見出し画像

父の残像 12

闘病は始まる…


5月中、『私』と私の間には重苦しい空気が漂っていた。
父は休暇以降、休みなく仕事に没頭しているようだった。克夫の展覧会に顔を出したのも仕事の合間を縫ってのことだったし、のんびりと家にいることは殆ど皆無だった。
母は以前にも増して口やかましくなり、いつも何かに苛ついている様子だ。
克夫は展覧会以降、水泳部の練習がシーズンに入り、夕刻まで家に帰ってくることはなかった。

学校でも放課後もヤスオは私に気遣っていつも一緒にいてくれた。一緒に宿題をして一緒に遊んだ。土日もゲームやレコードを持って訪れたり、外に誘い出してもくれた。私が少し考え込んでいると、次々に楽しい提案で時間を埋めてくれるのだ。

次第に私の気持ちが落ち着いてくると、たまに『私』がヤスオの話相手になることもあった。

ヤスオはヤスオで、どうしても勉強が好きになれなかったり、女子との付き合いが上手くできないこと、親への憤懣(ふんまん)など子供らしい様々な悩みを抱えていて、そういったこと1つ1つに『私』の大人としての意見を聞くことは、ヤスオにとっても楽しい時間だったようだった。

私が1人部屋を与えて貰えていたおかげで、夜は欠かさず座席の入れ替わりの練習をした。
ほんの30分ほどの訓練だったが、それでもお互いに微妙な距離とタイミングを掴めるようになっていった。


6月5日、金曜日…父が抗癌治療のため入院した。
病院は新橋の慈恵(じけい)医大病院だった。会社のすぐ近くなので、緊急の打合せに対応できるようにとのことだ。

日曜日、母と克夫と3人で父の病室に初めて行く。およそ1ヶ月の入院予定なので着替えや書類、書籍など荷物が多く、磯田さんに会社の車を用意して貰った。

「コウちゃん、前に乗ったら?」手提げ袋に入った幾つもの荷物をトランクに入れると運転手の磯田さんが私に声を掛けた。病院へと向かう…

「すみませんねえ…磯田さん。今日はお休みだったんじゃないの?」
「いやいや、いいんですよ。ほら、日曜は休日手当てが出るから、私も儲かっちゃうんですよ。かえって助かります」と、磯田さんは快活に笑う。
「それより、大変ですねえ。暫く御入院だって言うから、私もびっくりしてるんですよ」
「まあ、病気じゃ仕様がないわよねえ。たまにはのんびりできていいんじゃない?それよりあの人、1ヶ月もじっとしてられるのかしら…その方が心配だわ、私…」
「あははは…昨日もちょっと顔出したら、本部長、元気そうにしてましたよ。体操なんかしちゃって…大丈夫ですよ、本部長若いし、体力あるから。あんなに仕事する役員さんは初めてですよ。すごいんだぞ君のお父さんは。スーパーマンだからな、病気なんてすぐに治っちゃうぞ」
「はい…」


父の病室は大きな病棟の最上階にある広々とした個室だった。
応接セット付きの病室を見るのは初めてだった。
「すげえ!ホテルみたいじゃん!」思わず叫んでしまった。
「お父さん…この病室って…高いんじゃないの?」病室を見回しながら不安そうに訊ねたのは克夫だ。
「はは…一応役員だからな。会社が面倒見てくれるんだ。お前が心配しなくても大丈夫なの。ここで、少しは仕事もしなきゃだしな」
「ふーん…」
「じゃ、本部長、私はこれで…車の方に戻ってますんで…」荷物を運び終えた磯田さんが声を掛ける。
「ああ、磯田さん、すいませんねえ。休みの日に手伝わせちゃって…おい…」母に目配せする。
「磯田さん、有り難うございます。これ、少くて恐縮ですけど…」
「いや、いいんですよお、そんな、困りますから…そうですか?じゃ、有り難く…」
「これからお医者さんとお話があって、今日は暫くここにいますから…あとで子供達だけ送って頂けます?」
「はい、分かりました。じゃ2人とも、おじさん、正面のところに車止めて待ってるから、帰る時には声掛けてね」
「はい」
「宜しくお願いしますね」
「はい、承知しました。じゃ、本部長、また来ますんで、どうぞお大事になさってください」
「おう、ありがとう。宜しく頼みます」

その後暫く、見舞いに届いていたクッキーを開き、家族4人でいつものように他愛もない会話を楽しんだ。父はまだ入院検査が終わったばかりで、本格的な治療は月曜日から始まるらしい。

