けて左側の棚の上、手前の方よっ…」


それは、幼い私の肖像画だった…5歳の私はにっこりと微笑んでいた。サインは確かに『Seiji Kurata』だ…彼は、私に会いに来ていたのだ…キャンバスの木枠の裏に油性ペンでこう書き添えられていた…
『川村 正治さんへ、双葉荘の友人より』

                               [了]


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