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父の残像 2

意外な旅先…


いつもの駅の自動改札を出て、いつものパス停に向かう途中で気が付いた。帰りに新幹線の座席を予約してくることになっていたのだ。
仕事のスケジュール変更と調整は特に大きな問題もなく解決し、家族旅行の出発は8月早々と決まった。熊本の両親も大喜びで、我々の到着を楽しみに待ってくれている。
往路は新幹線を使い、途中神戸に立ち寄ることとなった。神戸には父の本家の寺があり、父の遺骨もそこに収められているので久々の墓参りを兼ねることにしたのだ。

方向を変えて、バス停とは反対側のコンコースの奥の窓口に向かった。外は晴れているのに、コンコースの奥はいつもよりも薄暗く感じる。
『あれ?こんなに離れてたかな?』

改札の前を通り過ぎてすぐの反対側…のはずの窓口の場所がいつもより10メートル以上も遠い気がする。そういえば、このところしばらく新幹線を使ってなかった。気が付かないうちに場所が変わったのかも知れない。思ったよりも長い人の列が出来ていた。

『そうか、今日から夏休みだからな…家に帰ってネットで予約するか…』とも考えたが、特に急ぐ理由もないし、のんびりアナログな時間もいいかと列の最後尾に並んだ。
列は少しずつ前に進んでいき、後ろを見ると私の後ろにはどんどん人が増えて、列を伸ばしてゆく…

何もせず何も見ず、何も考えずにただ黙ってぼうっと立っている。ポケットにはアイポッドも入っていたし、鞄には読みかけの文庫本も持っていたが、何も手にする気になれなかった。時計も見なかった。ゆっくり…ゆっくりと進む列にただひたすら身を任せる。こんな気分で、こんな時間を過ごすのは何年ぶりだろう?何もない意味のない空虚な時間を楽しんだ。

一体何分くらい経っただろう?いきなり強い尿意が襲ってきた。
暫くは我慢していたが、断続的な尿意は次第に切れ目が無くなり、とても長い時間耐えられる自信がなくなってきた。列の私の前にはまだ十人以上の人が並んでいる。
意を決して私のすぐ後ろにいたサラリーマン風の男性に声をかけた。
「すいません…ちょっと…トイレに行きたくなっちゃって…いいですか?すぐ戻りますから…」

携帯電話の表示をじっと眺めていたその男は、眼鏡越しに目を上げると無表情のまま静かに「どうぞ」と答えた。
「じゃ、すいません。ちょっと…」私は男に軽く頭を下げて、足早に駅のトイレに急いだ。

『あれ?ここのトイレって、こんなに遠かったっけ?』

コンコースの奥をほんの数メートル入ったところにあったはずのトイレの入り口が、いつもよりさらにずっと奥に見える。トイレ前の通路がこんなに長いはずがない…
深く考える間もなく私は男性用トイレに駆け込んだ。
トイレの中には私以外誰もいなかった。便器の上の棚に鞄を置き、急いでジッパーを下ろし、安心して用を足した。
ところが、視覚では勢いよく尿は便器にぶつかっているのに、股間の周囲に急激に生暖かさが広がっていく…
『あっ!』これは…確かに…間違いなく…子供の頃に度々経験した、あの『おねしょ』の瞬間の感覚だ!


「しまった!」目が覚めた。やはりそうだった。

恐る恐る掛け布団の中を探ると、パジャマが生暖かくぐっしょりと濡れている。
『参ったな…50にもなって、おねしょかよ……』

ところが、目覚めたその場所は、明らかに自宅の寝室のベッドではなかった。
薄暗がりの部屋をよく見回すとここは6畳ほどの和室で、右側の壁には一間(いっけん)ほどの幅の窓があり、厚手のカーテンが引かれている。夜から朝への薄暮に浮かび上がったそのカーテンの模様…古いモダンなタッチのグリーンの幾何学模様…何故かどこか見覚えがある。

どこだろう…目を凝らして部屋の他の様子を見回してみた…部屋の隅2ケ所には私が子供の頃使用していたような古いタイプの木製の勉強机が一つずつ置かれている。そのうちの一つの脇には、これまた古いタイプの木製の本棚…その向こうには安っぽいカラーリングの引き出し棚…寝床の足元側は一間半の襖(ふすま)…襖の柄(がら)にも見覚えがある。
私の横には、もう一つ寝床が敷かれていて、もう一人誰かが寝ている様子だが、こちらに背を向けているので、誰なのかは分からない。後ろ姿の大きさから見て、息子の智治ほど小さくはないが、どうやら少年のようである。
カーテンや襖の柄もさることながら、愛想のない乳白色の壁に付いた汚れや染み、柱に掛けられた小さな鏡付きの室温計、机の上の鉛筆立てや青いビニール製の筆箱、東京タワーの文鎮、椅子の背に掛けられた黒いランドセル…この部屋にあるものの細部を見れば見るほど、それらは私の記憶の奥にしまわれた古い映像ファイルと符合するものばかりであることが分かる。

