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父の残像 5

ヤスオへの信頼…


夏休みは学ぶことの連続だった。

まず、これが『夢』かも知れないという可能性は、ほぼ期待できないという事実を、朝を迎える度に思い知らされた。どうやら『私』は完全にこの時代に弾き跳ばされてしまったようだ…
つまり、『私』の意識は子供の私の身体と時空を越えて突如合体したのだ。

その子供の私にも脳があり記憶があり意識がある。
意識…脳…感情…記憶…肉体…行動…実際に私の中でどのようなことが起きているのかは分からないが、そこには法則があった。
脳は肉体の一部でしかなく、その脳は明らかに意識によってコントロールされている。つまり肉体はロボットで意識はそのロボットの操縦者ということだ。さらに、脳と意識は相関関係にあって、意識によって働き、発育した脳はまた意識の精度を高めてもいくのだ。

普通、この相関関係こそが法則を見え難くしている。
子供の意識には子供の脳神経、大人の意識には大人の脳神経…それは、肉体の発育とまるでシンクロナイズしているように見えるからだ。確かに力や運動能力は肉体に応じて制限されるので、発達は発育を待たなければならないが、運動神経…つまり神経細胞は脳の一部であり、肉体よりもはるかに素早く発達することが出来る。その脳神経の発達を促すのが意識だ。
簡単に言うと、志が高ければ脳はそれに簡単に短期間についてゆくことが出来る、ということだ。

私の肉体は10才だ。例えば、10才の私は靴ひもを短時間で結ぶのは難しいと『意識』していた。脳はそれに準じて手先の運動神経を鈍感に留めている。そこに大人の『私』の意識が入り込む。『私』の意識は、靴ひもを結ぶことなど『簡単な作業だ』と意識している。10才の私の脳神経はほんの僅かな時間で修復され、瞬く間に靴ひもを手早く結ぶことが出来るようになるのだ。

夏休みの間にギターの腕はめきめき上達し、この分ならちょっとしたアドリブにも充分対応出来るだろう。ただし、手や腕の筋肉痛を幾度も乗り越え、弦を押さえる左手の指先は痛みを乗り越える度に硬いタコになっていく…といった肉体的試練は一から経験しなければならない。

毎年参加している学校主催の夏休み水泳教室でも、期間中に上級生をごぼう抜きして一気に一級を取得し、周囲から一目置かれるようになった。
当たり前だ…中・高生時代、兄に倣って水泳部に在籍していた。当時は自由形の中長距離選手で、都の大会ではいつも決勝に残っていた。泳ぐことが日常だった経験があるのだ。
心肺能力や筋力は頼りないものの、スピードさえ気にしなければ、長い距離を泳げるようになるのに大した苦労は必要なかった。

何よりも50才の『私』が感動したのは、成長期の私の肉体が持つ柔軟性と弾力、そして回復力だ。
懐かしい近所の仲間たちとのボール遊びや探検ごっこは本当に楽しい。夢中になればなる程身体は躍動し、興奮が興奮を呼んで、嬉しさ、可笑しさ、悔しさ、期待や緊張…奥底から次々と湧き上がる激しい感情で叫声を抑えられない。
これほどの高揚感が日常だったことなど、この数十年の間にすっかり忘れてしまっていた。

「子供の仕事は元気に遊ぶことだ」
昔大人から聞かされたこの言葉の本当の意味がようやく分かった気がした。


子供としての日常に早く慣れるということも重要だが、『私』が今いるこの時代のことをもっと良く知るための時間も捻出しなければならなかった。
子供という立場では、家で新聞やテレビや雑誌に自由に接していられる時間にも制限がある。
夏休みとはいえ子供が自由に外出できる時間にも限りがある。限られた時間を有効に使うのに、祖母から拝借した現金が大いに役立った。

バスや電車、地下鉄を駆使して都心の繁華街やビジネス街を徘徊し、この時代の物価、風俗、文化、ファッション、インフラ…等を見て回った。

特に刺激的だった街は新宿だった。
路上に長髪の学生やフーテンたちが溢れ、ホームレスのように群がっていた。フォークギターをかき鳴らし飛び交う反戦歌やアジテーションの隙間を、見るからにヤクザと分かる男達がうろつき、顔見知りのように彼らに話しかける…そのすぐ傍をネクタイ姿の大量のビジネスマンたちが我関せずといった素振りで忙しそうに通り過ぎ、先端のファッションを求める大勢のノンポリ学生たちが観客としてその周囲を取り巻いている…成長と不安と格差と不満と焦り…安定に向かう過渡期の混とんとしたこの時代の悲鳴のような光景だった。

