私がわたしである理由 2
第二章 正雄に連れられて(1)
「おいっ!あんたっ!しっかりしろっ!大丈夫かっ?おいっ!」
潤治は見慣れない男に肩を揺さぶられていた。
列車の床に倒れている様だ。何が起きたのか訳が分からず、周囲を見回してみるが、そこは明らかに乗車していた新幹線車両ではない様子だった。古い在来線の車両洗面所のドア付近の様だ。車両は既に停車している。
ドアは木製で床の材質も木製なので、相当に古い車両らしい。奥の客車内からは大勢の乗客が騒ぐ奇声や怒号が聞こえてくる…
「あ、あの…ここ、どこですか?…」潤治は気力を振り絞って男に話しかけた。「お、気がついたかい?兎に角よ、ここは危ねえから逃げるぞっ!ほら、立って外に出るんだ。列車の下に潜った方がいい。おい、手え貸そうか?」たっぷりとしたルーズなスーツを着た、見た所潤治と同じ年頃の男は片手に持ったソフト帽を被り直すとその手を差し伸べる。
「あ、す、すいません…あの…何があったんでしょうか?」男の手にすがってようやく身を起こした潤治はまだぼんやりとした意識の中で尋ねた。
「機銃だよ機銃っ!ほらっ、ぐずぐずしてるとまた戻って来るからよ。それはあんたの荷物だろ?しっかり抱えて、行くぜっ、歩けるかい?」
「は、はい…」
男は脇に置いてあった彼の荷物らしい大きなリュックを背負い、片手で帽子を抑えながら、乗客たちが群がる車両の降車口に向かった。潤治も慌てて自分の荷物を掴むと、流れる人混みの中、彼の直ぐ後ろに続く…男は線路の敷石の上に飛び降りると、次の潤治に手を貸そうとする。
「あ、すいません。大丈夫です」
潤治が敷石の上に飛び降りたその時、列車のはるか前方から轟音と共に単発のプロペラ機が低空飛行でこちらに向かって来るのが見えた。潤治には一体何が起きているのか全く理解出来ず、その場に立ち尽くすしかなかった。
「おい、ぐずぐずするなっ!」
潤治が男に腕を捕まれ、一緒に車両の下に潜り込んだ途端、近付く爆音と共に列車に向かって機銃掃射の実弾の破裂音がオートマチックな間隔で『バッバッバッバッバッ…』と通り過ぎてゆく。周囲はみるみる土埃に包まれ、車両の内部や周囲からは多くの悲鳴が飛び交っていた。爆音はそのまま遠ざかっていった様だ。潤治が車両の下にうつ伏せに身を潜めてから何分位経っただろうか…男が潤治に声を掛けた。
「どうやら、行っちまった様だな。もう大丈夫だろう。出ようぜ」
男の後について潤治は砂利の敷石を這い出る…周囲からも列車の乗客らしい人々がぞろぞろと線路脇に這い出し始めていた。夜の車両脇は鉄道職員によっていくつかのカンテラで照らし出され始めている。敷石の上に鞄を置き、上着やスラックスの埃を払い、改めて周囲を見回す。
『一体ここはどこなんだ?…』
これほど古い旧式の車両が現在使用されている筈がない。放心した様に周囲に佇む乗客の人々の服装をよく見ると女性はモンペ姿、男性は戦時中の国民服らしい出で立ちが多く、持ち物を見ても一様に貧しさが伺える。線路の敷石の脇には、負傷者や不運にも逃げ遅れ機銃に直撃されて体の一部を喪失した生々しい死体が並べられ始めていた。
『夢でも見てるのか?…』潤治はともかくまずは気持ちを落ち着けようと胸のポケットから煙草を取り出して咥えた一本にライターで火を付けた。夜の外気は刺す様に冷たい…
「お、もしかしてそれあ洋モクかい?今時珍しいねえ。俺も一本吸わして貰ってもいいかい?」潤治の煙草を見て、男が声を掛けた。
「あ、どうぞ…日本のですけど…先程は有難うございました」潤治は再び煙草の箱を取り出し蓋を開いて差し出した。
「じゃ、ご馳走になるよ」男は1本を摘むとしげしげと煙草を眺める…
「ほうら、やっぱり洋モクじゃねえか。ここの吸い口に付いてんのは何だい?」「え?…ああ、フィルターのことですか?」
「ふいるた?…へえ…葉っぱが口に入ってこねえってことかあ…なんか洒落てるねえ」男は当たり前のことをいたく感心しながらポケットを弄る…火を探している様子だ。
「あ、どうぞ…」潤治が手持ちのライターを手渡すと男はそれを見てさらに驚いた。
「お、ライターかい?すげえなあ…これは樹脂かなんかで出来てんのかい?」
「ああ、プラスチックでしょう。ただの百円ライターですけど…」
「ええっ!これ、百円もすんのか?ぷらすなんとかってのはベークライトみたいなもんかね?でもこれ、透き通ってるよなあ…これは…ここの黒いとこを押すのかい?」
「はい…そうですけど…」どうやら男はフィルターも百円ライターも知らない様子だ。
