双葉荘 1
一、 百葉
今朝、妻と二人で実家近くの区役所に離婚届を提出してきた。2年もの別居生活中、幾度も二人で話し合ってきたが、やはりお互い別々の人生を歩もうという結論に達したのだ。二人には子供もいなかったし、特に憎しみ合っていた訳ではないので、円満な結論と言えるだろう。
今や妻はコラムライターである私の担当編集者。夫婦としては紆余曲折あったが、仕事上では良き仲間である。届け出の後、もう妻でなくなった美江と喫茶店で軽くお茶を楽しんだ。
「どう?最近、調子…」美江がカフェオレを一口啜って微笑みかける。
「まあまあかな。他からの仕事も少し増えてきたし、実家にいる限りは金に困ることもないし。そっちは相変わらず忙しいんだろ?」
「そうね…新しい雑誌の企画で何だかんだねえ…あ、そうだ。この間も言ったけどさ、あなた、このままライターの仕事続けるんなら、何か自分で書きたいものちゃんと書いた方がいいわよ。いつまでも親掛かりって訳にもいかないでしょう?うちのボスもあなたの文章には読ませる力があるって褒めてたわよ。続けるんなら本気でやってみなさいよ」
「ああ…物書いて飯食えるなんて夢にも思ってなかったからなあ…今んとこは注文こなすだけでも必死だけど…俺みたいなポッと出のライター使ってくれるだけで感謝してるよ。この歳になってようやく道が開けたっていうか…そのうち余裕が出来たら何かちゃんと書いてみるよ」
「まあ…そうね…2年前までは全然違う仕事してたんだもんねえ…でも…良かったわね。前の仕事辞められてさ。好きになれなかったみたいだったから。きつそうだったわよ」
「ああ…何で舞台の仕事なんてやってたんだろな、俺。舞台が好きだったことなんて一度もないのに…」
「知らないわよ。あそこに就職が決まった時、あんなに喜んでたじゃないの。まあ、きっちり稼いでたし、シナリオの勉強とかもしてたから、きっと無駄にはなってないんじゃない?」
「ま、お陰様でようやく抜け出せたよ。思い切って生活変えたのが俺には良かったかもな」
「お互い、遠慮があったもんね…あたし、ストレスになっちゃって…その節はどうも御迷惑お掛けしました…」
「何だよ…あらたまっちゃって…俺こそ頼りない亭主で悪かったと思ってる。でもさ、お互い心機一転…だな…」
「そうね…」
別れたにも関わらず何故こうも屈託なく付き合いが出来るのか…我々にも分からない。今だ二人とも次の相手がいないからなのだろうか…私が彼女と同じ土俵上に仕事を変えたからだろうか…2人はいつもと変わらずお互いの近況を報告し合った。
「さ、そろそろ仕事に行こうかな。あなたは?帰るの?」
「いや、今日は特に急ぐ原稿もないから、ちょっとね、行ってみようと思うんだ」
「何処?」
「二人のことがはっきりしたら、もう一度行きたいと思ってたんだ。百葉」
「双葉荘?」
「ああ、商店街とかさ、公園とかも…もう一度あの辺歩いてみたかったんだ」
「そういえば、郵便受けに八井さんの名前、もうなかったわよ」
「え?そうなの?君、最近行ったの?」
「あたしは隣町だからね。最近はたまに行くのよ。あそこの商店街安いし…あなた、あれから一度も行ってないの?」
「ああ。だって、別にもう用事もないだろ?…」
「今更言うのも何なんだけどさ、場所的には本当にいいとこだったわねえ。2ヵ月前位だったかな、お散歩がてら公園まで足伸ばしてみたのよ。ちょっと怖かったけど…」
「へえ…」
百葉駅のホームに立つ。2年前と何も変わった様子はない。周囲の柵や看板、青々とした初夏の植生や、爽やかな風に乗って届く香りもそのままだ。
階段を昇り古い木造の橋上駅舎に入る。急行も止まらない旧街道筋の小さな駅らしい佇まい。駅事務所の扉の前には以前と変わらず大きなゴムの木の鉢が置かれているが、少し育ち過ぎている様で、流石に鉢をもう少し大きなものに植え替えてあげないと可哀想な気がする。