瞬く間に3週間が過ぎ去り、8月も半ばになっていたが、相変わらず私は自分のやるべき役割を見出せずにいた。


「俺のゲームなのに、なんでお前そんなに強いんだよお!」
もう我慢できないという表情で声を荒げたのはヤスオだ。
夏休み中、ヤスオは買って貰った魚雷戦ゲームに何度も私を誘った。私がこのゲームをお年玉を叩いて手に入れたのは、たしか次の正月明けのことだ。私はこのゲームが大好きで、何としても自分のものを手に入れたかったのを良く覚えている。

真っ青な海原をイメージしたゲーム盤の上に浮かべられた戦艦…手元の発射台から魚雷に見立てた小さな鉄球を転がすと、玉は海原の下をゆっくりと敵艦目指して転がってゆく…撃沈か、回避か…玉を転がして的に命中させるだけの単純なゲームだが、些細な状況によって魚雷のコースが微妙に変化してしまう繊細かつ奥深いゲームなのだ。

「ほら、ヤッちゃん家の机ってさ、微妙にこっちに傾いてんだよ」
「そうなの?…」
「ほら、見てみ…玉を置くとこっちに少し転がるだろ?」
「ほんとだ…」
「だから、こっちから発射するとこうこっちに、そっちから発射するとこう曲がるんだよ。微妙だよ…玉一個分くらい。玉の勢いでも変わるし、発射台のとこにもちょっと癖があんだよ。だから照準通りに発射したって駄目なんだよ」
「そんな細かいとこまで見てんだ…」
「だから面白いんじゃん、これ」
「そう…なんかさ、コウちゃん最近変わったよな…」
「そお?」
「そうだよ、言うことがさ、大人っぽいんだよなあ…」
「そうかな?…」
「理屈っぽいよ…いろいろさ…話し方だってさ…ほら、この間みんなに公園で説明してたろ?けんじがアンポってなんだ?…って聞いた時さ、アメリカの話とかさ、ベトナムの話とかさ、きょうさんしゅぎとか…難しいこと良く知ってるし、ちょっと前はそんなの興味なかったじゃん、お前さ」
「そうか…最近ニュースとかよく見るからかな?…」
「それだけじゃないよ。魚雷戦ゲームのやり方もそうだけど…空き地でキックベースやってた時、隣町の6年坊の奴らが野球やるからどけって割り込んできたじゃん。あん時もお前が話着けたろ?俺そばで聞いてたんだぞ。びっくりしたよ」
「でも、ちゃんとキックベース続けられたろ?」
「あん時6年坊の奴がさ、お前に、ガタガタ言わないでさっさとどかないと腕ずくでどかすぞって脅したろ?」
「そうだったかな?」
「そうだよ。そしたらさ、お前涼しい顔してさ、ここでもし下級生に暴力振るったら君たちどんなことになるか分かってるの?…って…分かってて言ってるんならやってみれば…って…」
「言ったかも知れないな…」
「言ったよ!お前、あんな度胸のある奴じゃなかっただろう?そんで、そのあと、少し待ってりゃあ終わるからって、なだめてさ…まるで大人みたいな言い方だったぞ。向こうだってビビるよ、あれじゃ…」
「……」言い返す言葉が見つからなかった。

「まだまだあるぜ。夏休みの宿題とっとと終わらせちゃうしさ…それに…お前いつから英語分かるようになったんだよ?ビートルズとかローリングストーンズとか、英語の歌詞全部知ってるじゃん。俺、そっと見てたけど、レコード一緒に聴いてた時、歌詞カード読んで一緒に歌ってたろ?いつの間にかギター弾けるようになってるし、ロックのことすげー詳しく知ってるし…ずっと言おう言おうと思ってたんだけどよ、絶対変だよ!お前…何かあったんだろ?俺たち親友だろ?何なんだよ?俺に隠さないで話してくれよ」

ヤスオと私は幼稚園の時からずっと仲良しだった。家は近所の商店街に店を構える小さな工務店で、気っ風の良い母親が店を切り盛りし、父親は住み込みの若い従業員と一緒に現場を飛び回っているので、一人っ子のヤスオは小さい頃からいつも私と遊んでいた。
漫画が好きで、模型が好きで、ゲームが好きで、ジャイアンツが好きで、宇宙家族ロビンソンやナポレオンソロやタイムトンネルや…アメリカ・ドラマが好きで、歌謡曲よりもビートルズやモンキーズやストーンズやモータウンや、洋楽が好きで…どちらがどちらに影響したのか分からないが、いつの間にか沢山の趣味や知識を共有できる特別な友達になっていた。

