見出し画像

小説・室井の山小屋

【本作品は2021年2月よりnoteに連載したものを『note創作大賞』参加用に再掲載するものです】

第1章 山へ…


前日用意した旅行用のリュックを背負い、室井むろいから言われた通り朝の内に出発した。ようやく夏も終わったようだ…昨日の昼過ぎまで関東に居座っていた低気圧は、すっかり何処かへと移動し、ここ何日も続いていたどんよりと蒸すような湿度が嘘のように、今朝の東京には晴れ渡った高い秋空が広がっていた。

駅から幾つか電車を乗り継いで、西多摩の武蔵五日市に到着した。そこからバスで30分ほど…檜原ひのはら村に到着したのは、予定通り丁度昼前だった。『そっから先は、飯食うとこないからな』と室井から忠告されていたので、ここを昼休みの中継地と決めていたのだ。

びっくりする位山奥だ…と言われていたが、バスから都道沿いの街並みを見て失望した。どんなに奥地とは言え、やはりここはまだ東京だ。確かに長閑のどかな田舎だが、店や旅館、民宿があちらこちらに点在する。秋川渓谷を臨む観光拠点なのだろうが、どう考えても千人や二千人は軽く超える規模の町ではある様子だ…

バス停の脇の村役場を背にして行く手を眺めると、少し先に食堂が見えたので、取り敢えずはそこに向かうこととした。


昭和を偲ばせる簡素な食堂だった。昼時だというのに店内に他の客は僅か2人しかいなかった。空いている席の脇にリュックを下ろし、ポケットから出したハンカチで額の汗を拭っていると、前掛け姿の太めの中年女性が笑顔で水を運んで来る…

「いらっしゃいまし、何にしましょうかね?」
「えー……と」テーブルに置かれた品書きを見ると、ここの定番はどうやら定食とラーメンのようだ…
「じゃあ、やまめ定食。あ、ご飯少なめで…」
「はい。山女魚ひとつ〜ご飯少なめ〜!」
「あいよ〜」厨房の奥から勢いのいい男の声が返る…

「お客さん、お1人?…」
「え?ええ…」
「何処にいらっしゃるの?」
「えーと…月夜見沢つきよみさわの方なんですけど…」
「ああ、キャンプ場ですかあ…」
「いや、藤原ってとこの先を、えーと上流の…あ、そうだ…」私は昨日室井から聞き取ったメモとプリントアウトした地図を胸のポケットから出して彼女に見せた…

「随分と上の方なんだねえ…」
「友人の山小屋があるんで…」
「あんなとこに小屋なんかあったかねえ…昔は幾つか集落があったけど、今はだあれも住んでないよ、あすこいらは…」彼女はそういいながらメモをじっと眺め続けていたが、そのまま厨房を仕切るカウンター前に移動した…

「ねえあんた…藤原の先のさ、月夜見の東側の沢の上の方に山小屋なんてあったっけねえ?」彼女が言うと、厨房の奥から小柄な男が顔を出す…

「あー?沢の上流?…あ、そりゃ、ムロさんだんべぇ?」
「ああ、そうか…そういやムロさんの小屋、あの辺だって言ってたわねえ…お客さん、室井さんのお知り合い?」
「ええ、あの…室井さん御存知なんですか?」
「ああ、ムロさん檜原に来ると必ずここで飯食ってたかんなあ…ここのラーメンがえれえ気に入ってよお、なあ?」そう言って厨房から割り込んだのはあるじだ。

「そうそう、大抵決まってラーメン開化丼セット…そういや、ムロさんこのところ来ないけど、小屋の方に来てんのかねえ?」
「いえ、実は昨日室井さんから電話を貰って…後で来れれば来るとは言ってましたけど…よかったら山小屋使ってくれって…何日居てもいいって言うんで、じゃあ、行ってみようかなって…来てみたんですけど…」
「でもよ、ここんとこムロさんずーっと来てねえよなあ…」
「そうねえ…もう1年以上来てないわよねえ…ねえ、お客さん、室井さんとはよくお会いになるんですか?」
「いや…以前は一緒に仕事もしてたし、毎日のように会ってたんすけど…最近は、ここ何年も全然会ってないんです。昨日久し振りに連絡があって…」