改札を出て右へ…西口の階段を降りると小さな店舗がひしめき合う狭い駅前の袋小路に出る。左側一番手前は私のお気に入りだった小さな書店だ。ほんの一間ほどの間口。
店に入って左側は新刊の雑誌類、右側は店主が集めた古本の棚だ。ここの古本の品揃えは非常に偏っている。小説は近代フランス文学、学問書は文化人類学関係、論説は映画とジャズと江戸時代文化、写真集は建築関係…多分店主の好みなのだろう。他のジャンルのものは一切扱っていない。私としては申し分ないのだが、いくら店側のこだわりとは言え、これで商売になるのかとこちらが心配になってしまう。その辺のところ一度店主の話を聞いてみたかったが、肝心の当人はいたって無口で無愛想。取り付く島がないのだ。
折角ここまで来たのだから久し振りに店内を覗いてみることにした。
『お…』古本の棚に好きな小津安二郎関連の書籍が増えていた。まだ読んだ事のない数冊を物色していると、背後から声を掛けられた。
「あんた随分久し振りだねえ…どっか引っ越しちゃったの?」
振り向くと、いつもはろくに口もきいてくれなかった店主が以前と同じ様に無愛想な表情で私を見つめていた。どうやら私の顔を覚えてくれていたようだ。
「あ、え、ええ…都内の実家の方に越しちゃったんですよ。すいません、ご無沙汰で…」
「たまには顔見せてよ。あんたが欲しがるんじゃないかと思って仕入れた本もあるんだから…」
「あ、はい…すいません…」
「まあ、越しちゃったんじゃあ、しょうがねえや…」店主はそう言い放つと無愛想な表情のまま奥のレジまで戻って行った。
結局、小津の本と古代ポリネシアンの本を選んでレジに持っていくと、店主は2冊の本をしげしげと眺め、「ああ、やっぱりねえ…」と呟きながら私の顔を見てにやりと笑う。彼の笑顔を見たのは初めてだった。
駅を背に進み、小路を抜けると狭い旧街道に出る。ここから左方向国道に向かっての数百メートルの間が百葉の商店街だ。戦後の闇市から発展したと聞いたことがある。いたって庶民的な店が軒を連ねる。
そろそろ腹が減ってきた。かつてよく行った食堂を思い出した。ここから左に100メートルほど先の左手にある大衆食堂だ。別居する以前、舞台監督として所属していた舞台制作会社を辞めてしまい、フリーランスとして細々と仕事をしていたので収入も安定せず、なるべく倹約を心掛けていた。そんな折この食堂には随分助けられた。
結構間口の広い店構えだが、店内はいたって質素。まるで土間のような打ち放しの床に簡素な椅子とテーブルがぎゅうぎゅうに置かれている。客筋は労務者と学生ばかり。一人客が圧倒的に多い。
驚かされるのは値段だ。人気メニューの餃子3つ付き中華そばは190円、玉子丼と小たぬきそばのセットは250円…等々…総菜を買ったり、自炊するより余程倹約になる。仕事が忙しく家計も苦しい我々には随分と助けになった。もちろん格別に美味しいわけではないが、ボリュームも味もそれなりで、文句はない。いつ行っても相席状態でこの界隈でも人気の店だ。
食堂はまだ健在だった。メニューも値段もそのままのようだ。以前と同じように古いのれんを潜り、店内に入る。昼過ぎで店内はごった返していたが、すぐ目の前のテーブルに席が空いていた。向かい側で労務者風の初老の男性が丼飯付きのたぬきそばを食べている。
「すいません、ここ、いいすかね?」
男は丼から顔を上げ、箸を持ったままの手で『どうぞ』の意思を示した。荷物を置き、カウンター前に水を取りに行きがてら、近くに居た顔見知りの中年の女性店員に声を掛ける。
「あの、あそこ、生姜焼き定ひとつ、お願いします」
「はいよっ!生姜焼きひとーつっ!あら?おたく久し振りだねえ。奥さんと別れちゃったんだって?」
「え?なんで知ってるんですか?…」
「この間奥さんが来てさ、聞いたんだよ。いい感じの夫婦だと思ってたんだけどねえ…ま、人生いろいろだからね。まだ若いんだから頑張んだよ」
「あ、はい…すいません…ご心配頂いて…へへ…」
テーブルで定食が届くのを待っていると、向かい側で食事を終えた男が立ち上がる…
