見出し画像

父の残像 18

小さな事実の書き換え…


記憶通り、子供にとっては過酷な夏休みだった。日曜日の模擬試験と授業に加えて、週2日、3時間ずつの夏季講習を受けなければならなかった。講習では毎回沢山のプリントや課題が出され、家でも普段以上の勉強を強いられた。とは言え、たかが小学生の受験勉強である。『私』が仕事で毎回課せられる企画作業や構成作業に比べれば大したことはないのだが、以前のように気楽に手助けしてあげることも出来ない。子供の私にとっては生まれて初めての試練だった。

それでも、ヤスオと真弓とは定期的に連絡を取り、時間が見付けられれば集まっていた。3人の目下のテーマは、いかにして上手に確実に私の修学旅行参加を阻止出来るか、ということだった。
修学旅行の日程は、9月15日の敬老の日に学校を出発して18日土曜日の夕刻帰校ということになっている。出発の日の集合時間は、朝8時15分。準備や朝食のことを考えると7時には起こされるだろう。
勝負はその時だ。

問題はその日、その時間に『私』が子供の私と入れ替わっていられるかどうかだ。私がこの時代に残っていられるかどうかも確かな保証はない。前回、ここに居られたのは僅か2ヶ月足らずだった。一度跳ばされてしまうと、今回のように1年以上戻ってこられない可能性もある。もし私が居なくても、子供の私1人だけで計画を遂行できるようにする必要があるのだ。


「大丈夫?コウちゃん、出来る?」心配そうにベッドに横たわる私を覗き込んだのはヤスオだ。
「布団…もそもそ動いてない?」私は布団の中で体温計をシーツに擦りつけながら訊ねた。
「大分上手になったわよ。殆ど分かんない…ほら、もっと具合悪そうな顔しないと…そんな、一生懸命な顔したら変よ」
「そうか…こんな感じかな…」私は顔を横に向けて、大人しく目を閉じた。
「それじゃ、すやすやって感じよ。大人の川瀬くんがやってたみたいにさ…ほら、頭が痛いんだから、ちょっと辛そうな感じ…時々痛ててって感じでさ…そうそう…あ、それいい!たまに目をぎゅって瞑(つむ)るの…あ、そろそろ3分よ。はい、体温計頂戴」私は脇の下に戻した体温計をそっと真弓に渡した。
「どお?」ヤスオが真弓が持った水銀体温計を横から覗き込む…
「37度2分…もうちょっとかな…川瀬くん、何回くらい擦った?」
「うーん…数えてなかったけど…10回ちょっとかなあ…?」
「駄目よ。どの位強く擦ったとか、何回擦ったとか、ちゃんと覚えとかなきゃあ…1回しかチャンスはないんだからさ。確実にしなきゃ駄目なんだからあ…ほら、もう1回、やり直しっ!」

真弓の演出は厳しかった。仮病の方法を考えだしたのは『私』だったが、子供の私はそれを客観的には見ていないし、方法の手順はまだしも、普通子供には出来ない細かい仕草や表情をその通りに掴み取ることは不可能だ。真弓はそのギャップを見事に埋めようとしてくれていた。

修学旅行の前日までは絶対に不調の兆しを見せてはいけないこと。特に前日の夜はわくわくする気持ちを周囲に充分にアピールすること。そして、当日の朝、自分で絶対に起床してはいけないこと。何度起こされても、自力で起床してはいけないこと。かといって、旅行に行きたい気持ちを失ってはいけないこと。どのように頭痛があって、どのように食欲が湧かないか…大人に絶対に疑われないリアリティーが必要だったからだ。


8月中、『私』は再び時空の外側に弾き出されないように、注意深く子供の私との距離を守り続け、ダイレクトな交流はなるべく持たないようにしていた。
父親の健康状態に陰りが差すこともなく、父はひたすら仕事に打ち込んでいた。『私』が父と会話を交わすチャンスも何回かあった。
父は『私』のことを『松岡さん』という格好のアドバイザー、あるいは家族を見守ってくれている守護霊のように認識していて、仕事の事や、我が家の経済のこと、社内での自分の立場や派閥のことなど、度々アドバイスを求めてきた。
『私』は、今後訪れるであろう社会や生活の変化をなるべく期待に沿って伝えながら、彼が信じている通り未来からやって来た『松岡さん』の役を演じ続けていた。

