室井の山小屋 6
第6章 3日目・雨の夜
雨は夜を迎えても衰えることはなかった。
夕食は何が食べたいか尋ねると、子供たちは口を揃えて即座にラーメンと答えた。食材を探ると中華乾麺の袋を見付けた。賞味期限はとうに過ぎていたが、袋を開けて見たところ何ら問題はない様だった。念のため同封の粉末スープは廃棄して作り直し、焼豚と野菜炒めとゆで卵をのせたラーメンを作った…デザート用にフルーツ缶詰めを開けて白玉団子を作ってあげると、仁も千恵も大喜びだった。
「結城おじさんってさ、どうしてこんなにお料理が上手なの?」白玉団子を頬張りながら千恵が尋ねた。
「ああ、たまたま白玉粉があったからな。こんなのは料理とは言えないだろ?缶詰め開けただけだし、大した事はしてないよ。でも、気に入ってくれたんなら嬉しいけどさ…」
「美味しいっ!ラーメンも美味しかったっ!カレーライスもっ!ねえおじさん、ずーっと、ここにいるの?」
「いや、ちょっと休暇で来ただけなんだ」
「へえ…いつまでいるの?」仁が訊く。
「まだ決めてないんだけどね…1週間位かな…」
「ふーん……休暇っていつまでなの?」
「うーん…実は、おじさん、会社辞めたばっかりなんだ。これからどうしようかなあ…って感じかな…」
「へーえ…なんで?…クビんなっちゃったの?」
「いや、新しい会社創ろうと思ってね…でも、うまくいかなかったんだ…」
私は子供相手に一体何を話しているんだろう…いや、子供相手だから気楽に話せるのかも知れない…
「じゃあさ、ここにずっといたらいいじゃん。な?」
「そうだよ。あたし時々遊びにきてあげる」
「あはは…そうか、それもいいかもな」
「おじさん、どんな仕事してたの?」
「うーん…文章を作る仕事だ。いろんな会社やその会社で売ってるものなんかを紹介する時に使う文章を書く仕事だな」
「へえ…文章を書くだけの仕事だったら、ここに居たって出来るじゃない」
「そうよ。ここでお仕事してさ、そいでお休みの時はあたしたちと遊ぶの。ね?」
「うーん…なるほど…それ、なかなかいいアイデアかも知れないなあ…本気で考えてみるかなあ…」
「そうしなよ、そうしなよ。ね、そいでさ、時々村の方にも遊びにおいでよ」
昨夜の康三との語らいも楽しかったが、子供2人を相手の語らいもまた楽しい…私は兄弟がいなかったし、大人になってからも身の回りに子供がいたことはなかった。いつの間にか、自分は子供が苦手なのだとばかり思い込んでいたが、こうして仁と千恵と話をしていると、その屈託なさに思わず顔がほころんでしまう。
子供というものは、大人が保護し面倒を見なければならない 煩わしい存在だと思っていたが、どうやら大きな間違いだったようだ。子供のあどけなさは、大人のすさんだ心を癒してくれるのだ…外は雨に加えて風も強くなってきている…でも、この小屋の中だけには穏やかな時間が流れていた。
突然玄関の外からタロの吠える声が聞こえた。
「あれ?タロ、帰って来ちゃったみたいだぞ…」私がそう言いながら玄関に向かおうとすると、続いて玄関から女性の声が聞こえた。
「今晩わあ!すみませーん!結城さんって方、いらっしゃいますかあっ!」
「あっ、佳代先生だっ!」千恵と仁が私を追い越し、大急ぎで玄関に向かう。私も後に続いた…
びしょ濡れのタロが土間で身体を思い切り震って雨を払っていた。大きな仕事を成し遂げたことが分かっているのだろうか、どうだと言わんばかりに尻尾を振り、得意満面で私を見上げた。
その後にはゴム長靴に雨具姿の若い女性が雨を滴らせながら立っていた…リュックを背負い、手には大きな懐中電灯を持っていた。
「千恵ちゃん、仁くん…みんな心配したのよお…ああ、でも良かったわあ…」彼女はそう言いながら二人に近付き、にっこりと微笑んだ。
「あの…どうぞ…お上がりになって下さい…」私が声を掛けると、彼女は我に返り、緊張した面持ちで深々と頭を下げた。
「あ、すいません…こんな夜分に。あの、結城さんですか?」
「ええ。タロのメモ、ちゃんと届いたみたいですね」
「ありがとう御座います。私、学校の…月夜見分校の沢井と申します。この子たちが朝から山に入ったままお昼過ぎても帰ってこないんで、御両親たちと心当たりを探してたんです。そしたら、夕方になって川添先生のところにタロが飛び込んできて…」
「まあ、ここじゃなんですから、取り敢えず雨具お脱ぎになって、上がって下さい。あ、今タオル持って来ますね。君たち、そこの雑巾でタロの身体拭いてやってくれる?」
「うん、分かった」
浴室前の棚からタオルを取って戻ると、彼女は上がり口に座って長靴を脱いでいるところだった。雨具の下はジーパンにTシャツ姿だったが、余程苦労して登って来たのだろう、見た目にも分かる程ぐっしょり汗をかいていた。
「どうぞ、これ、使って下さい」
「あ、すいません…あの、雨具、あそこに掛けさせて頂いたんですけど…」
「構いませんよ。それより、随分汗かいてらっしゃいますね。何かお着替え用意しましょうか?」初対面の若い女性への申し出としては少し失礼とも思ったが、汗で身体に貼り付いたTシャツからはくっきりと下着が透けて見えていて、面と向うと目のやり場に困ってしまいそうなのだ。
「あの…あたし着替持ってきてますから…どこか着替える場所があります?…すいません…」
「ああ…それじゃ、そこの浴室使って下さい。僕ら、こっちの居間にいますから…」
