少年ジェットがいた日..3
秘密基地(1)
翌日の学校で、正治を含め宿題を忘れた4人が先生からこっぴどく叱られた。4人の中には菅野くんと金田くんもいた。昨夜2人が正治の家にテレビを観に行ったことは、お喋りの女子の口からとっくに担任には伝わっており、授業が終ると「おい、川村!ちょっとこっち来い」と、呼ばれた。
「お前は勉強が出来るんだし、学級委員だろ。夜友達をテレビになんか誘っちゃ駄目じゃないか」
「でも、少年ジェットがあったんです」
「何だそりゃ、そんなに面白いのか?」
「はい…」
「そうか…それじゃあお前が率先して宿題を終らせてから来るように言わなきゃ駄目だろ」
「はい…」
「分かったら、さっさと帰って宿題済ませとけ」
「はい」
校舎を出ると菅野くんと金田くん、昌志と幸夫、もう一人宿題を忘れた学級一のやんちゃ者、卓也の5人が心配そうに正治を待ってくれていた。
「怒られた?」
「ううん」
「やっぱ、テレビに誘っちゃ駄目だって?」
「ううん。宿題ちゃんとやってくりゃ、いいって」
「ごめんな」「ごめんな」
「平気平気、俺も忘れちゃってたし。グリグリされなかったし」
「だからあん時一緒に宿題やっちゃえば良かったのに」と、昌志。
「畜生…あさ子のお喋り…焼きだな」
「ごひいきだもんな」
「しょうがねえよ、女子だもん」
「そうだな、女子だもんな」
「そうだ菅野と金田、今度からテレビ、うちに観に来いよ。近くだろ」
「え?卓也ん家テレビあんの?」
「ああ、美智子様ん時、お爺ちゃんが買ってくれたんだ」
卓也の家は南品川で代々運送業と銭湯を営み、祖父は区の議員も勤める地元の有力者だった。正治とは住む地域が違うので放課後遊ぶことはなかったが、前の学年から引き続き同級で、学校では結構気の合う友達だった。卓也はお調子者で正義感の強い一匹狼、放課後は概ね一人で行動し、あちこちで冒険や悪戯を見つけては面白おかしく報告してくれる。体こそ華奢だが、やたらと度胸が良く、どこで身に付けたのか子供のくせに恐ろしく喧嘩慣れしている。
つい先日も、校舎の裏にある動物小屋を二人で見に行った時、正治がたちの悪い上級生3人組に因縁をつけられた。
「おい。お前、ヒョコヒョコおかしな歩き方しやがって。目障りだから学校来んな」
卓也は怯えて立ち尽くす正治の前に立ちはだかった。
「何だよお前えは、やんのか?」
ニヤニヤと凄んで、上級生が卓也の胸ぐらを掴もうとしたその時だった。
『ボコッ!』卓也の頭突きがいきなり彼の顔面にヒットした。突然の攻撃に怯んだ相手は顔面を押さえて身を屈めようとする。そこに卓也の見事な回し蹴りが飛んだ。大柄な上級生は地面になぎ倒され、鼻血を流しながら腕を押さえてその場でオイオイ泣き始めてしまった。他の二人は顔色を失ない呆然とするばかり…まるで大人の本物の喧嘩を見るようだった。
教室に戻る途中、卓也は興奮した様子もなくいつもの口調で正治に言った。
「正ちゃんさ、今のこと誰にも言わないでね。先生に知られたらやばいからさ」
「でも、さっきの奴等が言いつけるんじゃない?」
「ああいう奴はね、下級生にやられたなんて絶対誰にも言わないよ」と、余裕の表情で微笑む。
卓也は喧嘩に関しては、本当に同じ年とは思えない熟達者だった。
「じゃあな、またな」
「バイバイ」
「あば」「あば」
卓也と菅野くんと金田くんは正門から南品川に、正治と昌志と幸夫は裏門から北品川に帰ってゆく…
正治はこの品川に住むようになって、小学校に通う子供たちには明確な地域的派閥があることを知った。区立品川小学校は山手通り、つまり東京環状六号線に面して北側にある。
山手通りにほぼ沿っている目黒川を境に反対側は南品川で、ここは江戸時代からの下町。小さな工場や商店、昔ながらの木造アパートや長屋が密集し、宿場町品川を支えたいわゆる職人街である。祭が好きで、気っ風が良く、人情は厚いがガラも悪く、やくざ者も多い地域。
一方北品川は、学校がある山手通りから八ツ山、御殿山に向かって坂を登る丘陵地帯、いわゆる山の手で、戦後に造られた建て売りの文化住宅に加えて、昭和30年代には正治が移り住んだような大手企業の鉄筋の社宅アパートや公官庁の官舎が数多く建てられ、企業勤めのサラリーマンや公務員が核家族で暮らす地域である。品川小学校はまさにその境界線にあった。
その日、家に帰って罰の宿題をそそくさと済ませた正治は、特に目的もないまま団地の子供グループの集合場所に向かった。
団地敷地内の砂場には既に20人近い子供たちが集まっていて、リーダー格である6年生のタカシが皆に指示をだしていた。 優等生タイプのタカシは抜群の運動神経の持ち主でベー独楽にかけては町内右に出る者のいない猛者、責任感が強く年下の面倒見も良い。
「あ、正ちゃんが来た!」と年下の男の子が嬉しそうに叫ぶ。
すかさず、タカシが少し困惑した表情で話しかける。
「どうする?正ちゃん。今日さ、電電公社のやつらと空地でキックベースの試合するんだけど…来る?」
皆が正治を見ている…
メンコやベー独楽やビー玉の試合ならある程度の自信はあるが、スポーツ系の試合となると、足の悪い正治は大概の場合チームの足を引っ張ってしまう。ただし、4年生という年からすれば、当然試合のメンバーとして参加する資格は充分にある。タカシがそのことに気を遣っているのが良く分かる。出来れば正治に試合に参加して欲しくないのだ。
