昭和であった8 〜特筆したい2つの番組〜
これまで昭和40年台初頭までの間に私の心に刻まれた昭和のテレビ番組を紹介してきた。
確か、私が中学生の最後の頃だったと思う、我が家は改築され私と兄にはそれぞれに部屋が与えられることになる。
それまで子供部屋に置かれていたソニーのポータブルテレビは私が貰い受けることになり、私の部屋の勉強(?)デスク上には常に自由に観ることが出来るテレビが置かれた。
この頃には居間やダイニングにはカラーテレビが設置されていたので、普段の番組は家族と一緒にそれを観ていたが、夜の深い時間は自分の白黒テレビで自由にチャンネルを独占していた。
丁度その頃はテレビ番組編成は深夜放送までに及び、各局は日常放送出来なかった買付輸入番組や放送権を得た古い映画などを放送していたと思う。
高校生からの青春期、私は外出が増え、街で遊び歩き、バンド活動に夢中になり、その分学校もサボりがちで留年に甘んじ、奔放な毎日を送っていた。
父や兄と同じ有名校に通ってはいたものの、何故勉強に勤しまなければならないのか…自分の将来の方向が全く掴めず、日々悶々と若くはち切れそうなエネルギーを持て余していたのだ。
当時日本のテレビ業界は既に破竹の勢いでその波及効果を売り物に、マスメディア資本を独占しようとしていた時期であったが、テレビっ子だった私の興味はもうそこには無く、遊び歩き、街を徘徊し、深夜に疲れて部屋に戻ってからぼんやり眺めるだけの癒しの道具となっていた。
その頃である。
強烈に当時の私の心に刺さった2つの番組があった!
それについては、是非ここに記し残しておきたいと思う。
1本目の作品は…
『プリズナーNo.6(The Prisoner)』(昭和44年放送〜)
始まりはNHKの深い時間帯だったと思う。(その後別局の深夜でも放送された)
イギリスのSF的なタッチの連続ドラマ番組だった。
初回を観た時の感想は… 『一体何なんだ??このドラマは…』という印象で、正直頭がグルグルしてしまった。
それほど私の『ドラマ』とか『ストーリー』という概念を完全に超えてしまっていた!
近未来…主人公は当時は良くありがちな秘密諜報員… ある日彼は辞表を叩きつけ、スパイの身分を放棄してしまう。
その直後、自宅で何者かに襲われ気を失ってしまう。
物語はここから始まる…
気が付くと… そこは『村(Village)』と呼ばれる国籍不明の長閑な場所。
村人は沢山いるが全てが囚人で、名前ではなくナンバーで呼ばれているが、特に拘束されている訳ではなく、自由に村で暮らしている。
彼にもプリズナーNo.6のナンバーが与えられ、すべての登場人物はナンバーで呼ばれる。
村の長はNo.2。
このNo.2は回を追うごとに何故か違う人物に変わっていたりする。
No.2の上に更なる上層員No.1がいるのだが、それはNo.2への指令ボイスのみで、一切画面に登場する事はない。
No.2は主人公にスパイを辞めた理由と知っている情報を執拗に訊こうとするが、彼は何故かこれを頑なに拒否し、村を抜け出そうとする…
一見、村を抜け出すことは容易に見える。
ただし、村の外に出ると、どこからともなく『ローヴァー』と呼ばれる白い大きな球体が追いかけてきて、包み込まれると失神し、再び村に連れ戻されている…という訳の分からない運び…
これが全体の設定で、要するに主人公と影の支配者No.1との知恵比べが主軸になり、この不思議な世界での人間模様やさまざまな出会い、新たな発見が毎回のストーリー展開となる。
ただし、主人公を含め殆どの登場人物には名前がなく、主人公にとって敵か味方かもよく分からない…
主人公がどんな情報を持っていて、彼が何故スパイを辞めたのかも何も分からない…