「御馳走さん…」作業ズボンのポケットから財布を出す。女店員が近付く…
「はい、おしんこ付きだから220円だね」
「あのお…前のつけが…」男が言い難そうに切り出した。
「あら、そうだったかねえ…いくらだった?」
「その前のもあるから…あのこれで…」男はおずおずと千円札を1枚出す。
「だから、いくら?悪いけどさ、こっちはいちいち覚えてないんだよ。お釣りは?」
「あの…丁度くらい…」
「くらいって…あんた…ま、いいわ。頂いとくわよ。また来るのよ。お金がなくても我慢しちゃ駄目よ。食べるもん食べなきゃ身体壊すよ。いい歳なんだから…」
「ども…御馳走さん…」
「はいっ!ありがとうございましたーっ!」
百葉の商店街界隈には今でも安アパートや木賃宿がひしめいている。物価も安く、季節労働者や日雇い労務者、苦学生が集まる街でもある。多分昔からそうなのだろう。人情が厚く気の置けない風情に満ち溢れている。こんな会話もこの店では日常のことなのだ。懐かしい雰囲気の中、久し振りの定食の味を楽しんだ。
食事を終え、のんびりと商店街を一巡した。見慣れないファストフード店が2軒程出来ていたものの、その他は以前と全く変わっていない。以前よく立ち寄っていた八百屋と総菜屋から声を掛けられた。この街を歩く私の姿はまだ彼らの記憶の中に少し残っているのだろう。
商店街を戻り、駅とは反対側の道の坂を上り始めると、雰囲気は一変する。雑然とした商店群は消え失せ、辺りは緑の多い庭を備えた閑静な一軒家ばかりとなる。文字通りの山の手だ。坂を上りきった三差路を右に曲がると、さらに丘陵の上へと導く細い坂道が続く。
途中まで登り振り返ると、点在する木々の隙間から遥か遠くに陽光に煌めく横浜港の水平線が見える。ここに初めて来た時には、庶民的な下町から歩いて僅か5分ほどの丘の上にこれほど長閑で爽やかな住宅地があることに驚いたものだ。さらにもう少し坂を登れば、道の左手に私と美江がおよそ2年間を過ごした『双葉荘』がある…
美江と私が結婚したのは5年と少し前の冬のことだ。友人の紹介で2歳年下の美江と知り合ったのは、まだ私が学生の頃だから、結婚までには数年の付き合いがあった。学生時代好きなジャズバンドの活動でそこそこ収入もあった私は、学業はそっちのけで留年を重ねてしまっていた。
まともに仕事に就いたのは彼女の方がひと足早く、このままでは就職も結婚も逸してしまうと焦った私は、何とか慌てて卒業に漕ぎ着け、音楽仲間の伝手で大手資本の舞台制作会社に潜り込むことができたのだ。それまでの音楽活動を通じて舞台周りの構造や事情には慣れていたし、制作現場の雰囲気も肌に合っていたのだろう。勤め始めて2年後には何とか若手舞台監督陣の末席に名を連ねることができ、きちんと職を持った大人として美江を妻に迎えることとなった。
言ってみればあの頃『結婚』は二人にとって大きな目標だったのだ。何故あれ程無理をして懸命に結婚に固執したのか?…今考えてみると我ながら不思議なのだが、確かに当時は何の疑問も持たず、二人とも懸命に働き、貯金をし、収入の安定を目指し、まるで同じ戦いに挑む同志のようにひたすらゴールを目指していた。
親戚や友人を招き、なけなしの貯金と親の援助で結婚式を挙げ、まずは共働きの若い二人に相応しい住まいを求めた。妻の実家の横浜に近い蓮寺駅付近…新築マンションの一階に格安の2DKを見付けて新婚生活をスタートさせた。
ところがいざ住んでみると、この部屋が最悪だった。マンションの一階とはいっても、斜面の途中の半地下に近い構造。テラスに面した広い窓を脇の坂道が斜めに横切っている。朝カーテンを開けると駅に向かって坂を下りる出勤の人々の足元が目の前に見えるのだ。
斜面に半分埋もれた部屋だからなのだろうか、建築後のコンクリートの湿気も一向に抜けず、いつもじめじめしている。洗濯物も乾かない。ベッドの布団が湿っぽい。暫くすると内装のあちらこちらにカビの黒染みが出現しだす。それでも、二人とも仕事が忙しく、あまりべったり部屋に居ることもなかったので衣類乾燥機や布団乾燥機を購入して何とか凌いでいた。