男はライターをじっと見つめながらカチリと点火すると、慌ててすぐ指を離して火を消した。
「おいっ、これ、石じゃあねえぞ。雷みてえなもんがチラッと見えたぜ」と目を大きく見開いて私を見つめた。
「それは…放電ですよ。その中に小さな電池が入ってるんです。プラグ…みたいなもんです」
「プラグってえと、自動車のプラグとおんなじかい?小さな電池?…信じられねえ…世の中にゃ色んなもんがあんだなあ…」彼は再びライターを点火すると、咥えたタバコに火を付け、煙を大きく吸い込み、旨そうにゆっくりと吐き出した。
「おお…軽いねえ、ハッカ煙草だね。何とも上品じゃねえか。あんたいっつもこんなもん吸ってんのかい?」
「え?ええ…まあ…あの、まだ買い置きが何箱か鞄に入っていますから、もしお気に入ったんなら一箱差し上げても…」
「いやあ、こんな上等なもんは貰えねえよ。俺には上品すぎらあ。上品といやあ、あんたよく見ると随分上品な服着てるねえ。どっから来なすったんだい?」
確かに、潤治の服装はこの場所にいると周囲から浮いている感がある。冬用の細身のスラックスに革靴、ネルの薄いグレーシャツにコーデュロイのジャケット姿だ。いつものカジュアルな外出着でしかない。男はスーツ姿だが着古した古いスタイルの大きめのダークスーツで肘当てに別布が縫い付けてある。
「あ、あの…大阪で、2日程商用があったんで、東京に、戻る途中なんですけど…」
「やっぱり東京の人なんだね。俺もだ。俺は品川の方で金物と雑貨商をやってるんだ。いや、関西に親戚の伝手があってね、色々仕入れさせて貰って来たんだよ。なんせ今時ゃ品不足だからなあ。概ねはチッキで送ったんだけど、節約でさ、ほれ、持てるもんは持って来たって訳よ」彼はそう言って微笑みながら大きなカーキ色のリュックを示す。
潤治はようやく考えを巡らせた…
『ここは…違う時代だ。機銃を放った飛行機は単発のプロペラ機で、翼には星印が付いていた。つまり、アメリカの戦闘機だ。車両も周囲の人々も…ここは明らかに太平洋戦争下の日本に違いない。実際に目の前で人も死んでいる。戦時下ということは…昭和20年までのこと。70年以上も前の時代だ。何故自分はここに居るのだろう?…夢を見ている様だが、いくら目を凝らしても、目の前の状況は変わらない。一体…どうしたらいいのだろう…』
「あんた、何呆っとしてんだよ?人が死ぬのを見たのは初めてなのかい?こんなことは今時ゃ日本のあちこちで起きてんだぜ。余程育ちがいいんだねえ…ほら、列車にも沢山穴が空いてっだろう?あんたもあそこに倒れたまんまでいたら、弾にやられてたかも知れなかったんだぜ」
「あ、は、はい。ど、どうも有難うございました。助けて頂いて…ところで、あの…一体ここはどの辺りなんでしょうか?」
「うーん…そうだなあ…そろそろ湯河原って辺りじゃねえかなあ…俺も急停車の寸前まで居眠りこいてたからよ。そうそう、あんたは東京の何処に帰るんだい?」
「あ、目黒です。あ、あの初めまして川出潤治と申します。あ、そうだ、えーと…」潤治はジャケットから名刺入れを出して一枚を差し出した。
「お、こりゃあご丁寧に…また洒落た横書きの名刺だねえ。目黒区中町?…目黒に中町なんてあったか?…」彼は首を傾げた。潤治は言われて初めて、名刺の住所がここ30年以降の新しい区画名であることを思い出した。
「あ、し、下目黒の、あの、えー、四丁目辺りです」子供の頃の旧住所を伝える。
「ああ、だったらうちからも近いぜ。そうだなあ、歩いたってせいぜい30分かそこいらだ。ま、これも何かの縁だろうから、帰るまでは一緒にいやしょうや。あ、俺は正雄って言います。藤村正雄だ。名刺はこのご時世でもう切らしちまって」
「藤村さん…ですか。あの、よ、宜しく、お願いします」潤治は頭を下げた。
「堅っ苦しいのは止めましょうや。見た所年回りもおんなじ位じゃねえんですか?正雄で結構ですよ」
「ぼ、僕は、えーと、43になりますけど…」
「なあんだ、同い年じゃないですか。じゃ、俺も潤さんって呼ばせてもらおうかな。いいかい?」
「あ、はい…」
「ところでよ、このおたくの名刺の名前の上に書いてあるライターってのは何だい?」
「あ、あの、文章を書く仕事を、してます。英語で言うとライター…です…」
「…あんた…この名刺、戦前に刷ったもんなんだろうけどよ、あんまり他人に見せねえ方がいいぜ。見たとこ、横文字が多すぎらあ。何たって敵性語だからよ。お巡りや憲兵にでも見られてみろ、スパイ容疑でしょっ引かれっちまうぜ」