何とも掴み所のない一種の活劇ドラマなのだが、それはそれで暗中模索を強いられる視聴者にとってモヤモヤした気持ちの中で次の展開を絶対に見逃したくない気持ちにさせるのだ。
登場人物のセリフにも随所に哲学的な言い回しが散りばめられている。
全く新しい一種アブストラクトで不思議な視聴感覚だった。
その後の数々のテレビ番組や映画の中でも、この感覚は二度と味わった事はない…
今だに何故あんな番組が成立したのか不思議で仕方がない。
考えてみれば、その当時はイギリスの文化が花開いた頃…
エンターテイメントでもモンティ・パイソンをはじめアメリカ文化とは一線を画した知的ニヒリスムが世界を席巻し始めた頃のことである。
もう一度言うが、こんなドラマは後にも先にもこの番組だけである。
さまざまな作品に接してきた中で、思春期の私の心に深く突き刺さっている。
結末は敢えてここには記さない。
ネットで調べてみたら、配信はない様だがDVDは販売されている。
ご興味のある不条理好きの方には是非視聴をお勧めしたい。
(ちなみに私もこれを機会に注文してしまった…笑)
そして、2本目の作品…
『燃えよ!カンフー(Kung Fu)』(昭和49年放送〜)
香港製のカンフー映画が世界的に話題を集め始め、遂にかのブルース・リーのハリウッド映画『燃えよドラゴン』が世界を席巻した翌年のことである。
当時もう20歳になっていた私は音楽三昧の毎日で、自分のバンドやスタジオセッションへの参加、さらにはクラブ歌手として幾つかの店にもレギュラーで出演し、学生でありながらプロのミュージシャンの世界に足を踏み入れていた。
学生とは言っても大学にはほぼ行かず、高校を含め3回もの留年を重ね、勉学の方はほぼリタイヤを決めていたが、人一倍愛校心の強い父から『何年かかってもいいから、親孝行だと思って卒業だけはしてくれ』との強烈な要望で、首の皮一枚を残して在籍だけは維持していた頃のこと。
もうテレビはそれ程熱心に観てはいなかったように思う。
たまたま、テレビの洋画劇場で『燃えよ!カンフー』と言うアメリカで話題になっている新しいカンフーテレビドラマのパイロット版が放送された。
ブルース・リーやカンフー映画はそれなりに好きだったので『どんなもんかな〜』と気楽に観てみたのだが、大変なショックを受けた。
いわゆる勧善懲悪的なアクションヒーローものかと思ったら、とんでもなかった!
原タイトルは『Kung Fu(功夫)』、少林寺の『修行する者・雲水』という本来の意味で、決して派手な立回りのあるアクションものではない。
清の時代(19世紀)、中国の少林寺で修行をしたアメリカ人との混血児クワイ・チャン・ケインが主人公。
浮浪者さながらの風貌でアメリカ中を放浪する…
彼には少林寺で習得した僧侶としての体術と深い知恵が備わっている。
徹底した菜食主義で、馬を使役することもなく、一切の武器は持たず争いは避け、人を寄せ付けない過酷な砂漠も独りで難なく踏破してしまう。
少林寺の技を使用するのは身を守る時のみ。
欲を持たず、常に平常心を失わない。
当時のアメリカはまだ開拓民がひしめく無法地帯が多く、人種差別も激しい…
そんな中、ケインは飄々とそこで出会う人々を助け、無法者たちを退け、ひたすら旅を続ける…
パイロット版ではそれ以上詳しいことは良く分からなかった。
カンフーブームで視聴者を呼び込もうとしたのか、日本版のタイトルの付け方が何とも稚拙で、この番組の本当の凄さ奥深さは伝えられていなかったのだ。
兎に角、私はそのとてつもなく奥深く硬質なストーリーに心奪われた。
早く本放送が始まらないか…と、ワクワクしながらその日を待ち続けた…
