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父の残像 8

兄と祖母の関係…


年が明け、4年生最後の学期も終盤に近づいていた。

1970年を迎える頃には、間もなく開催される大阪万博への期待で日本中が浮き足立っていた。当たり前の話だが、昨年巨人軍は阪急との日本シリーズを制し、10月から放送が始まった『8時だよ!全員集合』と『ゲバゲバ90分』が大ヒットし、ジョンとポールの不仲説がビートルズ解散の可能性を示し始め、予言が全て的中したことでヤスオは『私』の状況を再確認したようだ。

暮れに三億円事件の容疑者が逮捕された時には「やっぱ、悪いことすると捕まっちゃうんだなあ…」と意気消沈していたヤスオに「ああ…あれ、誤認逮捕だよ。警察の早とちり。大丈夫、すぐ釈放されるから。三億円事件はさ、結局解決しないんだよ」と説明した翌日に容疑者は釈放され、捜査本部長がテレビカメラの前で深々と頭を下げた。そんなことがある度にヤスオは『私』に対して絶大な信頼を深めてゆくようだった。

一方『私』には1970年の3月を目の前にして大きな不安があった。

記憶では、父親の癌が発見されたのはこの3月も終わりに近づいた頃だった。夏以来、父とは何度か2人で話をする機会があった。
膀胱に小さな腫瘍が見付かり、それはやはり悪性のものだった。父は家族には出張と偽り、秋に内視鏡による簡単な摘出手術を受けていた。本当のことを聞かされていたのは私だけだった。その後も小まめに検査は受けていたようだが、術後の経緯は良好で、何事もなくこの3月を迎えようとしている。

今後父の病状がどうなるのかも不安の一つだが、子供の私が父本人から聞かされて癌の発病を既に知っていることにも実は大きな不安があるのだ。

これは『私』が経験した過去の事実とは明らかに異なるからだ。全く新しい事実が蓄積され少しずつ過去が変わりつつある…ということになるのではないだろうか…そしてそれは、もしかすると何か取り返しのつかない結果を招くかも知れない…と考えると、これから一体何が起きるのか、とてつもなく大きな恐怖に襲われてしまうのだ。

そんな状況の中で『私』はこの重大な3月を迎えようとしていた。

このところ家では両親が慌ただしく2人揃って出掛けることが多くなった。
これは『私』の記憶通りである。
八王子の老人病院に入院している祖母の容体が急変していたのである。

そして、3月を迎えたばかりの日曜日の早朝、祖母は父や母や伯父たちに看取られながら病院で息を引き取った。

私と兄は、その日の午前中に2人で病院に行く予定でいたが、早朝、病院に詰めていた父から電話が入り、祖母が亡くなったこと、そのまま家で留守番をするようにと伝えられた。
これも記憶の通りである。

私は兄と2人きりで台所にいた。
食卓脇のテレビでニュースキャスターがローデシア問題の先行きについてコメントしていた。
兄は残りご飯を使って、台所で昼食のチャーハンを作ってくれていた。

「そろそろ出来るぞ。お皿とスプーン出しといて」
「うん、分かった」
棚から食器を出して調理台の傍に置き、克夫がチャーハンを盛り分ける間冷蔵庫の中を物色して紅生姜の入れ物を出した。

「ほら、自分の分テーブルに持っていって。あれ?お前、紅生姜なんて食べたっけ?」
「やっぱ、チャーハンには紅生姜でしょ」
「そお?コウちゃん生姜嫌いだったじゃん」
「最近は好きなんだよね…これ。いただきまーす」できたての熱々の卵チャーハンに紅生姜を少し添えて頬張った。克夫も隣の席で食べ始める…

「美味しいね。カッちゃん料理上手だよね」
「お婆ちゃん…死んじゃったんだな…」
「うん…最期…会えなかったね」
「ああ…もう行っても誰が来たのか分かってないって、お父さん言ってたしな。俺たちここんとこずっと行ってなかったけど…随分悪かったみたいだな」
「怖かったよねえ、お婆ちゃん」
「そうだな…俺にはちょっと優しかったけどな…」
「そうなの?」
「お母さん留守の時に、こっそり小遣いくれたりさ、お菓子買ってくれたりさ…」
「え?僕、そんなことして貰ったことないよ」
「ああ…俺、小さい時しばらくお婆ちゃんに預けられてたからな」
そんな話は聞いた記憶がない。

「そうなの?」
「お前は小さくて覚えてないだろうけど…お母さん、目の手術で入院したことがあってさ…」
「あ、それ聞いたことがある」
「お前はたしか…まだ2才になってなかったかなあ…お父さんも忙しくて…だから、お前は伯母ちゃんとこに預かって貰ってさ、俺はここでお婆ちゃんと殆ど2人きりだったんだ。1ヶ月ちょっとくらいだったかな…」
「そんなことがあったの…」
「ああ…俺もまだ幼稚園だったけどな…毎日いろんな話してくれてさ…」
「やっぱ、厳しかった?お婆ちゃん」
「いや、優しかったよ…ただ……」
「ただ、なに?」
「お前は士族の家の長男だから、しっかり勉強して行儀良くして、この家をちゃんと守っていける人間にならなきゃ駄目だって、随分言われたな」
「へえ…だからお母さんもカッちゃんには厳しいんだ…」
「いや…あれは、単純に俺のことが気に入らないんだよ…っていうか…お婆ちゃんのことが嫌いなんだな…お母さんは」
「そう…どういうこと?」
「うーん…そん時にさ、お母さんに怒られるからとか俺が言うとさ、お婆ちゃんに言われるんだよ。あれは商家の女だから家(うち)には相応しくないって。あんな教養のない女の言うことなんかきくことはないって。コウちゃん覚えてないの?お母さんとお婆ちゃん、すごい仲悪かったの…」
「そう言えばそうだったかなあ…」