この間に、磯田さんの縁談は急速に進んでいるようで、お盆の休み中には父と母が立ち会って、双方の正式なお見合いの席が設けられたようだった。しずさんのお陰で家事から少し距離を置く事が出来るようになった母も、自由な生活にすっかり慣れた様子で、女学校時代の友人との交友や会社の役員の奥さんたちとの付き合いなど外出が増え、家にいる時も機嫌の良いことが多くなっていた。父の思惑通り、持病の緑内障の進行もおさまっているようだった。

私はこの夏休みの間に着実に学力を伸ばしていった。夏休み最後の週に行われた進学教室の全国選抜試験では、初めて上位ランク者のリストに名前が載り、9月からは池尻にある上位者クラスに昇進することが決まった。


9月からいよいよ新学期が始まった…
6年生の学級は、休み明けから早くも待ちに待った修学旅行に向けて浮き足立っていた。
3泊4日の旅行日程の中で、それぞれがどんな課題を持って旅行を体験するか、意見が集められ、班分けが行われ、準備が進められる…旅行中の注意事項やルール、持ち物の規制など担任と生徒たちの間で様々な情報が取り交わされていた。もちろん、示し合わせた通り、私は旅行への準備活動に率先して参加し、家でもそれを家族に克明に報告し、いかに修学旅行を楽しみにしているかをアピールし続けた。


修学旅行出発の前日…放課後、最終の打合せにヤスオと真弓が訪れた。彼らを迎えたのは『私』だった。

「いよいよだな…良かったな大人のコウちゃん、居なくなんなくて」
「ああ、本人は相当心配しているみたいだけどね…」
「あ、今、大人なんだ…」
「ああ、さっき入れ替わっておいた。いよいよ明日だから、ここまできたら気持ちを落ち着けておいて貰った方がいいからね」
「それで…朝起きた時に入れ替わるのって…大丈夫なの?」
「まあ、向こうが寝てりゃあ訳ないんだけど…途中で起きちゃうとやっかいだから…ほら、起きてすぐって、寝惚けるだろ?危ないからそのまま居座る訳にいかないんだよね。起きてから暫くは、やっぱり任せた方がいいと思う…」
「大丈夫かなあ…」真弓が不安そうに呟いた。

「まあ、何度も練習してるから大丈夫だろう。こういう時はどんと任せた方がいいんだよ」
「コウちゃん…急に気が変わって、旅行に来ちゃうってことない?」
「はは…それは大丈夫だろう。ちゃんと覚悟してるから…」
「そうよ、あんたとは違うんだから、川瀬くんは」
「お、しずさんが来た…」廊下から部屋に向かってしずさんの足音が聞こえる…

「みんな、おやつよ」
「はーい!」襖を開けるとにこやかにしずさんが入ってきた。
「ほら、今日2人が来るって聞いてたからさ、栗煮といてあげたよ」しずさんが運んできた盆の上には、器に盛られた艶やかな栗と麦茶が乗せられていた。
「あ、栗だ!栗って煮るの?」
「渋皮煮だよ。食べたことないの?」
「あたし知ってる。おばあちゃんが作ってくれたことある。美味しいよ甘くて…ね」
「おばさんのは特に美味しいよ。1人2つずつあるからね…あんたたち、明日から修学旅行だって?楽しみだねえ。今日は何か相談?」
「うん。おんなじ班だからさ、旅行に持っていくもんの打合せ…」
「いいねえ…3人とも、楽しんでくるんだよ」
「あたし、しずさんにお土産買ってくる!いつも御馳走になってるから…」
「あら、嬉しいねえ…でも、小遣いあんまり持って行けないんだろ?後で楽しい話でも聞かせてくれりゃ、それで充分だよ。それよりあんまりはしゃいで怪我しないようにね。みんな、先生の言うことちゃんと守るんだよ」
「はーい!」
「ははは…いいねえ…子供は…」しずさんはそう呟きながら部屋から出て行った。
「まあ、こっちは何とかするから、心配しないで、2人は、旅行楽しんでくるんだぞ」
「なんだかちょっと…後ろめたいけどな…」
「そうねえ…そうだ!ヤスオと二人でさ、出し合って、何かお土産買ってくるよ。ね?」
「おう!そのかわり…頑張れよ!コウちゃん」
「分かった。任せといて…」