70年代の抗癌治療はまだ未成熟で、患者への負担が大きいことは子供の私には伝えないようにしてきた。
『私』は治療に苦しむ父の姿を鮮明に覚えている。地獄のような治療期間を耐える度に少しずつ体力と気力が削ぎ落とされてゆくのだ…
何とか初回の治療で切り抜けられるように祈るばかりだった。

暫くすると、初老の医師が2人の医師を引き連れてにこやかに病室に入ってきた。
「やあ、どうも、川瀬さん。如何ですか?」
「あ、どうも…吉村さん。私もいよいよ病人ですね」
「ははは…立派な病人ですよ。もう、検査は全部済んだの?」と、振り返って若い医師に語りかける。
「はっ!昨日全て済んでおります」
「あ、そう…何か問題はありましたか?」
「いえ、多少血圧が高めでいらっしゃいますが、それ以外は…」
「そう、じゃ明日から始められるね」
「はい。問題ありません」
「じゃあ、川瀬さん、担当医も連れてきましたから、少しお話しておきましょうかね」
「あ、吉村さん、これ、うちの息子たちです。ほら、お前ら挨拶しろ」
「はじめまして…長男の克夫です」
「次男の康治です」
「こちらは吉村先生だ。この病棟で一番偉いお医者さんなんだぞ」
「どうも…父を宜しくお願いします」
「よろしくお願いします…」
「はいはい。ははは…しっかりしたお子さんですね。大丈夫ですよ。おじさんが責任を持って、しっかりお預かりしますからね」
「大丈夫だよ。この先生はね、日本でも有名な先生だからね。お父さんをちゃんと治してくれるよ」後に控えていたもう一人の大柄な医者が付け加えた。
「さ、じゃ、カッちゃんとコウちゃんはそろそろ家に帰ってろ。お母さんはここでちょっと先生たちとお話しなきゃならないからな」
「磯田さんに送ってもらってね。私はお夕食までには帰るから」
「うん…じゃ、失礼します」
「失礼します」
「おう、またな。また来いよ」


帰り道、私も兄も車の後部座席に黙って座っていた。
磯田さんだけが気を遣って喋り続けていたが、二人とも適当に相づちを打つだけで、話の内容は殆ど耳に入っていなかった。


家に入ると、克夫が話しかけてきた。
「コウちゃん、お腹空いてない?」
「あんまり…お父さんとこでクッキー結構食べたから」
「そうか…俺も何だかあんまりお腹空いてないな…どうする?」
「どうするって…何が?」
「今日さ、これから…」
「んーと…宿題しなきゃかな…」
「俺、渋谷の画材屋に行くけど、一緒に来る?」
「ん?いいや、家にいる」
「大丈夫?」
「全然、大丈夫だよ」
「そうか…あんまり心配したって始まらないもんな」
「はじまらないはじまらない…」


部屋で宿題を済ませると、『私』に座席が譲られた。
『早く会いに行かなきゃだな…』
『やっぱり…僕らがしてあげられることは何もないのかな…』
『会って話さなきゃいけない』
『お父さんは、きっと2年後には死んじゃうんだ…』
『もしかしたら、変えられるかも知れないし、もし変えられないとしたって、出来ることはある筈だ…』
『会って…どうしたらいいんだろう…』
『ちゃんと話すんだ、俺が未来から来たこと』
『きっと、知りたがるだろうな…自分の病気がどうなるのか…』
『どこまで話すかだな…今は結末を話す訳にはいかない…お父さんがやるべきことがまだまだある…それを伝えて…お父さんの気力に望みを託すんだ…どっちにしてもまず2人きりになれるチャンスを見付けないと…』
『もう…どうしていいか分かんないや…任せた方がいいみたいだな…』

父は入院している...
今回『私』がいつまでここに居られるのかも確かではない。
前にここに居られたのは8ヶ月間だった。
時空の外側に跳ばされて戻って来られたのは2ヶ月後だ。
もしも父にあと2年間しか時間が残されていないのだとしたら、チャンスはなるべく有効に使わなければならない。『私』がここにやって来たことと、父の病状に何らかの関係があるのかどうかすらはっきりしない。最悪の場合、いつそれがラストチャンスになるとも限らないのだ。


母は父の治療が始まった月曜日から毎朝出掛けていった。
帰宅は夕刻になる。帰りに夕食の買い物をする時には5時を回ることもあった。
学校のある兄や私は殆ど顔を合わせることはなかったが、日中の家事の為に野村さんという中年の家政婦さんが毎日通って来てくれていた。

第13話につづく…

第1話から読む...




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?