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父の残像 20

告白の時期…


さすがにもう寝ているのも飽きた。
私はパジャマから普段着に着替え、食卓に向かった。
「おはよう!」兄が納豆ご飯を美味しそうに頬張りながら声を掛けた。
「カッちゃん、おはよう!」
「お、もう寝てなくていいの?コウちゃん…」
「うん。もう平気。お母さんは大丈夫なのかなあ…?」
「ああ…緑内障の調子が良くないのかもな…機嫌悪いから、あんまり近付かない方がいいぞ」
「そうか…」
「大丈夫だよ。あんた達は心配しなくていいの。すぐに元気になるから…あんた達がやんなきゃいけないのは、しっかり朝ご飯食べることっ!」
しずさんの美味しそうなみそ汁の香りが鼻をくすぐった…


部屋に戻ると、『私』は交代を要求した。暫くすると子供の私の姿が座席から消え、その存在が充分に離れたところに見えた。『私』は朝の父との会話を思い返していた…
『なんかあったみたいだな……』
『お母さんの具合、相当悪いのかなあ……』
『2人だけで話したいっていうのが、ちょっと引っ掛かるなあ…』
『難しい話は、僕は、聞いてても良く分かんないし…うんと離れてれば…』
『ま、聞いてみないと、何の話か分からないんだし…そうか、今晩から、眠った後も俺だけ暫く起きてるようにするか…朝は、子供にはちょっときつくなるかも知れないけど…』
『僕はなるべく早く寝るようにする…その方がいいんだよね…』


母は昼前に起きてきて、一緒に食卓に着いたが、依然あまり食欲がない様子だった…
「コウちゃんはもうすっかり治ったみたいね…」
「うん…お母さんは、大丈夫?」
「ちょっとね…なんだか疲れちゃって…あ、あんた、まだ勉強始めちゃ駄目よ。今週一杯は少し大人しくしてなさいね」
「うん、家で漫画でも読んでる…」
「あたし、後でちょっと出掛けてくるから…」
「あら、奥さん、大丈夫なんですか?」しずさんが心配そうに訊ねた。
「家でぐずぐずしてても何だか気が滅入っちゃって…加代子おばちゃんのところにいってくるから…いいかしら?野村さん…」母の妹、私の伯母のところだ。

「まあ…疲れた時は気晴らしもいいかも知れないですね。でも、気を付けて下さいよ」
「大丈夫よ。そこからタクシー拾って行っちゃうから」倹約家の母が一人でタクシーを利用するのは珍しい…
「いいですよ。お夕飯の支度もしておきますから、奥さん、少しゆっくりしてきて下さい」
「ごめんなさいね、このところすっかりお任せしっぱなしで…野村さんも、子供たちと一緒に食べてくれると助かるけど……」
「まあ、あたしも嬉しいんですよ。家に帰って一人で食事しても味気ないし…ねえ、コウちゃん」
「悪いわねえ…助かるわ、野村さん」
「いいんですよ。それより、お出掛けになるんだったら、奥さん、もう少しお腹に入れとかないと…」
「そうね……」


母を見送ると、しずさんは食卓に戻ってきて呟いた…
「うーん…何かあったね…ありゃあ…」
「うん…しずさん、何か聞いてないの?」
「いやあ…何にも…」しずさんは中空を見つめて記憶を探っているようだった…
「僕が病気になってからだよね?」
「いや、あの日は…あたしが来た時は、コウちゃんが熱出したって、奥さん慌てて…お医者さん呼んで…で、旦那さんはどっかに電話してたわねえ…あ、そうだ。磯ちゃんのとこだ。子供が熱出して往診頼んだから少し時間を遅らせてくれって…」
「そうだ、あの日お父さんとお母さん、どっか行ったんだよね。どこいったの?」
「さあ?聞いてないねえ…えーと…ああ、昼前に磯ちゃんが迎えに来た時に、今日はどこに送って行くのって聞いたら…たしか…会社の方に行くって言ってたけど…」
「だって…あの日はお休みじゃない」
「そうだよねえ…あたしも変だなって思ったんだよ……」
「会社の方って言うと…もしかして、病院?」
「病院だって、休日は休診だろ?」
「そうだよねえ…」
「で、夕方前にお帰りになって…あたしはその後すぐ帰ったからねえ…そうだ、夜にお電話があったんだ。朝ご飯の支度とコウちゃんの看病、お願いしたいって…やっぱりどっか具合が悪くなったのかも知れないわねえ…ま、どっちにしたって、あたしやコウちゃんが心配したって始まらないわよ。いろいろ事情があるんだろうし、そのうち元気になるって」
「そうか…そうだね…」


