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大矢のカンガルー 4

第4章 特筆すべき野口本部長


午後…正治と前山が昼食から戻ると、制作室は新しい特番の企画決定の話題で持ち切りだった。話はもっぱら入社僅か半年足らずで特番の企画を決めた正治のことと、この企画の制作スタッフに一体誰が配置されるのか、ということだった。

席に戻ると、正治の姿を追って鈴子が待ち構えたように近付いてきた。
「川村君、聞いたわよ。川村君の書いた企画書、決まったんだって?」
「うん…へへ…」
「凄いじゃない!若手が書いた企画が決まったの、はじめてよ」
「そうなの?」
「そおよお、大体ちゃんと企画書書くような人いなかったし、川村君が来るまで企画部だってなかったのよ。新しい企画作るっていったら、そうねえ…末次さんか前山さんくらいのもんでしょ。末次さん喜んでたわよお」
「そうなんだ…あれ?末次さんと仲野さんは?」
「今社長のとこに報告に行ってる。すぐに戻ってくるんじゃないの?」


正治が企画部のメンバーやアシスタント仲間たちと新企画の内容について話をしていると、この制作室を統括するボス、制作本部長で副社長の野口宏次郎が出社してきた。

太めでいつも髪を短く刈っている野口は、人の良さそうな福顔の中年で、いつもよれよれでつんつるてんの紺のジャケットをピッチリと着て、少し内股で勢い良く歩いてくる。無理矢理シャツの第一ボタンがとめられている苦しそうな太い首は、これまたよれよれの細いネクタイでぞんざいに締められている。野口は正治を見付けると、いつもの大きなだみ声で声を掛けた。

「おう!新入りっ!インテリっ!悪いけどよ、玄関に俺の車止めてあっから、駐車場に入れといてくれっ!」
「あ、おはようございます!了解っす」
「悪いな、鍵はついてるからよ」
「はい」
正治は皆との話を中断して、局の玄関に向かった。


野口の車、フェアレディーZは埃を被り薄汚れて玄関の真ん前に不躾に放置されていた。すぐ脇に顔見知りの警備員が所在なさげに突っ立っていた。

「すいませーん!すぐに動かします」
「あ、はいはい。ご苦労様。しっかし、あれだねえ…おたくのボス、折角いい車乗ってんだから、もう少し綺麗にしてあげたらいいのにねえ。これじゃあ車が可哀想だよねえ…」
「あはは…」

確かに彼の言う通りだった。どうやらボディーの色はもともとシルバーだったようだが、何層にも積み重なった埃のせいで元のつやは消え去り、白っ茶けたねずみ色になっている。そこに泥やら鳥の糞やらが付着しては雨に流され、また放置されては上から埃が付着してさらに雨に流され、あちこちが斑の模様になっている。さすがに乗る度にワイパーとウインドウ・ウオッシャーで窓の埃は拭っているらしく、唯一フロントの窓だけは扇型に汚れが落ちている。その扇型の透明部分から、僅かに車の内部を覗くことができるが、これがまた物凄い状態である。運転席以外、車内の内装は様々なもので被い隠されていて全く見ることが出来ない。

警備員に気の毒そうに見守られながら、正治はドアを開けて運転席に乗る。2シートの車内は見渡すかぎり書類や雑誌、手紙や葉書やパンフレット、領収書、空き缶、紙屑、何かのお菓子の包装紙や食べ残しなど、シートの上に限らず床や後方に至るまで何層にも積み重なっている。

正治はフェアレディーZの長いノーズをぶつけないように、ゆっくりと敷地奥の駐車場に車を移動した。

このプロダクションに入社して間もない頃、正治は番組の為の資料を探しに野口に自宅まで連れて行かれたことがある。この時初めて彼の愛車に乗せられた。

野口は局の駐車場で運転席から助手席のドアを開けて「おう、乗れ」と言った。そこには紙屑や雑誌や書類などが無造作に散らばり、助手席など全く見えなかった。当時正治たち若い世代の憧れだった高価なスポーツカー・フェアレディーZをかくも無神経に乗り倒す大人は見たことがなかった。

「えと…あの……」
「おう、ちょっと散らかってるけど、その辺のもんはシートの後にでもうっちゃって座れ」
「は、はい…」

紙屑や雑誌の類いを幾抱えも掬っては後方に移すと、そこにようやく助手席が現われた。しかし車内に散乱した書類や雑誌は助手席の足元にも積み重なっており、正治はどうしたものかと、乗車をためらっていた。
「どうせ大えしたもなあ無えんだ。足元のもんは踏んづけていいぞ」
「あ、はい…」