『そうだ…この部屋は…子供の頃の私と兄の部屋だ!』だとすれば…これは明らかに夢である。何故なら、この家はもう存在しないからだ。20年も前、土地を分割した際に取り壊し、母と私の家族の二世帯住宅に建て替えてしまっている。

それにしても、人間の記憶力というものは凄いものだ。今目の前にあるこの部屋は、私の子供の頃のあやふやな記憶を見事に視覚化してくれているのだ。天井板の木目やそこからぶら下がった古典的な照明器具、柱や梁の質感や汚れ、夏用のタオル地のシーツの感触や薄い夏掛け布団…
部屋の隅々に視線を這わせていくにつれ、強烈に具現化された記憶の鮮明さに、懐かしさのあまり胸が熱くなるのを押さえられない。このまま暫くここに留まっていたいが、多分そうもいかないのだろう。

『そうだ…』私はおねしょで濡らしてしまった寝床の不快感に再び意識を戻した。もう一度、自分の股間の部分を触れてみる…やはり濡れたままだ。身体はどのくらい濡れているのだろうか…下着の中に手を入れて、股間へと伸ばしてみる…肌は少し湿っているくらいの感じだ…が…股間に触れて仰天した。

陰毛がない!ツルツルだ!
そして…その先の陰茎が…異常に小さい!
小さいというより、この小さな包茎は明らかに子供の陰茎だ!
慌てて身体中を手で探ってみる…
腰は小さく、贅肉が気になっていたはずの胴回りも考えられないくらい細い。
学生時代に水泳で鍛えた肩幅も驚くほど華奢で小さい!
全てが小さい!
とても小さい!
手足も細い…布団から両手を出して目の前に広げてみる…子供の小さな手がそこにある…私の意思で自在に動く両手は子供の手だ。
その手で触れてみると顔もその造作も小さく、首も細い…
私は子供時代の部屋を見ているだけではなかった。私自身が子供になっているのだ!

飛び起き、掛け布団を剥いだ。
息子の智治よりも一回り小さな私の身体がそこに映し出されていた。
『子供だ…子供の身体だ…俺は…子供なんだ…』

これは、夢だ…間違いなく夢だ…私は布団の上に足を投げだして座ったまま、暫くただぼう然と自分の体を眺めていた。


どの位時間が経ったのだろうか…
夢から醒めるどころか、意識はどんどん覚醒していった。
覚醒したというよりも、意識に澱みがないのだ。頭の中がここ数年感じたことがないほどすっきり澄み渡っている。一呼吸ごとの空気が旨い…このところ毎朝感じる身体や腰の重さ、気だるさが一切ないのだ。

『そうか…子供だもんな…』
夢もここまでリアルだと気味が悪い。この状態がいつまで続くのか分からないが、こうなったら、この貴重な体験を楽しんだ方が得かも知れない…私はそう覚悟を決めた。その時、身体の奥、いや脳髄の奥の方から何か別の気持ち、いや意識のようなものが沸き上がってきた。

『わあ!やっちゃった、やっちゃった!どうしよう!おねしょしちゃった!どうしよう!お母さんに怒られる!もう4年生なのに…どうしよう!なんて言えばいいんだろう?困ったなあ…どうしよう…』その動揺で自然と目頭が熱くなり、目が潤んできた。

『おっと…このまま感情に流されてはいけない…』意識を強く持って自分に言い聞かせた。
『まず、どの位濡らしてしまったかを把握しないとな。確かに母親が怒ると手に負えないけど、ある程度事前に対処しておけばそれほど大事(おおごと)にはならないかも知れないぞ』

動揺した気分が治まっていく…まず先ほど剥いだ夏掛けの布団をチェックする。パジャマは相当濡れているものの、幸い掛け布団には殆ど及んでいないようだ。

これ以上布団を濡らさないようにそっと立ち上がる。身体は軽かったが、視線は思った以上に低かった。濡れたパジャマの下を下着のパンツと一緒に脱いで、濡れた箇所を中心に手早く丸め、畳の上に置いた。
しゃがんでシーツを調べてみる。タオル地なのであまり目立たないが、直径15センチほどの染みができている。

そのシーツを手早く剥がし、下の敷布団を調べてみる。僅かな染みしかない…これなら30分も放置しておけば乾いてしまうだろう。下着とパジャマだけが濡れたのだったら、夜中にトイレに行き、寝惚けて失敗してしまったと報告すれば、それほどは怒られなくて済むかも知れない。
問題はシーツだ…タオル地は吸収はいいが乾燥しにくい…

思案していると…「コウちゃん、なにやってるの?」と小さく囁く声が聞こえた。
驚きで身体がビクンと跳ね上がった。声の方向を振り向くと、先ほどとは逆向きで横になっている兄の克夫が下半身丸裸の私をじっと見つめている。
これも記憶にある懐かしい中学生の頃の兄だ。