2人が帰ると、『私』は子供の私に席を譲り、事前の私の様子を傍観した。子供の私は期待した以上に安定した様子で、明日の修学旅行を待ちきれずにはしゃぐ子供を演じていた。心情を直接探ることは出来ないが、その様子はあまりにも真に迫っていて、もしかすると計画のことはすっかり忘れてしまっているのではないかと心配させる程だった。

「ねえねえ…リュックに付ける名札、これでいい?」帰宅した母に用意した名札を見せる。
「いいんじゃない?ナップサックも入れとかなきゃ駄目よ」
「うん。昨日カッちゃんから借りた。もう名前付けといたよ。あとさ、あとさ、水筒出してよ。水じゃなくってさ、冷たいお茶入れて行きたいな」
「分かったわ。下着とか着替えはもう準備出来てるの?」
「うん。洗面用具も全部揃えた。全部名前書いたよ。あ、そうだ!明日のおやつ買っておかなきゃ…」
「決められた金額以上に買っちゃ駄目よ」
「分かってるよ。もう買うもの決めてるから…ちょっと行ってくる」
「はいはい…行ってらっしゃい」
「コウちゃん、張り切ってるねえ」しずさんが声を掛ける。
「だって、もう明日だよ!明日の朝起きたら、もう修学旅行行くんだよ!いってきまーす!」
「気をつけてね!」

子供の私はその後も、帰宅した兄に頼んで3年前の同じ修学旅行の写真を見せて貰ったり、準備した雨合羽を着てみたり、全ての荷物をリュックに詰め込んで背負い、皆のまえで広げてみては何か忘れ物がないか、不備がないか確認して貰ったりした。

「よっぽど嬉しいんですねえ…コウちゃん」しずさんが目を細めて母に話し掛ける。
「今年の夏は勉強ばっかりだったからねえ…ずっと楽しみにしてたんでしょ?こうして見ると、しっかりしてそうで、やっぱり子供よねえ…」

「さ、そろそろ夕ご飯にしますよ。今日はハンバーグだからね。沢山食べてね」しずさんの号令が我が家に響いた…


夕食中も子供の私は明日からの旅行の間に、誰とどんなことを計画しているのか話し続け、興奮した様子でいつもより旺盛な食欲を見せていた。食後、入浴を済ませると、明日のために早く寝ると言い残して、いつもより早めに部屋に戻った。

私は明日の荷物をきちんと並べ、目覚ましをセットして、ベッド脇に腰掛けて修学旅行のプリントに目を通しながら、大きくため息をついた。

『よしっ…ここまでは、完璧だったよな…いよいよ明日か…そうだ…もう一回復習しとこう…』
私は部屋の柱に掛けられた鏡の前に歩み寄り、何度も練習した頭痛の表情を浮かべた…
「ああ…何だか変なんだ…頭がすごいズキズキして…うう…」
『こんな感じかな…そうか…寝る前に一度入れ替わっとこう…』
再びベッド脇に戻り、深呼吸をして、ゆっくりと目を閉じた…暫くすると座席が空いたのが分かった。だが、まだ近くに居る…もう少し離れてくれなければ…私はゆっくりと離れていった…

『よくやったな……あとは練習した通りにやれば、大丈夫だ…』
『絶対に上手くいく…ちゃんと落ち着いてやれば…絶対に上手くいく…』
『さあ…今更心配したって始まらないからな、明日の芝居に備えてしっかり眠っとかないとだな…』
『ちゃんと眠れるかなあ…』
『見たとこ、大分気い遣って、疲れてるみたいだからすぐに眠れるだろう。そうだ、その前に…』
『私』は予定していた通り、引き出しから長袖の体育着と長ズボンを出してパジャマの上から重ね着した。『よし…これで万全だな…あとは、朝になったら…』