「じゃ、兄さんもおんなじデザイナーさんかい?」主がカウンターから顔を出して訊いた。
「いえ、僕は文章の方が専門でして…」
「へえ…作家さん?」
「いや、ライターです。企業のパンフレットとか…あ、でも、それも最近会社辞めましたから…今は無職ですけど…」
「ほれ、あそこに掛けてある山女魚とますの絵、あれムロさんが描いてくれたんですよ」女将さんがカウンターの上に掛けられた絵を指し示す。確かに、あの柔らかいタッチと色彩は室井のイラストだ。どうやら私は室井と同じ道を辿っているようだ…

「お客さん、お名前は?」
「あ、結城です」
「ゆーき?」
結城紬ゆうきつむぎの結城です…」
「ああ、結城さんね。結城さん、もしムロさんと会ったらさ、たまにはここに顔出すように言っといてよお…ここんとこ、急に来なくなったからさあ、心配してたんだよ…」
「ええ…はい。どうせ電話が入るでしょうから、伝えときます」
「あ、そりゃ駄目だ。あすこ辺りは電話もなきゃ、携帯も繋がんねえから…まあ、いいよ。元気なんだろ?来るって言ってんならその内顔見せんべぇ…」主はそう言って明るく笑った。


檜原の食堂『あけぼの屋』の秋山夫妻との歓談はついつい長くなってしまった。

昨日室井から、山小屋はここ1年ほど誰も行っていないことや、備蓄された食材の状況を細かく聞いていたので、そのことを夫妻に話すと、手持ちの野菜類や卵やハム、焼豚等幾ばくかの食材を土産だといって持たせてくれた。沢付近までは夫妻が手配してくれた地元のタクシーで向かった…


「お客さん、こっから先は歩きだねえ…」タクシーの運転手は地図を示しながら、この先山道を私が間違えないように、丁寧に分岐場所を指示してくれた…

室井の話では、ここから細い山道を2時間以上は歩き続けなければならない。幸い腕時計ではまだ2時過ぎだ。ゆっくり歩いても明るいうちには辿り着けるのだろう。


30分も歩くと、まばらに見え隠れしていた畑や作業小屋もなくなり、深い森の中を歩く自分の足音以外には人気ひとけを感じるものは何もなくなってしまう…


別に、ライターになりたくてなったわけではない…

大学卒業を控えてなかなか就職先が決まらず、たまたま、ある先輩から勧められて入社試験を受けた小さな広告代理店に採用が決まった。文学部出身ということもあって、クリエイティブ部署に配属され、コピーワークの仕事を与えられた。

日々様々な企業や商品のパンフレットやキャッチフレーズを紡いできたが、正直言って面白い仕事だと思ったことは一度もない。社内にはさして魅力のある人材も見当たらず、先輩・後輩といった体育会系縦社会が幅を利かせる体質。

入社当初は新鮮な気分でそれなりに楽しかったが、今ではやたらと多い飲み会にもうんざりする。まあ、仕事とはそんなもんだと諦めていた。

あれよあれよという間に10年以上が過ぎ、30代も半ばとなってしまった。そんな折、学生時代の先輩から起業の相談を持ち掛けられた。タウン誌の発行をベースにした新しい出版社を共同経営しないかという話だった。

そろそろきちんと自分の人生の方向を見直したいという気持ちから、その計画に乗ることにした。僅かな退職金と貯金を出資金に提供し、いよいよ次のステップに踏み出そうと覚悟を決めたその矢先に、当の先輩が姿を消した。私の人生を賭けた決意は、彼が競馬で擦った莫大な借金返済の一部に消えてしまったのだ。

追い討ちをかけるように4年間共に暮らしてきた妻が家を出て行ってしまった…相手は妻と同じ職場の同僚だそうだ…ぐうの音も出ないとはまさにこのことだった。

4年間我々夫婦の生活を支えてくれたマンションから、いっそ身を投じてやろうかと本気で考えたが、そのマンションも今は人手に渡っている。何しろ一文無しの状態だったので、不動産屋に相談したところ、幸い直ぐに高値で買い手が付いたのだ。

頭金は生前の母が用立ててくれていたのでローンの残りを返済し、妻の協力分を差し引いても、幾ばくかの金額が手元に残った。今はこの金が無くなってから考えようと先延ばしの状況だ。

これから何をしようか?…これからどうしたらいいのだろうか?…誰かに相談したくても、私の周りには誰もいなかった。兄弟もいなければ両親は2人とも既にあの世だ。親しい親戚もない。親友と呼べる人物も思い当たらない。会社勤めの頃の上司や同僚など論外だ。

要するに私は人と親密に付き合ったことがないのかも知れない…孤独好きという訳でもないのに、何故か人と深く関わるのが面倒だった。きっと自分の人生に対してもずっと真剣に向き合っていなかったのだろう…身から出た錆ということなのだ…