さらに参ったのは真上の階の住人だ。どうやら近所の小学校の教員らしい。毎週土日になると幾人もの子供たちが遊びに来るようで、朝からドタバタドンドンと元気の良い足音や床を飛び跳ねる音が響く。毎週末に生徒が遊びに来るなんて、今時余程人気のある先生なのだろうなあ、と当初はほほ笑ましく思っていたが、日頃夜遅くまで仕事に追われている2人にとって、たまの休みは貴重な睡眠時間だ。毎週のこととなると、笑ってもいられなくなってしまった。
何とか1年近くは我慢しただろうか…ある日美江が不動産屋から一枚の賃貸物件のちらしを持って帰ってきた。
「ここどう思う?」差し出したちらしにはこう書いてあった…
『百葉駅より徒歩五分、木造二階建て、築二十七年 庭付き 間取 一階 玄関 台所 ダイニング八帖 風呂 トイレ 二階 六帖 四・五帖 ベランダ 横浜市港北区梶原台町三丁目 双葉荘』
「木造二階建て?木造アパートってこと?でも…二階建てで庭付きってことは、一戸建て?」
「不動産屋さんの話だと二軒長屋だって」
「ああ、そうか…それで双葉荘か…家賃もこことおんなじだな」
「ほら、管理費がないからちょっと安いのよ」
「百葉駅って、隣の駅だろ?」
「そうよ。ここからだったら歩いても行ける距離よ。ねえ、あなた、明日出勤少し遅くできない?あたし、明日の朝見にいくことにしたんだけど…梶原台って、大きな公園のある高台でさ、凄くいい処よお」
「そお…じゃあ、見に行ってみるか…」
翌朝、駅前の不動産屋に伴われ、目指す物件を訪れた。旧街道の雑踏から逃れるように坂を昇ると、嘘のように閑静な住宅地が広がる。不動産屋の担当者は木立に囲まれた細い坂道の途中で足を止める。
「ここですね。この左側の家です」彼が指し示した場所は坂道よりも少し立ち上がった敷地で、目の前は垣根の枝葉で塞がれている。よく目を凝らして覗き込むと枝葉の向こうに古い木造の建屋の存在が伺えた。見上げると木立の上に二間幅の大きなサッシの窓と鉄骨のベランダが丘陵の斜面を見下ろすように顔を覗かせている。
「こちらが玄関になります」
少し先に敷地に上がるコンクリートの小さな階段、その先に黒い鉄製の格子門、その脇に『双葉荘』と書かれた板票と二つの郵便受けが備えられている。右側の郵便受けには『八井』の名前が差し込まれているが、左側の郵便受けには名前がないので、こちらが今回の空き物件なのだろう。
門を開けて敷地に上がると、奥に向かって細長い造りの家屋で、中央寄りに木目のデコラ板の同じ扉が二つ並んでいる。ちらしには築二十七年と書いてあったので、相当に傷んだ物件なのではないかと心配していたが、外装を見る限りはしっかりした造りで、手入れも良く行き届いているようだ。玄関前はなかなか広く、奥には鉢植えと自転車が置かれていた。多分隣の住人のものだろう。
担当者はポケットから茶色の封筒を出し、中から鍵を取り出して手前の扉の鍵穴に差し込んだ。
「どうぞ、上がってご覧になって下さい。修繕も清掃も、もう済んでますから…」
内装も間取も申し分なかった。特に間取はちらしの見取り図でイメージしていたよりもずっと広い。一帖の広さがマンションサイズではないからだろう。どの部屋も、どの収納スペースもたっぷりしていて気持ちが良い。特に二階の日当たりと風通しの良さ、さらに窓から横浜港まで一望に見渡せる広々とした風景も気に入った。水回りの設備は流石に古いものだったが、機能的には何の問題もなさそうだ。もちろんその場ですぐに契約の意向を伝えた。
「ああ、そうですか。そりゃあ良かった。じゃあ早速ですが、大家さんのお宅に伺いましょう。もし、お気に入ったらお連れして欲しいって言われてますんで。いや、ご挨拶程度のことですから…直ぐ傍です。そんなにお時間は掛かりませんので…」
そんな話は初耳だ…