私が物心ついた頃には、もう祖母は殆ど自分の部屋に篭っていた。
食事も家族とは別に食べていたし、トイレも玄関も洗面所も別だったので我々家族と交わることは殆どなかった。考えてみれば不自然な環境である。

「しょっちゅう大げんかでさ、凄かったんだぜ。お婆ちゃん何度も家出してさ、こんな下品な女とは一緒に暮らせないって。そのたんびにお父さんが迎えにいってさ…そこの部屋だってお父さんが見かねて増築したんだ」
「そうだったんだ…でも、お母さん、ちゃんと面倒みてたじゃない。病院にもよく通ってたしさ…」
「お婆ちゃんが弱ってきてからだな…それまではずっと喧嘩腰だったからな。少しは後ろめたいって思ってたんじゃないの。一応お父さんの親だからな」
「でも、お母さんがカッちゃんにばっかり厳しいのって…なんで?」
「お婆ちゃんへの当てつけなんじゃないのかな。嫁が長男に手を上げるなとか、子供の叱り方がなってないとか、いろいろ言われてたからな。それに…俺、結構お婆ちゃんの味方になったりしてたから…お婆ちゃんも俺は可愛がってくれたし…それが気に入らなかったんじゃないかな。おい、お代わりまだ少しあるぞ」
「うん、もういいや。お腹いっぱい。ありがと…美味しかった」

克夫はフライパンを浚(さら)って自分の皿にチャーハンを再び盛った。

「でも…なんでそんな話僕にしてくれるの?今までそんなこと話してくれなかったじゃない…」
「だって、コウちゃんに、気難しい怖いだけの人だと思われてるのって、なんかお婆ちゃん可哀相な気がしてさ。結構優しいし、面白い人だったからな…それに、お前最近やけに大人びてきたからさ、そういうややこしいこともそろそろ話しても大丈夫かなって思ってさ」
「お婆ちゃんって…どんな人だったの?」
「面白い人だったよ。いろんなこと知ってて。コウちゃん知ってた?お婆ちゃん、英語もフランス語も喋れるの…」
「本当?」
「ああ、娘時代にヨーロッパにいたことがあるんだって。お婆ちゃんのお父さんって偉い軍人さんで、暫く外国にいたらしいんだよ。そん時の話とかよくしてくれたな。そうそう、中学に上がって英語勉強したら読めって、前に何冊か英語の本も貰ったんだよ。まだ読めないけどな…」
「お父さんも、お婆ちゃんの話、あんまりしないよね」
「俺が小さい頃は結構話してくれたんだけどな…お母さんが機嫌悪くなるから…あんまり話さなくなっちゃったんだよな…考えてみると、お婆ちゃん可哀相だったよな…お母さんに家族から弾きだされちゃったみたいなもんだもん」
「そうだったんだ…全然知らなかった…」

そう…全然知らなかった……
『私』の記憶ではその後も兄からそんな話は一度も聞いたことがない。
母と兄の確執の原因がそんなところにあったとは…
なるほど、負けず嫌いで自己中心的な母の性格から考えて充分納得できる話だった。

「お母さんが俺のこと目の敵にして怒るだろ?お婆ちゃんがさ、いつも後でちょっと励ましてくれるんだ。で、必ず言うんだよな。悔しくっても長男は絶対泣くなって…俺、お婆ちゃんがいたから我慢できてたんだと思うな…」
「じゃ、お婆ちゃん死んじゃったら、カッちゃん大変じゃない」
「もう1年近く家にいなかったし、その前もすこしぼけちゃってたしな…あんまり変わんないよ。お母さんのことだって、もう慣れたっていうか、今は別に怖くも何ともないし…あの人はあの人、俺は俺だ」
「お母さんのこと…嫌い?」
「別に…。親だし、一応ちゃんと育てて貰ったから嫌いってことはないけど…ま、世の中には色んな人がいるって感じかな。コウちゃんのことはちゃんと可愛がってるしな」
「そお?」
「そうだよ。お前はまだお婆ちゃんに懐いてなかったから助かったんだぞ。俺はちょっと貧乏くじ引いちゃったかな…でも、お婆ちゃんが元気な内に知り合えて良かったよ、俺」

「そうか…そうだったんだ……あのさ…」
「なに?」
「将来さ、ずっと先のことだけど…お父さんがいなくなって、もしもお母さんが年取って一人で暮らせなくなってもさ…そん時は僕が面倒みるから。カッちゃんは好きにしてていいからね」
「はは…随分先の話だな。そんな先のことはどうなるか分かんないぜ」
「もしもだよ、もしものこと。あ、でもさ、僕が自分の家族とどっかに旅行したい時とかにはさ、たまにでいいから交代してね」
「分かった分かった。はは…随分具体的だなあ…変な奴。でもま、そうしてくれると助かるよ。宜しくな」

父の病気が事前に発覚していたこと、それを子供の私が知ったこと、そして兄と母との確執の経緯(いきさつ)を兄が語ってくれたこと…『私』がここにきてから、それまで記憶にあった事実が僅かずつ変化している。その小さな変化がやがて大きな捩れとなるのではないか…という不安が『私』の中にさらに広がっていった。


祖母は記憶通りにその日の夕刻、棺に入って久々に我が家に戻ってきた。
遺体は本当に本人なのか分からないほど痩せ細っていた。

第9話につづく…

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