母が帰宅したのは夜になってからだった。夕食は伯母のところで済ませてきたと言っていた。少し元気を取り戻した様で、暫く会っていなかった伯母や私の従姉妹の様子や近況を楽しそうに話してくれたが、表情に疲労の色を残しているのは明らかだった。


夜、いよいよ明日の夕刻には帰って来る予定のヤスオや真弓がいつ連絡をくれるか、子供の私は楽しみにしているようだった。

10時を回った頃、私はベッドで漫画を読みながらうとうとし始め、そのまま眠り込んでしまった。『私』は私の眠りを邪魔しないように、そのままの体勢で昔読んでいた懐かしい漫画を読み続けたが、私の眠りがどんどん深くなってゆくのを感じて、勉強机の椅子に場所を移した。


父が帰宅した様だった。浴室を使う様子が窺えた…
食卓で母と会話を交わしている様子が窺えた…
母が父を残して寝室に入ってゆく様子が窺えた…
いつものように父が戸棚から洋酒を出して、冷蔵庫を物色している様子が窺えた…
さらに暫く経って、父の足音が私の部屋に近付いてきた…
襖がそっと開く…

「…お帰りなさい…」『私』は椅子に座ったまま、声を落として父を迎え入れた…
「松岡さん?」父がそっと訊ねた…
「はい…」
「康治は…」
「ええ…寝てます。静かにお話しましょう。起こさないように…」
「分かりました」父はそっとベッドに腰掛けた。
「私と2人だけで話したいって…どういうことですか?何かお仕事のこととか?」
「ああ、お陰様で…仕事の方は全て順調です。ただ…」
「ただ…何です?」
「私の身体のことなんですが…」
「ああ、このところ大分健康になられたようで…」
「いや…それが…今月に入ってからの検査で、再発していることが分かりました」
「…そうですか…膀胱に?」
「ええ、まあ、膀胱の方に少しと…他にも転移がありまして…」
「どこに転移したんですか?」
「肺に数ヶ所とリンパ節、肝臓と脊椎にも…それも…進行がかなり速いらしくて…」
「で…もう一度治療されるということに?」
「ええ。取り敢えずは来週の木曜日から…ただ、完治させることは出来ないだろうと言われました。進行を、少し遅らせるだけの治療だと…」
「…ということは…」
「…延ばせても1年だろうと言われました…ただ、このまま放置すれば半年も持たないだろうと…いうことでしたから…子供もまだ小さいし…康治は、受験も控えているし…どうしたものかと…で、貴方がですね、もし康治の傍に暫く居てくれるんであれば…いろいろと、力になってやって欲しいと思いまして…」
「お母さん…いや、奥さんには…?」
「あなたが…いや康治が熱を出した日に、吉村先生、覚えてますか?病院の教授に話をして貰いました」このところの母の様子の理由が分かった。

「あなたの方は…大丈夫なんですか?」
「いやあ、そりゃもう、はは…正直、ちょっと参りました…そういうこともあるかと、少しは覚悟もしていましたけど…まあ、戦争の時に拾った人生ですし…ここまでやれるとも思ってませんでしたから…いや、私はもう、覚悟は出来ました。あとは家族の先行きのことを…できれば、残された時間でちゃんとしてあげたいと…」

どうやら、『私』がこの時代にやってきたことも、修学旅行欠席の計画も、父の寿命を延ばす役には立たなかったようだ…
『私』は沈黙の中で暫く考えを巡らせた…そして、全てを父に話そうと決心した。

「あの…実は私、あなたに隠していることがあって…」
「え?何ですか?」
「私の名前は…松岡じゃないんです。あれは咄嗟に思いついた知合いの名前で…本当の名前は……実は…川瀬康治です」
「かわせこうじ…って、私の次男の…コウちゃん?…」
「そうです。父親の名前は川瀬健造…父は1972年に癌で他界しました。49歳でした。あなたのことです、お父さん」
「…そ、そんな…じゃあ、2009年からこの時代に来たっていうのは…」
「自分の子供時代に跳ばされた…ということなんだ」
「じゃあ…何で、今まで隠して……」
「ここに跳ばされて来た時に…もしかすると、あなたを…お父さんを、助けるために来たんじゃないかって…もしかすると、過去を変えられるんじゃないかって…」
「…それで…康治なんだな…君は未来の康治なんだな?俺が死んでから30…7年後…家族は元気なのか?お母さんは…幸江は…?」
「大丈夫だよ。元気。もう79になった。緑内障の進行で少し目は不自由だけど、僕と、僕の家族と、ここで一緒に暮らしてる…」口調はいつの間にか、お互いの関係に戻っていた…

