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実録短編小説『北温泉』1
車で那須の登山道に入ると、中腹あたり一本道沿いに那須温泉郷がある。
この温泉郷を通りすぎたあたりに、『北温泉この先○キロ』という小さな看板を見つけることが出来る。
私が北温泉を目指したのは、もう30数年も前のこと。私はまだ30代で、演出家としての仕事も最も忙しい時期。大掛かりな海外の仕事を無事片付け、数日の休息の間、気分転換にどこか長閑なところに旅行がしたくなった。
たしか11月の終わりごろで、そろそろ冬がやってくるという時期だった。
雑誌の秘湯紹介記事に見付けた『水木しげるとつげ義春推薦の秘湯』のコメントに誘われて(実は当時一泊7千円食事付というのも魅力だったのだが…)早速電話で予約を入れた。
北温泉には当時付き合い始めた女性を連れに誘い、2人車で向かうことになった。
高速を降り、那須の温泉郷を通りすぎ、どんどん山道を登っていく...
道路脇にはだんだんうっすらと雪が増え始め、風も強く横殴りに雪を吹き上げ、車からの視界は最悪となっていった。
ぼちぼちと路面にアイスバーンも出現してき始めた為、「しようがねえ、この辺でチェーン付けとくか…」と丁度道路脇に広い退避スペースのようなものがあったので、車を止め、トランクからチェーンを出すため外に出た。
「うう… く…寒っぶーいっ!ちくしょ……ん?」
車から降りてよく周りを見ると、スペースの奥、雪煙の向こうに手書きの大きな文字看板『北温泉駐車場』がうっすらと見えていた。
車に戻り、「やった!ここらしいぞ」
「ほんと?でも何にも見えないわよ?」
たしかに…吹き上げる雪のせいもあって、この駐車場からは何も見えない。
再び柵のところまで近づいてみると、やはり手書きの小さな看板が…『旅館にお越しの方はこの階段からどうぞ 北温泉』…底の見えない古いコンクリートの深い階段からは、びゅんびゅんと雪が吹き上げている。
「やっぱここだ。ここからは歩きみたいだぞ。でも多分直ぐ近くなんだろ...」
連れを促し、車を置いて、荷物を持ち、氷がこびりついた階段を恐る恐る手すりを頼りに降りてゆくと、幅僅か1メートル程の岩と氷の崖を削っただけのような道に出る。
柵は無く、壁側に太いロープが張ってあり、ロープの下にこう書いてある…『足元に御注意下さい。北温泉→』。
急勾配の下り坂、前も崖の下も吹き上げる雪で何も見えない...
この先、この道がどこまで続くのか、足を滑らせたらどこまで転落するのか全く予測不可能な状態である。
吹き上げる風に、ロープを岩に固定する鎖がジャラジャラと音をたてる。
連れ合いは荷物を放り出し、ロープにしがみついて「あ、あたしもうだめ…腰が抜けた…」
私は仕方なく、2人分の荷物を抱え、しがみつく連れ合いを引きずりながら、とにかく前方を目指した。
『俺って、たしか温泉に来ただけだったよなあ…』と、この時、自分たちが置かれた常識をはるかに越えた状況に初めて気が付いたのだった。
粉雪まじりの暴風に煽られながら、岩と氷の崖道を、恐怖の為足腰の立たない連れ合いを引きずりながら、おそるおそる下ってゆくと、道幅は次第に広くなり傾斜もゆるやかになり、何とか命の危険だけは遠ざかったようだった。
やがて坂道が終わり、目の前に雪の平地が広がる。
暴風に吹き上がる雪の向こう側に、明らかに大量の湯煙が立昇っているのが見える!
「おい!湯気だっ!あれ、湯気だぞ!急ごう!」
「さぶ~~~い!!」と、言いながらも、連れは多少元気を取り戻した様子で足早についてくる。
寒さをこらえ、吹雪の中をしばらく歩くと、立昇る湯煙の中に見えてきたのは一辺が20メートルほどもあろうかと思われる古い四角いコンクリートのプールだった。大量の湯煙はここから発生していたのだ…
「なんで、こんなとこに突然プールがあんだ?」
近付いてよく見ると、中にはゴミやコケが一杯...恐る恐る手を入れてみると、ぬるま湯、張られた水の深さもせいぜい50センチといったところ…
コンクリートはヒビだらけで、とても人が入るようなものとも思えない。
かといって他の何かの生物が飼育・養殖されているような気配もない。
周囲には土木器具が散乱し、何のためなのか荒れ果てた設備だが、周囲の寒気のせいで湯煙だけは豪勢に立昇っているのだ。
「ここが風呂だったりして…はは…」
「………」この寒さではもう冗談は通じない。
ふと見上げると、湯煙の向こうには古い木造三階建ての大きな旅館が姿を現していた。
我々は急ぎ入り口を目指す...
正面の大きな引き戸の入り口はピッタリと閉められている。
中はさぞかし暖かいのだろう。
勢い良く引き戸を明けて中に入り、頭やコートの雪を払っていると、山奥の湯治場にしては小奇麗な女将がそそくさと奥から姿を現し、「まあまあ、外はお寒かったでしょう。こちらに来て暖まって下さい。すぐお部屋を御用意しますから…」と、勝手な想像を頭の中に膨らませて、勢い良く戸を開け「ひゃー!さむい!」と中に飛び込んだ。
眼鏡が一瞬の内に曇り、中の様子はほぼ隠されてしまったが…期待したような反応は何もないようだった…
眼鏡を拭くと、隣でぼう然としている連れの表情が見えた。
玄関の奥、広い土間のだるまストーブの周りにたむろしていた厳つい作業服の男3人がにこりともしないでじっと我々を見ている…
他に人影はないが、ストーブとは逆側に広くて暗い板の間が続いている。
板の間の奥の方は本当に暗くてどのような構造になっているのか良く分からない…「すみませーん!ごめんくださーい!」
声を掛けるが、何の反応もない…
と、ストーブの周りにいる男達の1人がボソっと「ベル鳴らさねどきごえねでねか…」
言われて板の間と土間を仕切る板戸の柱をよく見るとベルのボタンがあり、たしかに『ご用の方はボタンを押して下さい』と書かれている。
ボタンを押すが、何も聞こえない…
多分人がいるのは、とんでもなく奥の方なのだろう…
しばらく待っていると、板の間の奥の廊下からパタパタと背中を丸めた人影が近づいてきた...