「え?入居するのに、まだ何か条件でもあるんですか?面接みたいなことなんですか?」不安気に尋ねたのは美江だ。
「もしかして…大家さん、凄く煩い方なんですか?」私がそう訊くと、担当者は明らかに狼狽の表情を見せた。
「え?あ、いや…あの、そういうことじゃなくてですね…家もご近所ですから…あのお…ご入居される方たちとは、その…なるべく良好に親しくお付き合いしたいという、大家さんのたってのご希望でして…で、ですね…ご契約前に一度お会いしたいと…」
「じゃ、それ…面接ってことじゃない」美江が言い放つ。
「いやっ、あの、そんな…堅苦しいことではなくて…ちょっとした事前のご挨拶程度のことですから…」
「ま、いいわ。こっちにも選ぶ権利はあるんだから。あんまり変な人だったらこちらもやめましょう」
「そうだな。物件は気に入ったけど、まだ契約した訳じゃないし、大家さんがご近所なんじゃあ、相性もあるしな…」
「まあ、そう仰らずに…別にそんな悪い方たちじゃないですから…参ったな…」困惑する担当者は何かを隠している様子だった。
大家さんの家はさらに坂を50~60メートルほど登った公園の手前にある大きな家だった。表札には『寺田幸吉』と記されている。
担当者が玄関に設えられたインターホンを押すと、直ぐに女性の声で『どうぞ…』と返事があった。
扉を開けると、玄関にはにこやかな表情で我々を出迎える大柄な夫婦が立っていた。主人は身長180センチ以上もあろうかというがっしりとした巨漢。年の頃は60過ぎだろうか、短めの白髪をきっちり七三に分け、銀縁の眼鏡、スラックスにカーディガンを身に着けたいかにも常識的な山手のご主人といった風貌だ。横に立つ夫人も軽く160センチ以上はあるだろう。歳の割には相当大柄である。こちらもニットのカーディガンにスカート、きちんとセットされた髪、縁無しの上品な眼鏡を掛け、浮かべた微笑みは型通りといった感じだ。
「どうも、おはようございます。こちら川村さんご夫妻です…」担当者が口火を切った。
「川村です…はじめまして…」
「あの、こちらが大家さんです」
「はじめまして、寺田です」寺田氏の声は低く太い声だった。
「今、双葉荘の方、ご覧になって頂きまして、あの、大変お気に入って頂いた様でしたので、早速お連れいたしました次第でして…」
「まあまあ、玄関先じゃあなんですから、どうぞ、お上がりになって下さい。今お茶でもお入れしますから」夫人はそう言って我々を玄関脇の洋間に案内した。
広い洋間の応接セットで我々三人は寺田氏と向い合う。話はそれぞれの自己紹介から周辺の様子、世間話など、先方からのさしたる厳しい要求もなく、表向きは大家と店子の和気あいあいとした初顔合わせといった内容だ。対応もごく紳士的でにこやかである。ただ、少し不思議だったのは、この人物には何故か人懐こさというものが微塵も感じられないのだ。
生い立ちを尋ねると、彼は元々苦学生で、寺田家がこの界隈に持つ多くの貸家に学生として下宿していたらしい。その後先代の勧めでこの寺田家に婿入りし、跡を継いだということだ。別に包み隠すこともなく淡々と話してくれた。
私が一番気になったのは、寺田氏が話の途中途中で頻繁に美江に視線を移すことだ。私や担当者と話をしていても、いつの間にか言葉は美江に向けられている。その間も視線は表情だけでなく首筋や肩、胸、腰、足、手先など、彼女のあらゆる部分に注がれるのだ。
確かに美江はどちらかといえば美人の部類に属するのだろうが、人の目を釘付けにするほどの美貌の持ち主ではない。もしかするとこの人物は真面目そうに見えて、すこぶる女好きなのかも知れない…当の美江もそれを感じてか、普段は人怖じしない性格なのにも関わらず、身を固くして俯き、あまり会話にも参加しなかった。
やがて夫人が紅茶とクッキーを盆に乗せて戻り、我々に加わるが、それ程多くを語る訳でもなく、あくまでも主人の隣に控えている様子だ。