「正ちゃんは足が悪いから、試合には来なくていいよ」とストレートに言われた方が、よっぽど気が楽なのである。
「えーと…いいや、僕。ごめんね、ちょっと後で用があるから」
ほっとした表情を隠しきれないタカシは「そうかあ…じゃあまた今度な。よしっ!みんな行こうぜ!」と殆どの小学生男子を引き連れて出発する。
「正ちゃん、私の家に遊びに来る?」と、そっと近づいてきて小さく囁いたのは、同じクラスの女子、サカちゃんこと栄である。いつも小奇麗で適度に淑やかで、勉強が良く出来、明るい栄は正治のクラスではマドンナ的な人気者。しかも今は正治と共に学級委員を勤めている。
声を掛けてくれたのは素直に嬉しかったが、事の成行からして、ここでおめおめと女子のグループに参加したのでは、さすがに面目が立たない。
「いや、いいんだ。本当にちょっと行きたいとこがあるからさ。またね」
「そお…」
不満げな表情の栄たちを残して、正治は社宅の敷地を後にした。
正治のように身体にハンディーを持つ子供は、周囲からの苛めや差別などが無くても、このように必然的に孤立してしまうことが少なくない。そんな時の為に、正治は品川に引っ越してすぐに、密かに格好の場所を見つけてあった。
社宅から北側に狭い坂を上っていくと、東海道線の線路脇に『権現山』と呼ばれる小さな丘がある。
この丘の上は北品川の子供たちの格好の遊び場だが、丘の裏手、雑木の隙間を縫って下ってゆくとちょっとした開けた場所に出る。せいぜい5メートル四方程度の広さだが、丘側の土壁には大きな洞穴が開いている。洞穴の中に入って5、6メートルも進むと、その先は板で完全に塞がれていて、板には薄れてしまった文字で『危険・立入禁止』と書かれている。当時は日本中のそこここにあった戦時中の防空壕跡である。
ここは、坂道からも丘の上の遊び場からも隔絶されていて、まさに地域の死角にあり、今のところ正治以外の子供がここを訪れた形跡はない。たまにこの近辺に住み着いた野良犬が一匹訪ねて来るだけである。
正治がここを発見した時、穴の入り口の脇に一畳ほどの大きさの古い建築用平台が二枚と木材の板が数本立て掛けてあった。ここを塞ぐ折に使用した木材の残りだろう。正治は近くから大きな石を幾つか洞窟の中に運び込み、その上に二枚の平台を置いて、ここを自分だけの秘密基地にしたのだ。
雑木に囲まれた場所なので人目に付かない分陽当たりは悪いが、特に湿気が多いわけでもなく、雨風も充分にげる快適な場所である。
正治が立て掛けられたままになっている材木を退けると、その後ろの土壁には四角い隠し棚が掘ってあり、靴箱が一つ置かれている。箱を抱えて平台に上がり、中をチェックする。
箱の中には、兄から譲り受けたイヤホン付きのゲルマニウム・ラジオ、古い懐中電灯、切り出しナイフ、小さなノート、消しゴム付き鉛筆一本、紙紐、神社の稲荷の祠から失敬してきたロウソク数本と大きなマッチ箱、ローマッチ一箱、そして赤いビニール袋が一つ丁寧に畳まれて入っている。
ビニール袋から箱の蓋の上に中身を広げる。おもちゃのピストル用の紙巻き火薬や平紙火薬、それに数本の2B弾とアルミ製のフィルム缶が2つ…
正治は一人でいる時には、親から課せられたルールから開放される喜びを満喫することにしている。当時の親達が目の敵にしたのは、健康に有害な添加物を使用した不衛生な駄菓子類と危険性の高い火薬玩具の類いであった。
正治は、親から禁止されている駄菓子屋に出入りし、密かに買い食いと火遊びに没頭しているのだ。赤やピンクの怪しげでユニークな形状の様々な駄菓子。ニッキやサッカリンやチクロの新鮮な味覚に取り憑かれながら、ある日そこで見つけた『2B弾』という爆薬玩具の虜になってしまった。
当時の子供なら多分誰もが知っているこの『2B弾』は、長さ7、8センチほどの細い厚紙の筒で出来た爆裂弾で、先端にマッチ状の着火剤が付いている。これをマッチ箱で擦ると、簡単に点火できる。点火後、2、3秒火を吹いた後、白い煙を発し、それが10秒ほど続き、煙の色が白から黄色に変化する。こうなると足で踏んづけようと、土に埋めようと、水の中に放り込もうと、どんなことをしても決して火が消えることはない。そして、数秒後『バンッ!』と大きな音を立てて爆裂するのである。
僅か5円で10本入りの箱が買え、懐の寂しい時でも1円で2本とバラ買いも可能である。たまにせしめる十円玉や五円玉で充分楽しむことが出来た。正治はこの秘密基地で、駄菓子の着色料に舌を染めながら2B弾の研究に勤しんでいるのだ。
フィルム缶の一つには2B弾を分解して取り出した火薬のサンプルの幾つかが小さく紙に包まれ保管されている。もう一つの缶には、大切なへそくりの小銭が入っている。正治はフィルム缶から小銭を手の平に出す…10円玉が1枚と5円玉が3枚…暫く考えて、2枚の5円玉をポケットに入れると、広げたものを箱の中にしまい、再び箱を棚の中に戻し材木で隠した。
「よしっ」
ズボンの埃をパンパンと払うと、基地をあとにして、坂道を下ってゆく…