「あ、はい、わ、分かりました。気を付けます…」
「知らねえ様だから一応注意しとくけどよ、タバコもそうだぜ。あんな洋モク大っぴらに人前に出したら危ねえぞ。注意した方がいいぜ。俺には気を遣うこたねえけど、人前であんまし目立つことはしねえ方がいいご時世なんだからよ」
「あ、はい…教えて頂いて…有難うございます。注意します。ところで…正雄さん、こういう場合って僕たち、これからどうしたらいいんでしょうか?あの…列車は暫く動かないんでしょう?」
「ま、待ってりゃ、そのうち何か言ってくるだろう。事故みてえなもんなんだから。ところで、潤さんは切符はちゃんと持ってるだろうね?」
「あ…そうか…あの…どうも、さっきのゴタゴタで、無くしちゃったみたいなんすけど…」潤治の乗車券はきちんとジャケットのポケットに入っている。ただし新幹線の乗車券だ。
「ああ…そりゃまずいな…ま、ちょっと待ってな。俺が何とかするから。その代わりこの荷物見ててくれるかな」
「あ、はい。わ、分かりました」
正雄は止まったままの車両の中に入っていき、ものの5分も経たぬうちに戻って来た。
「ほら、ちょうど大阪から東京までの切符だ」正雄はそう言って紙の乗車半券を手渡してくれた。
「え…こ、これ、どうしたんですか?」
「ま、ちょっとな。どうせ誰か仏さんのだからもう用無しだ。心配にゃ及ばねえよ」
その時、鉄道側からのアナウンスが始まった。アナウンスとは言っても職員が大声で叫んでいるだけだ。
「東海道本線急行を、ご利用の皆様~、本列車は、敵機銃撃により~、機関車両が破損致しました~。本日中の~、運行は中止となりま~す。ここより~4キロほど先が~湯河原駅となりま~す。負傷されている方や~、小さなお子様や~お年寄りの方~、そのお付き添いの方以外は~、恐縮ですが~徒歩にて~駅舎の方に~ご移動くださ~い。その際~、お手荷物~ご乗車切符の~半券をどうぞお忘れなく~、お持ちくださ~い。払い戻し~及び~、明日の上りの~乗車切符と~、交換させて~いただきま~す。ご協力~う、宜しく~お願い申し上げま~す」
潤治と正雄を含めた乗客たちは、鉄道職員の指示通りそれぞれに荷物を抱えながら湯河原駅に向かって黙々と歩き始めた。線路沿いは歩き難い為、地元の役場の人だろうか、国民服の男性たちが一般道を引率してくれていた。
「潤さん、あんたあ見たとこ随分浮世離れしてるけど、ご家族はいらっしゃんのかい?」
「あ、ええ。妻と…娘が一人います、けど…あ、あの…今、ちょっと、離婚調停中で…一緒には住んでいないんです。あ、あと母がいます」
「へえ…このご時世に離婚ねえ…ま、夫婦仲に時代もへったくれもねえか。それにしても潤さんはつくづく浮世離れしてるねえ。文士さんなんだろ?文士さんていうのは赤紙も来ねえのかね?」
「あ、そ、そうですね…あの、今のところ、そういうのは、ありませんけど…」そう言えば、先程から周囲にいる乗客や鉄道職員や地元の人々の中にも若い男性の姿は殆ど見ない。
「俺は中学の時に結核を患ってよ。幸い良くはなったんだけどね。赤紙貰っても、検査の時に必ずレントゲンにこう影が出るんだな。で、帰されちまうって訳だ。みっともねえし、体裁も悪いからよ、近頃じゃ自分の店にも立てなくなっちまったぜ」
「あの…正雄さん…親切にして頂いているついでに、一つ、変なことを伺ってもいいですか?」
「おう、何だい?」
「あの、今日は、何年の、何月何日…なんでしょうか?すいません、変なこと聞いて…」
「あははは…あんた、あん時頭打ったんだな。大丈夫かよ…どっか、気持ち悪いとかねえだろうな?具合が悪いんだったら遠慮しねえで言うんだぜ。あんな目に合ったんだからよ」
「ええ…はい…そ、それは大丈夫なんですけど…気を失う前のことがちょっと、良く思い出せないもんで…一体今日は…」
「ああ、そりゃさっき渡した切符にも書いてあるだろう。今日は昭和20年の2月15日だ。どうだい?思い出したかい?」
「いや…ええ…何とか、ぼんやりですが…」
「何だよ、頼りねえなあ。本当に大丈夫か?具合が悪かったら本当に直ぐに言うんだぜ」
「はい…」
昭和20年2月…やはりここは、遥か昔の世界だ…
この小説ではイラストレーターのTAIZO デラ・スミス氏に表紙イラストを描き下ろして頂きました。
TAIZO氏のProfile 作品紹介は…
https://i.fileweb.jp/taizodelasmith/