ベッドに入り布団を掛けると、少し暑苦しかったが、我慢してじっとしていると、やがて子供の私は眠りに落ちていった。
程なく『私』も眠りにつく…


目覚まし時計のベルが鳴った…
『私』は少し前から目覚めていたが、座席には着かず、充分に距離を置いてベルが鳴るのを待っていた。
子供の私が目を覚ます…暫く微睡みの中にいたが、やがて寝床の中の暑さで意識がはっきりしてきたようだった。

『暑い…なんでこんなに暑いんだ…?あ、そうか…』
私は布団の中で体育着と長ズボンを脱ぎ、壁際からそっとベッドの下に押し込んだ。寝汗を沢山かいていたが、そのまま我慢してしっかりと掛け布団を引き上げた。
あとはこのままひたすら待つだけだ…

母親が襖の向こうから声を掛けた…
「コウちゃん?コウちゃん、そろそろ7時よ、起きて着替えなさい」

返事はせず、さらにじっと待つ…15分後…ようやく次の展開が訪れた。

母が声を荒げていた…「コウちゃんっ!何してんのよ、あんた…」襖が開く…
「あらやだ…まだ寝てんの?もう起きないと遅れるわよっ!コウちゃんっ!なに?どうしたの…?」

私は気だるそうに答える…「ああ…何だか、頭が痛くて…うう…変なんだ…頭ががんがんして…起きられない…」
「やだ、なによ…」母が不安げにベッドに近付く…
そっと私の額に手を当てる…「そんなに熱はないみたいだけど…」布団の中に手を入れてパジャマの上から私の身体に触れる…
「やだ、凄い寝汗かいてるじゃない…少し身体も熱いわねえ…ちょっとこのまま待ってらっしゃい」そう言って襖をそのままに一旦部屋から出て行った…

「嫌んなっちゃうわ、もう…コウちゃん、病気みたいなのよお…」廊下の向こうから母の憂鬱そうな声が聞こえる…

少し待っていると、母が体温計を振りながら戻ってきた。
「大丈夫だよ…ちょっと頭痛いだけだから…うう…いててて…」と、無理やり身体を起こそうとする…シナリオ通りだ…

「駄目よ。ちょっと大人しくしてなさい。まず熱計んなきゃ…これ、ほら、脇に挟んで…」と体温計を手渡す…
「今タオル絞って持ってきてあげるから、汗も拭かなきゃ…そのまま熱計るのよ、起きちゃ駄目よ!」
「はい…」
母はちらりと時計に目を移し、再び部屋を出る…
何度も練習した展開だ。頭の中で90まで数を数える…
それから布団の中で体温計をそっと脇の下から外し、その先を練習した要領で指でシーツに擦り付ける…擦り付ける回数は16回…
母は部屋に戻ってきて、引き出しから新しい下着を出している…
慌ててはいけない…
布団の中の私の行動は外からは全く感付かれない筈だ…
そっと体温計を再び脇の下に戻す…

「そろそろ3分ね…いいわよ、体温計見せて」私は体温計を渡す…
「あら…嫌ねえ…あんた、熱があるわよ」
「…ええ?…本当?…」
「7度7分…残念だけど…旅行は駄目ね。風邪だったら、他の人にもうつしちゃうでしょ?」
「ええ?…そんなあ…行きたいよ…」
「可愛そうだけど…病気じゃ、しょうがないでしょ。とにかく汗拭いて、下着とパジャマと着替えなさい。大丈夫?起きられる?」
「うん…あいててて…」起きて汗で湿ったパジャマを脱ぐと、母はやさしく身体を拭いてくれる…
着替えを終えた私は、激しい頭痛を抱えた素振りで再びベッドに横たわる…

「じゃ、じっと寝てなさいよ。あたし学校に電話入れてくるから。今日は病院お休みだけど、ちょっと電話で相談してみるわね。あんたは大人しくしてなきゃ駄目よ」

『やった!』
全てが順調に進んだ。
『私』の記憶の中の明確な事実が書き変わった瞬間だった。

第19話につづく…

第1話から読む...





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?