正治は野口の言葉に従った。さすがにフェアレディーZを選ぶだけあって、野口は年齢に似合わない快走ぶりを見せた。

野口の自宅は都内の閑静な住宅地の高級そうなマンションだった。立派なエントランスを通り、立派なエレベーターに乗って、立派な廊下を抜け、立派なドアを開けると…車の中と同じ状況がそこにあった。

独身の一人暮らしには余裕の2LDKのマンションは足の踏み場もないほど散らかっていた。いや、『散らかっている』という概念を遥かに越えている。玄関から続く全ての部屋の床は様々な書類、雑誌、書籍、包装紙、郵便物、原稿、そして投げ捨てられた紙屑によって覆い尽くされている。その厚みは部屋の扉や冷蔵庫の扉付近を除けば、おしなべて7、8センチ程もあり、足の踏み場もないというのは正にこのことだった。

野口は構わずそれらを踏みつけてどんどん奥の部屋の方に入っていくので、正治も「お邪魔します…」とつぶやいてその後に続いた。連れて行かれた部屋は八畳ほどの書斎らしく、雑然とした大きなデスクの上に英文の電動タイプライターがどっかと置かれ、壁には天井付近まで書棚が作り付けられており、様々な書籍や雑誌がびっしりと並んでいる。本棚に収まりきらないものは部屋のあちこちにうず高く積み上げられ、それ以外のスペースはやはり全て紙屑や雑誌や資料などが何層にも散らばり重なっている。

「多分その辺の山ん中に去年のナショナル・ジオグラフィックが何冊かあると思うんだけどよ…ちょい見てくんない?分かるか?」
「あ、はい。黄色い表紙のやつですよね」
「お、お前え、ナショナル・ジオグラフィック知ってんのか。なかなかインテリじゃねえか」
「えーとお…この辺にある雑誌はネイチャーとサイエンスばっかりですよ」
「そうか…じゃ、あっちの部屋だったかなあ…そこの向こうの部屋探してくれ」
「はい。入っていいんすか?」
「おう。頼むわ」

正治は言われる通り引き戸を開けて奥の部屋に入った。その部屋は寝室らしく、小さなシングルベッドと高価そうなステレオセットが置かれていた。ステレオの前には何十枚ものLPレコードが、あるものは積み重ねられ、あるものは散乱して、中にはジャケットに戻されない裸のまま放置されているものもあった。ざっと見たところ殆どはクラシックのレコードだ。ステレオの天板が開きっぱなしになっていたので中を覗いてみると、ターンテーブルに乗っていたのはヴィヴァルディの『四季』だった。

部屋の散らかりようは書斎や他の部屋と同じようなもので、あちらこちらに書籍の山積みもある。ベッド周辺はさらにひどく、ゴミや雑誌は厚みを増して傾斜となり、その頂点にベッドのマットが四角く露出している。寝床のシーツはいつから替えていないのだろうか、枕カバーと一体となって人型の茶色い汗染みを描いていた。

正治はナショナル・ジオグラフィックを探しながら、『こんな面白い人物が本当に実在していいのだろうか?』と、まるで全てが夢の中で起きていることのように感じるのだった。ベッドの付近で数冊の昨年発行分のナショナル・ジオグラフィックを発見した。

「野口さん、これですか?」
「おう、それそれっ!ちょっと貸してくれ」

正治が見付けた数冊を手渡すと、野口はその中から2冊を抜きだし、他のものをまた床に放り投げた。乱暴に手早く頁をめくっては、その辺の紙屑の切れ端を数箇所の頁に挟み、再び正治に渡した。

「よしっ、これでいいや。これよ、明日の朝、科学番組班の連中に渡しといてくれ」
「はい、分かりました」そう言って正治は預かった2冊の雑誌を鞄の中にしまった。

「御苦労だったな」
「いえ」
「これからどうすんだ?局に戻んのか?」
「いえ、今日はもう家に帰ります」
「そうか…お前え、晩飯はもう食ったのか?」
「いえ、まだですけど…」
「急がねえんだったら、うちで食ってけ。旨いチーズとワインがあんだ。スパゲティーでも作ってやるからよ」
「え?野口さんお料理、自分でやるんですか?」
「あー、一人暮らしだからな。時々だけどな。どうする?」
「あ、はい。じゃ、御馳走になります。いいんですか?何か手伝いましょうか?」
「そうか?じゃよ、ちょっと台所で食器洗って貰おうか」
「はい」

広いキッチンの洗い場には食器や鍋やフライパンが前回使われたまま放置されていた。シンクの中に徘徊するゴキブリの姿がチラリと見えたが、正治は何も見なかったことにして構わず湯を出して、洗剤とスポンジでまずは鍋とフライパンなどの調理道具から洗い上げると、野口は手慣れた手つきで鍋を火にかけ、材料を刻み、フライパンにトマトとベーコンとバジルでソースを作り始める。