ところが、当時一般受けする派手なカンフードラマではなかったせいか、その後なかなかシリーズ放送は始まらなかった。
日本で本格的に放送が始まったのは何とさらに2年後のこと、NET(現・テレビ朝日)の深夜放送だった。
もちろん私は第1話から観始めた。
次第にストーリーの背景が明らかになってくる…
ケインは元々中国の孤児… 幼少期に少林寺に預けられ、僧侶としての修行の道に入る。
師匠は盲目の老僧…彼は師匠から様々な教えを授けられ、やがて若き僧侶に成長してゆく。
ある日、清の皇帝の甥の暴力から師匠の身を守る為、ケインは心ならずその甥を殺害してしまい、清王朝に追われる身となってしまう。
国外に逃亡するに際し、自分にはアメリカに住む兄がいることを知り、その兄を探すためアメリカに密航したのだ。
こういった背景は各回のストーリーの要所要所に回想シーンとして挟み込まれ、次第に彼の背景が明らかになってくる。
それと同時に、毎回の局面や窮地に追い込まれると、少林寺での修行中に教えられた様々な教えが脳裏に蘇る…
子曰く… といった構造だ。
そこには数々の仏教思想や老荘思想が散りばめられており、リアリティーの高い作品に仕上げられている。
実はこの番組の企画者は、かのブルース・リーである。
グリーン・ホーネットのカトー役からカンフー映画のスターへ、ハリウッドで成功を収めたリーは次の自分のステップとしてこの企画を温め続け、ABC局に持ち込んだのだ。
もちろん、自分を主役にと考えてのことだった。
ところが当時1970年台の初頭はアメリカはまさにベトナム戦争の真っ只中、若者たちの間にはそれまでのアメリカ的な文化を見直そうとする機運がヒッピーたち反戦主義者を中心に広まっていった。
そしてそれはキリスト教離れの機運にまで高まっていたのだ。
彼らは新たな価値観を求めて、東洋神秘主義…つまり仏教やラマ密教、老荘思想、タオイスムへと触手を広げ、当時流行り始めた様々な武道と結びついて、大きなムーブメントに発展する勢いだった。
番組制作側はこの風潮とリーの企画を結び付けたのだ。
従って配役も若い東洋人リーよりも、より重厚な本来の演技が求められた。
結果、主役はキル・ビル役を演じた名優・デヴィッド・キャラダインが演じることとなる。
そしてそれは見事に大当たりした。
この番組は本国では大変な評判となり、特に若者たちの間で大ヒット番組となった。
世の学生たちは自らのことを『 Little Grasshopper 小さなコオロギ』(師匠が修行中のケインに付けたあだ名… 盲人でも気付くコオロギの声にケインが気付いていないことをからかった)と呼ぶ程の社会現象となったが、当の東洋である日本では全く話題にならず、深夜放送で終わってしまった。
ただし私の周辺(友人たち)の間ではこの番組は大きな話題だった。
「昨夜のカンフー見た?」が合言葉だった様に覚えている。
実際私もこの番組を機に『老子』や『道教』、『スッタニパータ』『グルジェフ』『ラジニーシ』など、夢中になって読み漁った。
私にとっては実に多くの大切なことを学ぶきっかけとなった番組だ。
この数年後から私はミュージシャン活動に一旦終止符を打ち、テレビを見る立場から番組を企画し制作する側に回ることになる。
色々な意味でこうした昭和の多くのテレビ番組が私の創作意欲を刺激し、その後の私の人生を創り上げてくれた様な気がする。
要するに私は生粋のテレビっ子だった訳だ。
思い返せば私の両親(特に父親)がこうした私の好奇心の芽を摘み取ることなく、自由に任せてくれたことに本当に深く感謝している。
ということで、昭和のテレビの話はこの辺で終えることにしよう。
次回は再び幼少期少年期に遡って、昭和の子供たちの遊びの世界を紹介する。