「ねえ…なにやってんの?」再び囁く。

大人の私は苦笑するしかなかった。
「ごめんね。起しちゃった?」小声で答える。
低い声で静かに喋ろうと思ったのだが、私はまだ変声期前らしく、甲高いかすれ声になってしまった。

「まさか…おねしょ?」
「うん…」
「で、なにやってんの?」
「いや、どの位濡らしちゃったかなって…」
「で?」
「意外と布団は濡れてないんだ。パジャマとパンツはびしょびしょだけど…あと、シーツがこれくらい」とシーツの濡れた部分を広げて見せた。

「しょうがないなあ…今何時?」
それは私も知りたい…身体が勝手に本棚に向かう。
本棚の上から二段目の端に、子供の頃伯父が買ってくれたドナルドダックの目覚まし時計が置いてあった。小さい頃からディズニー好きの私の大のお気に入りで、そのまま大人になるまで大切に使用していた。いつだったかゼンマイが全く働かなくなってしまい、それでも捨てられずにしまっておいたが、家を建て替える時のどさくさの中で捨てられてしまったものだ。
20年間心の中で悔やみ続けていた大好きなあの時計が、今目の前にあるのだ。そっと手を伸ばして触れてみる…懐かしさが胸にこみ上げてくる…

「ねえ、何時なのっ?」囁き声の兄が語気を強める。
「あ、ああ…えーと…5時16分…」
「そうか…まだお母さんたち寝てるな。じゃ…」と兄は布団から起きだしてきた。
確かに、兄の克夫だ。当たり前の話だが、私よりずっと背が高い。とは言っても150センチ弱といったところだろうか…ということは、私の身長は120センチほどしかなさそうだ。あの髭面でがっしりしている兄が、つるつるでヒョロヒョロだ。

「ふふ…」
「なんだよ。何が可笑しいんだよ。変なやつだな」
「いや別に…ごめん…」
「いいか、お母さんには内緒にするぞ」
「でも…トイレで汚しちゃったとかくらい、言った方がいいんじゃない?」

 
「だめだよ。昨夜(ゆうべ)寝る前に一緒にカルピス飲んだろ?怒られんのはお前だけじゃないんだからな」

そうだった…私がおねしょをすると、何故寝る前に弟に飲み物を与えたのか、何故寝る前にトイレに行くように促さなかったのか、いつも決まって兄が怒られるのだった。

「そうか…そういやそうだったな…悪かった」
「大人みたいな言い方すんなよ。まず、新しいパンツ履きなよ」
「そうだね」と身体が勝手に棚の一番下の引き出しを引く。
下着に靴下、夏物のシャツなど、どれもこれも見覚えのある懐かしい衣類がぎっしり詰まっている。

感慨に耽っている暇はない。一番手前の白いブリーフを出して、もうすっかり乾いてしまった股間をブリーフを履いて隠した。

「じゃ、敷布団ひっくり返して。静かにだよ」兄はそう言いながらそっと寝床を離れ、自分の机に行って引き出しからビニール袋を一枚出して渡した。

「ほら、これに濡らしたもん入れときな。シーツは横に広げとけばいいから」言われた通りに敷布団を裏返し、濡れたパンツとパジャマのズボンをビニール袋に押し込み、シーツを空いている畳の上に広げた。

「よし、まだ時間が早いからな。このまんまもう少し寝よう。いいか、お母さんは昨日洗濯してたから今日はもう洗濯はしない。それに今日は土曜日だろ?確か今週の土曜日はお母さんはおばあちゃんの病院にいくはずなんだ。八王子まで往復だから、出かけたら4、5時間は帰って来ない。お前その間にそれ洗ってよく絞って乾かしておけるだろ?庭にハンガーで干して…出来る?」
「分かった」
「お母さんが帰ってくる前にバレないようにすぐにしまっとくんだぞ」
「分かった」
「じゃ、寝ようぜ。目覚ましでちゃんと起きてよ。お母さんが起しに来てそれ見つかったら、やっかいだからな」
「うん。分かってる…」
「おやすみ」
「おやすみ…」

兄は再び布団に潜り込んだ。私もシーツのない敷布団の上に横たわり、足元の上掛けを引き上げた。さっきから感じていたが、動作の一つ一つが信じられないくらい快適だ。身体の全ての関節がいつもの倍以上柔軟になっていることが良く分かる。逆にいうと、50才の私の身体がいかに老化していたかが良く分かった。

外はもうすっかり明るくなっていた。
さすがに疲れた…そういえば、兄はさっき今日は土曜日だと言っていた。気候の感じからいって今は明らかに夏だ。昨日は、2009年7月25日の土曜日だった。ここの今日は何年何月何日なのだろう?

突然、意識の奥からその答えが浮かび上がった。
1969年7月26日…どようび…夏休みが始まって6日目…

第3話につづく…

第1話から読む...



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