ヤスオは、私よりもずっと大柄で大人びて見えたが、一人っ子らしい人の良さがあり、どこかいつも幼さを漂わせる愛すべき存在だった。もちろん、学校のことや家のことなど、気楽に悩みを打ち明けられる親友でもあったのだが…さすがに今回のことは打ち明けられずに、ひた隠しに隠していたつもりだった。

子供の私は申し訳なくて泣きたい心境だった。
大人の『私』は、自分の居場所を探る為とは言え、子供時代の生活の楽しさにかまけ、疎(おろそ)かな振る舞いで純粋な親友の心を傷つけていたことを後悔した。

『ヤスオにはちゃんと話さなくちゃいけないかな…』
『ヤスオに本当のこと話して欲しい…』
二人の私の意見は一致していた。
幸いヤスオの母親は店で接客中の様子…自宅には我々しかいない。

「ヤッちゃん…じゃあ、隠さないで正直に話すけどさ…変な話だと思わないで最後まで聞いてくれる?信じられなかったら、信じなくていいから…」
「うん…分かった…やっぱ、何かあったんだ…」
「そう…えーと…俺ね…実は…子供じゃないんだ」
「え?どういうこと?」
『私』は子供が理解出来るように慎重に言葉を選びながら、この1ヶ月前から私の身に起きていることを丁寧に、ゆっくりと、説明した…


ヤスオは話がなかなか理解できないのか、私の顔をただ呆然と見つめていた。
やがて、床に目を落とすと、その場で暫く考えている様子だった。
無理もない…自分自身でもにわかには信じられなかったことだ…

「2009年…」ヤスオが呟いた。
それから、再び私の顔を覗き込んだ。
「証拠は?」
「え?」
「証拠だよ、証拠…コウちゃんの中に誰か大人が住んでるっていうのは信じるよ。本当にそうじゃなきゃおかしいことだらけだもんな…でも、それが未来のコウちゃんなんだろ?未来から来たんだろ?だったらこれから起きることも知ってる筈だよな。なんか証拠を見せてよ。なんか聞かせてよ、今から起きること」

確かに…その通りだ。今日は1969年8月15日、金曜日…
なるべく近い未来に起きることを思い出せば…
子供が分かるような…
駄目だ…あまりにも遠い記憶で、詳しいことは思い出せない…

「分かるんだろ?知ってるんだよな?何でもいいよ。明日の天気だってさ…」
「そんな細かいこと覚えてないよ。だって…俺から見れば40年も前のことなんだから…えーと…1969年だろ…あ、来年沖縄が返還になるな。それと…来年は万博の年だから…そうだ、アポロ12号が持って帰ってきた月の石が万博で展示される。あと確か、よど号のハイジャックもこの頃じゃなかったかなあ…」
「ふーん…来年の話かあ…よど号って何?」
「飛行機の名前だよ。羽田でね、旅客機が赤軍派に乗っ取られるんだ。乗客は解放されるんだけど、乗っ取った赤軍はそのまま北朝鮮に亡命するんだ。そんな事件まだ起きてないよね?」
「うん、知らないなあ…月の石のことも知らない」
「そりゃそうだよ。次のアポロまだ打ち上げられてないだろ…」
「そうか…でも、まだ先の話ばっかだよなあ…なんか思い出せない?すぐ先のこととかさ…何が流行るとか、巨人がどうなるとかさあ…」
「あ…それなら分かる!確か…巨人は1965年からV9だろ…今年は5年目だから…えーとお…確か阪急と日本シリーズだな」
「勝つの?」
「勝つよ。今年を入れるとあと5年間毎年日本シリーズで勝ち続ける」
「本当?来年も?」
「ああ。来年の相手は確か…ロッテだったかな。ちゃんと優勝するよ。あと…テレビみてて気が付いたんだけど…」
「なになに?」
「もうやってるかと思ったんだけど、まだやってない番組があるんだよ。8時だよ全員集合とゲバゲバ90分。多分もうすぐ始まるんだと思うんだけど…」
「なにそれ?どんな番組?」
「全員集合はドリフターズの公開番組。面白いよ。ゲバゲバは巨泉とマエタケのギャグ番組。俺はこっちの方が好きだったなあ…ねえねえ、これ覚えといて。いかりや長介のウィッス!と、ハナ肇のあっと驚くタメゴロ〜…」
「変なの…なにそれ?流行るの?」
「流行るよ。すっげー流行る」
「ふーん…覚えとくよ」
「誰にも言うなよ」
「分かった…他には?なんか覚えてないの?」