「旦那さん、慶應出身だそうだよ。お父様は上場企業の現役の役員さんだって。奥さんの御実家もしっかりされてるし、お二人ともちゃんとした会社にお勤めだし、なかなかいい方たちだよ」寺田氏はそう言って我々が手渡した名刺を夫人の前に滑らせた。
「あらそう…うちの甥も慶應なんですよ。そうよね、カズくん慶應よね」
「ああ…そうだな。一昨年だったか?入学したの…」
「奥様は、出版社にお勤めですのね?」夫人はそう言いながら美江の全身を舐めるように見た。
「ええ、はい。今は雑誌の方の編集をしています…」美江が少し顔を上げて応えた。
「まあ、お二人とも優秀でいらっしゃるのねえ…で?お子様のご予定はないんですか?」
「あ、はい…今のところ二人とも仕事が忙しいんで…予定はありませんが…」私がそう答えると、美江が割って入った。
「あの、子供がいるとまずいんでしょうか?」
「いえ、そんなことはないんですよ。ただ…初めからあんまりお子さんの多い方はねえ…ほら、何かと、あれでしょ?お断りしてるんですよ。あそこは少し手狭ですし…でも、子供が禁止ってことではありませんから、その辺は、どうぞ、あの…御遠慮なさらないで…あらいやだ、わたし、何言ってるのかしら…ほほ…」
その後も、先方からの大した要望はなかったが、何かすっきりしない嫌な感触が心の中に残った。しかも、さてこれで契約成立かと思ったら、最後に夫人が担当者にこう告げた。
「まあ、いい方たちを見付けて頂いてありがとうございます。じゃあ、明日、こちらから連絡させていただきますから…」
つまり、決定ではないということだ。我々の一体何が気に入らないのか…私がそう思っていると、美江が直ぐに口を開いた。
「こちらも、一度帰って主人とよく検討してみますので。また、連絡しますね」
担当者が双方にしきりに恐縮する中、初顔合わせは散会となった。
翌日、不動産屋から仕事場に連絡が入った。
「はい、川村です」
『あ、すいません。御自宅お留守だったもんで…昨日はどうもありがとう御座いました。それでですね、先程大家さんの寺田さんからご連絡がありましてですね、申し分ないということでして…もう是非契約の方を進めて欲しいということで…』
「そうなんですか?そんな風には見えなかったけどなあ…」
『いやあ、あれは一応ポーズなんですよ。あちらだって空いちゃってるより、早く入居して欲しいんですから。要は物件ですよ。お気に入ったって仰ってたじゃないですか。如何ですか?奥様とご検討されました?』
「条件はいいんですけど…大丈夫なんですか?何かいろいろ上から目線で干渉されると思うと、ちょっと気が重いんですけどねえ」
『それ程ご心配されることもないと思いますよ。うちの方は寺田さんから他にも幾つか物件預からせて頂いてますけど、そういう問題はあまり聞いてませんし…もし何かありましたらうちがきちんと間に入りますから』
「そうか…ま、もう一度よく家内と相談してみますよ」
『そうですか?…一応手付けだけでも入れて頂けませんかねえ?あれだけいい条件だと、直ぐに他の方に決まっちゃいますよ』
「いやあ、あれじゃあ直ぐに決まるってこともないでしょ。まあ、その時は縁が無かったと思って諦めますから。どっちにしろ明日また連絡します」
『そうですか?…』
結局、不動産屋に再び連絡したのは2日後の週末だった。美江も私と同じ気持ちだった。要は不快と不愉快のどちらを取るかということだ。もちろん二人とも『双葉荘』の環境は大いに気に入っていたが、あの夫妻と親しく付き合えるとはとても思えなかったし、かといって予算の範囲内であれ以上の物件を見出すのは難しい。
昨日は二人とも一日休みを取って他の不動産屋も当たってみたが、あれ程心動かされる物件は見出せなかった。まあ、具体的な実害が想定される訳ではなく、寺田夫妻と付き合うことに抵抗感があるだけのことなのだ。いざという時は直ぐに引っ越し出来るように、移転費用を蓄えておくことで、二人は同意した。
かくして、その年の春を前に、我々は『双葉荘』での生活を始めることとなった…