まだ20代なのだろうか…細身の女性だった。派手さのない小づくりの整った顔立ちで、髪は後で引っ詰めに結ばれている。
「結城おじさん?」居間でお茶を用意していると、仁がこっそり話し掛けた。
「ん?」
「佳代先生、お腹空いてるみたいだよ…」
「そうか…夕ご飯まだなのかな?」
「さっき、お腹がぐうって鳴ってたもん…」
「じゃ、何か作んなきゃだな…」
「佳代先生にもラーメン作ってあげてよ。ね」
「そうか、そうしようか。じゃ、一応訊いてからな…」私はそう返事しながら、料理の準備をし始める…
タロが我々のメモを携えて康三の家に飛び込んだのは夕暮れの頃だった。康三はすぐに住人たちを集め子供たちが無事保護されていること、またどれ程詳しくかは分からないが、私の人物像が説明されて、集落の住人たちは一様に胸を撫で下ろしたということだった。
ただし、天気予報によればこの雨は数日続くらしい。明朝子供たちを帰宅させるにしても雨具が必要となる。男1人で滞在している私に子供たちの世話を頼るのも申し訳ない。康三からは私に任せておけば大丈夫だと言われたが、まだそれほど雨も強くなっていなかったので、佳代先生が子供たちの着替や雨具を預かり、夜間の山道をタロと一緒に登って来たのだと言う…
「ご馳走さまでした…ああ、美味しかった…本当のこと言うと私、凄くお腹空いてたんです」着替えたジャージのパンツと新しいTシャツ姿で佳代先生が笑顔を浮かべた。
「ね?ここのラーメン美味しいでしょ?…」千恵が嬉しそうに佳代先生の顔を覗き込む。
「おいおい…言っとくけど、ここはラーメン屋じゃねえからな…」
「でも本当に美味しかったわ。結城さんてお料理がお上手なんですねえ…手際もいいし…」
「いやあ、そんなこと言われたことないなあ…普段は別に料理なんてしないし…でも、そう言われてみれば、独身の頃は結構料理好きだったような気がするな…」
「でも最近離婚されたんでしょ?」
「え?康三さんから聞いたんですか?康三さん、俺のこと何て言ってました?」
「穏やかでいい人だって…最近会社辞めて、奥さんとも別れて、人生やり直しにここに来たって…動物好きで、ライターのお仕事されてたんでしょ?」
「何だよ…何でも喋っちゃってんだな、あの人…でも、面白い人だったなあ、康三さん…俺、あんなに歳の離れた人とあんなに長く話したの初めてです。昨夜は本当に楽しかった…」
「コウ先生にはあたしも随分お世話になってるんですよ」
「そうなんですか?」
「ええ、私、青梅市の方で教員やってたんです。小学校の先生になりたくてようやく教員になったんですけど…なってみると、何だか思ってた仕事と全然違ってて、子供たちとだけ向き合ってればいい訳じゃなくって…人間関係も難しいし…あたし、少しノイローゼ気味になっちゃって…そんな時、コウ先生と会ったんです…」
佳代は仕事への悩みが高じて不眠が続き、次第に体調を崩していった。診察の為住まいの近くの診療所を訪ねると、そこで当時まだ医師だった川添康三と出会った。康三は彼女の不調の状態を診察するとこう言った…
「今のあんたにゃ、薬はかえって毒だろうよ。まあ、週に一度くらい看せに来なさい。何かいい方法を見付けてやるから…」
そして、週に一度診療所に通い始めた…康三は特に治療らしい治療は施さなかったが、毎回黙って彼女の身体の不調や仕事の悩みを聞いてくれた。
康三の診療所に足を運ぶことは、いつの間にか彼女の安息の時間になっていった…何回目の診察だっただろうか…康三は突然彼女にこう持ち掛けた…
「沢井さん、あんた俺と一緒によ、一度月夜見に行ってみねえかい?」
「つきよ…ですか?」
「いや、月夜見ってのは場所だよ。檜原村のずっと先の山奥によ、月夜見っていう沢があるんだよ。そこに小さな集落があってな、俺あ月に一度そこにへき地診療に行ってんだ。診療は一日で充分なんだけどよ、逗留は大体4、5日ってとこだな。いい所だぜえ。そこによ檜原小学校の分校があんだ。生徒はたったの4人だ。集落にゃ来年入学の女の子が一人いるからよ。その子が卒業したら、多分それでお仕舞えだな。一度見に行ってみねえか?俺が思うにゃ、今のあんたにゃ、しっくりくる処のような気がするんだけどな…」
康三に誘われるまま佳代は休暇を取って月夜見沢を訪れた。康三の言う通りだった。集落周辺の風景、人々、子供たち…そして、分校での教育現場…全てが彼女の心をしっかりと掴んだ。檜原小学校へのへき地教員としての転任は、康三が自治体に働き掛けてくれたお陰で、すんなりと翌年からと決まった。
「康三さんが私をここに導いてくれたんですよ」佳代はそう言って懐かしそうに微笑んだ…
外の雨はますます激しさを増しているようだった。私は仁に促され、花子を風の弱い小屋の北側のクヌギの木に繋ぎ直し、餌となる苅草を周囲に集めた。
来客たちの為に風呂を沸かし、ロフトのベッドを彼ら3人に譲って、居間に自分用の寝床を用意した。子供たちを寝かしつけ終えた佳代と、再び居間で語り合った。彼女の口からは、月夜見の美しい季節の移ろいや、隔週で繰り返される町と森との生活の違いが綿々と語られていった。その言葉に誘われるように私の心は既に下の沢の集落を目指していた…
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