「あ、そうだ!ビートルズさ、来年解散する」
「え?本当?」
「うん…レットイットビーってアルバムと映画と発表して、あとはバラバラになっちゃう。あと、ヤッちゃんジミヘン好きだったよね?」
「うん、大好き」
「来年死ぬよ…」
「うそっ…なんで?」
「確か麻薬だったかな…」
「すげーな…何でも知ってんだな…他にも誰か死ぬ?」
「…うん…うちの病気のお婆ちゃん。来年の春。それから…」
「なんだよ、まだ誰か死ぬの?誰?」
「…ヤッちゃん、誰にも絶対に言わないって、約束できる?」
「分かった。絶対に誰にも言わないよ。なに?俺も知ってる人?」
「うん…俺のさ、お父さん…」
「…嘘だろ…?お前のお父さん元気じゃん。なんで?事故?」
「ううん…癌なんだ。来年癌が分かって、俺が中学生になった年に死ぬんだ」
「嘘お…大丈夫なの?お前…」
「ああ…もう37年前のことだからな…俺は大丈夫だけど、こっちに来て、お父さん見るとついつい思い出して考えちゃうんだよね。子供の俺が相当ショックだったみたいでさ…暫く泣くの我慢すんの大変だったよ」
「なんだよ…それ、何とかなんないの?ゲームとかやってる場合じゃないだろ」
「でも、事実だからなあ…」

「癌てさあ、早く見付けられれば治すこともできんだろう?黙って見てないで、何とか助けられないのかよ?」
「なんとかって…どうしたらいいんだよ?大人は絶対に信じないよ。第一そんなことしたら、歴史が変わっちゃうだろ。そしたら俺、もう元に戻れないかも知れないし…」
「元に戻りたいの?お前…」
「そりゃそうだよ。だって、こんなの変だろ?向こうにもちゃんと生活があるんだからさ」
「コウちゃん、家族がいるの?」
「もちろんいるよ。子供もいるしさ…」
「ええっ?子供もいるのお?じゃ、結婚してんの?」
「そういうこと。俺、50才だよ」
「うそ…女子と?」子供は変なところで驚くものだ…

「当たり前じゃん」
「子供って、いくつ?」
「10才…男の子」
「なんだよ、俺たちと同い年じゃん。すげえな…お前、親なんだ…」
「何言ってんだよ、ヤッちゃんなんてもっと大きい子が2人もいるぞ。男の子と女の子。大学生と高校生だぞ」
「嘘っ、嘘っ!俺も親なのお?俺っていつ頃死ぬの?」
「そんなの…知らないよ…少なくとも50才までは死なないよ」
「そっかあ…ねえねえ、俺ってどんな大人になるの?どんな仕事してんの?」
「いいのかなあ…話しちゃって…」
「ここまで聞いちゃったらさ、やっぱ知りたいよ」
「そうだな…ヤッちゃんはね、高校の時はちょっと不良するけど、大学の建築科に行って、この工務店継ぐんだよ」
「なんだよ、お父さんとおんなじ仕事?」
「ちょっと違うんだな。この辺は今よりずっとビルが沢山建つんだ。大通り沿いに店も一杯できてさ。で、ヤッちゃんはそういうビルやお店の内装設計で結構成功するんだよ」
「ないそうせっけい?」
「工務店とデザイナーを合わせたみたいな仕事かな…今よりも、恰好いい事がうんと大切な時代になるからさ…」
「そうなんだ…」
「うん。ほら隣の乾物屋さん、あそこ買い取ってさ、4階建てのビル建てて従業員も結構雇ってさ…このお店大きくするんだよ」
「へへ…そうか…」ヤスオは素直に嬉しそうな表情を見せた。


最後にヤスオはこう言った…
「やっぱりさ、お前、お父さんにちゃんと教えてあげた方がいいよ。俺に話してくれたみたいにちゃんと話せば、きっと信じてくれるよ」
「そうかな?…」
「そうだよ。で、もしお父さんが助かってさ、お前、元の時代に帰れなくなったとしてもさ、おんなじ人生をもう一回やればいいじゃん。な?今度は先が見えてるから楽だぜ、きっと…」

『確かに…それも一つの考え方かも知れない…』

第6話につづく…

第1話から読む...



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