正治は食器を洗い終えて、機嫌良さそうにスパゲティーを茹でている野口に声をかけた。
「食器、洗いましたけど…」
「おう、有り難う。あっちの部屋によ、ステレオがあっただろう?何か適当に好きなレコードかけてきてくれ」
「あ、はい」

クラシックにはあまり興味は無かったが、散らかったレコードを拾い集めて物色してみると、中に『時計仕掛けのオレンジ』のサントラ盤があったので、ヴィヴァルディと入れ替えて針を落とした。台所に戻ると、野口はダイニングテーブルの上に散らばっている書類や雑誌を片付けていた。片付けているとは言っても、あちらこちらの床の上に放り投げているだけであるが、その行動をよく見るとただ乱暴に投げ捨てているわけではなく、内容に応じて放り投げる場所には彼なりの法則がある様子だった。

テーブルの上に空けられたスペースに食器が用意される…
「お前え、この映画観たのか?」茹で上がったスパゲティーにソースを絡めながら野口が尋ねた。
「ええ、大好きです。何度も観ました」
「2001年は観たか?」
「はい、もちろん観ました」
「おう、冷蔵庫の中のよ、手前の方にカマンベールとブルーチーズが入ってんだ。出して適当に切ってくれるか?それとよ、扉んとこに貰いもんのワインが冷やしてあるから、出して栓抜いといてくれ。栓抜きはそこの右側の引き出しに入ってるからな」
「はい」
「お前え、SF好きなのか?」

本部長の野口は多くのヒット番組を生み出してきたテレビ界の名プロデューサーであると同時に、海外のSF小説の翻訳家でありSF作家でもある。見事に二足の草鞋(わらじ)を履きこなしている。

「割と好きです。えと…ワインってこれですか?」
「おう、それそれ」
「…あの…これ…イケムですよ…開けちゃっていいんですか?」
「この間知合いから貰ったんだよ、2本。1本飲んだけど旨かったぞ。ちょっと甘口だけどな」
「そりゃ旨いですよ。シャトー・ディケムですよ。めちゃくちゃ高いですよ、これ」
「お前え、ワインのことも良く知ってんだなあ…貰ったんだからただだよ、ただ。飲ませてやるんだから文句言うんじゃねえ」
「はい、すみません…開けます…」

「で、誰が好きなんだ?」
「誰って何がですか?」
「SFだよ、SF。どんなの好きなんだ?」
「えと…筒井康隆とか半村良とか…あの、栓抜きないんですけど…」
「んー…そこじゃなかったかな?その辺にねえか?あ、こっちだった。おう、ここここ…ここにあったぞ。外国のもんはどうだ?」
「やっぱ、アシモフ好きです。それと最近は…カート・ヴォネガットとか読みますけど…」
「アシモフとカート・ヴォネガットかあ…いい趣味だな…」
「野口さんはSFのどんなもの翻訳してるんですか?」
「俺はエドモンド・ハミルトンとかだな。知ってるか?」
「すいません…あんまり知らないです。グラスはこれでいいっすか?」
「おう、何でもいいや。まあ、スペース・オペラっちゅうか、冒険ヒーローもんだな」

次第に会話は進み、なかなか楽しい夕食となった。野口は少年時代からSF冒険物語が大好きで、当時はまだまだ日本には紹介されていなかったSFの名作を海外から取り寄せては原書で貪り読んでいたそうで、それが高じてそのまま翻訳家になってしまったらしい。ただし当時はSFは一部のマニアのものでしかなく、当然仕事としては成立しない状況だった為、大学卒業を機に当時発足したばかりのテレビメディア業界に飛込んだという話だった。

テレビ制作の世界では、彼がSFで培った科学の知識や子供のように冒険物語に心躍らせるパーソナリティーが大いに役立ったらしく、科学情報番組や幼児教育番組、子供向けバラエティー番組の分野で次々とヒット番組を生み出していった。しかも昭和40年代に入ると、日本でもSFはブームとなり、翻訳家としても作家としても一躍脚光を浴びることとなったのである。

彼は駆け出し時代の苦労話やSFや現代科学への様々な想いを聞かせてくれた。まるで少年のようにきらきらと目を輝かせて表情豊かに語る彼の話を聞いていると、正治は自分が漫画好きの仲間達と一緒にいつも空想を巡らせていた子供の頃に戻ったような気がした。

入社したばかりの正治にとってはまるで雲の上の存在だった本部長の野口は、想像していた以上に個性豊かでユニークな好人物であった。いずれにしろ、彼と近しく話をする機会を得たことは、正治の仕事への情熱を大いに高めることとなった。この日以来野口本部長は正治のことを『インテリ』と呼ぶようになったのだ。

第5章つづく...

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