「そうか…やっぱり、君に話して良かった…それを聞けただけでも安心出来たよ。それで?克夫は?お兄ちゃんは?」
「大丈夫。お父さんがいなくなってから、我が家を支えてくれたのはカッちゃんだから…多分お父さんは死ぬ前にカッちゃんにいろんなこと託したんだ。俺が教えたろ?世の中がどう変わるかとか、経済がどんな風になるかとか…お父さんが死んじゃった後でも、カッちゃんが財産をきちんと殖(ふ)やしてくれて…僕もお母さんも不自由なく生活できるようになるんだ」
「その方法も、お前が教えるのか?」
「違う。僕には、子供の頃に大人の自分がいた記憶なんてないんだ。だから…カッちゃんは一人で、自分で考えて…きっとお父さんも、死ぬ前にいろいろ考えて、カッちゃんに沢山のことを伝えたんだと思う。僕はまだ中学生になったばかりだったから、何も知らされなかったし、50歳になった今でも殆ど知らされてない…」
「お前…受験はどうなるんだ?」
「大丈夫だよ。ちゃんと合格する…そのことは子供の自分にも伝えてある」
「カッちゃんは…お前の、いや君のこと、知ってるのか?」
「俺のことを知ってるのは、子供の自分と友達2人、それとお父さん。それだけ。カッちゃんにもお母さんにも知らせてない。だから、カッちゃんに後のことを託すのは、お父さんの最後の仕事なんだと思う…」
「あいつ…出世するんだろうな…」
「大学から自力で留学して、貿易会社で活躍してる。今は管理職になって東京の本社勤務だけど、前は殆ど1年中世界を飛び回ってた。英語もフランス語もスペイン語もペラペラでさ…お陰で義姉さんとは別居して一人暮らしになっちゃったけど、今は気ままに人生を楽しんでるって感じかな」
「孫はどうだ?俺に孫は出来るのか?」
「うん。カッちゃんには2人…男の子と女の子…もう2人とも成人したけどね。俺は1人だけ。男の子で、2009年には10歳だった。可愛い奴でさ、お父さんと合わせたかったな…」
「そうか…俺の孫は3人か…そう聞いただけで何だか嬉しいな…」父にいつもの元気が少し蘇っていた。
「もっと聞かせてくれよ、未来のお前たちのこと…」
「うん。いいよ…」
『私』は父が死んでから私たち家族が辿った長い道のりに沿って、沢山の話を父に聞かせた…

「そうか…コウちゃんもカッちゃんもなかなかいい人生を送ってんだなあ…第一、2人とも俺より長生きなのが嬉しいや。ま、俺の人生だって結構楽しかったしな。それほど早死にって訳でもねえし…」そう言って、父は少し涙ぐんでいた。

「でも、お父さん…もしかしたらもう少し生きられることになるかも知れないよ…」
「何でだ?」
「だって、さっき話しただろ?俺は子供の頃に自分の中に大人の自分が突然やってきた、なんて記憶は全くないんだ。ヤスオとだってずっと付き合ってるし、ここに来るまでにそんな話は一度もしたことはない…パラドックスっていうか、何かが変なんだよ。過去の事実だって書き換えることが出来たんだ」
「どういうことだ?」
『私』は卒業アルバムに載った修学旅行の記念写真の一件を説明した…

「なんだ…お前…あれ、仮病だったのか?」
「子供たちを怒んないでやってよ。2年前にこの時代に跳ばされて来てから、こんなことは初めてなんだ。過去を書き換えられたんだ。だから、お父さんの死ぬ時期だって、少しは、少しは…」急に胸の奥から熱い気持ちが沸き起こってきた…

「分かった分かった…もういいから…いろいろ頑張ってくれて有り難うな…俺も最後にやるべきことが分かったような気がする。お前に頼んないで、自分でお前たちをちゃんと守れるように…考えてみるから…」
「お父さん、それから、絶対に諦めないでよ。書き換えることは出来るんだから…チャンスはまだあるんだから…大変だろうけど、最後の最後まで…あの…つまり…」
あれほど冷静に父と話をするつもりだったのに、胸から込み上げる感情が抑え切れない…
『あ!しまったっ!』

慌てて意識の内側に視線を移してみると…いつの間にか子供の私が目を覚まして『私』のすぐ背後に迫っていたのだ!

『お父さんっ!嫌だ!お父さんっ!死んじゃ、嫌だ!嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だっ!』
 私は自制不能の錯乱状態で『私』の上に覆いかぶさってきた!
『駄目っ!駄目だ!離れて!落ち着いて!』

もう遅かった…
突然視界から父の姿が掻き消され…部屋の背景が光の中に溶け込んでいく…
子供の私の意識は、複雑な色素の巨大な集合体となって物凄い早さで『私』から遠ざかってゆく…そして、それもまた光の中に溶け込んでいってしまった…

一片の変化も認識出来ない、実体のない存在として浮遊し続けながら、『私』は『もう一度戻らなきゃ…』そう願っていた…

第21話につづく…

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