1人移り住んだ賃貸アパートで悶々とする日々が始まったのは、つい1ヵ月前のことだ。新しい簡素な生活環境も整え終え、うっとうしい雨の風景を窓から眺めながら毎日ぼんやりと過ごしていた。一昨日、ふとある人物のことを思い出した。それが室井だ…

室井は私がまだ20代だった頃、担当していた企業広報誌編集の仕事で付き合っていたフリーのイラストレーターだ。確か私より4歳年上で、やけに気の合う人物だった。付き合った期間は僅かに2年弱だったろうか、彼の作業場が会社の近所だったこともあって、仕事の打合せはもとより、昼食や夕食、夜も一緒に飲み歩くことも少なくなく、平日はほぼ毎日のように顔を合わせていた。仕事への悩みや人生のこと、家族のこと、趣味のこと…私にすれば、なんでも遠慮なく相談出来る初めての人物だった。

室井は私とは全く違うタイプの人物だ。社交的で如才なく、仕事も遊びも何でも楽しんでやろうという意欲に溢れていた。

長身で細身だが、骨格はがっしりしている。面長の顔には口髭を蓄え、丁寧で繊細で、いかにも器用そうなな指先を持っていた。趣味は釣りで、竿も自分で作ると嬉しそうに大きな目を細めて語っていた。私が好きな読書や音楽のことも良く知っていて、何度会っても、何時間会っていても話の尽きない良き友人だった…

『そうだ…室井さんに連絡してみよう…』そう思い、古い住所録や名刺ホルダーを探してみたが、引っ越しの際にどこかに廃棄してしまったようだった。


ところが昨日、その室井から私の携帯に突然連絡があったのだ。何処から掛けたのか、表示は非通知になっていた…

『もしもし?結城ちゃん?俺、室井だけど…』
「え?室井さん?嘘…丁度昨日室井さんのこと考えてたんですよ。びっくりだなあ…」
『そうなの?…俺も結城ちゃん、どうしてるかなって思ってさ、会社に電話したら辞めたっていうじゃない…で、こっちに掛けてみたわけよ。どうしたの?今、何してんの?』
「いやあ…どうしたらいいかなあ…って感じで…で、ちょっとね、室井さんに話聞いて貰いたいなあって思ってたんですよ。ねえ室井さん、どっかで会えませんかね?」
『あー…俺今ちょっとさあ、遠くにいるんだよねえ…暫くそっちには戻れない感じでさ。悪いねえ。今ならちょっと時間あるから、聞こうか?な?話してみなよ』
「そうですか?…どっから話せばいいのかなあ…」

私はここ最近起こった様々な出来事、そして未来を見出せない自分の心情と絶望感について室井に語った…相変わらず彼には躊躇なく何でも話せた…

「…っていうことなんですよ。俺、もう何だかどうでも良くなっちゃって…もしかしたら、俺って人生に向いてねえのかなって…」
『あはは…人生に向いてないって…そりゃ、親が泣くぜ』
「親はもう、いませんから…」
『いなくても…だよ。まあ、そういうことじゃへこむのも無理ゃないけどさ。で?それで今はなにやってるの?』
「いや、別に何も…やる気も起きないし…」

『東京のど真ん中でさ、ごちゃごちゃしたとこで、どうせ1人なんだったら狭い部屋なんだろ?どっか広々したとこにでも行ってみたら?自然の中とか…そういうの嫌いなの?』
「俺もどうせやることないし、どっか旅行でも行ってみようかなって、思ったんすけど、別に特に行きたかったとこもないし…」

『だったらよ、俺の山小屋に行ってみるか?』
「室井さん、別荘なんて持ってましたっけ?」
『別荘なんてもんじゃねえよ。山小屋、ちっこい山小屋だ。5年前位だったかなあ、知り合いの建築家からさ、買ってくれないかって…どっかの山好きの御隠居さんに頼まれて建てたは建てたけど、あんまり山奥で不便なんで、誰も使えなくなっちゃったって…ほら俺渓流釣り好きだろ?で、使ってくれるんならいくらでもいいって言うからさ、買ったんだよ。いいところだぜえ』

「何処なんですか?」
『月夜見沢ってとこなんだけど』
「月夜見沢?…何処ですか?そこ…」
『あきる野って知ってる?』
「なんだ、東京ですか」
『そう思うだろ?ところがところが、行ったらびっくりだぜ。あきる野のずーっと奥にさ、檜原村ってとこがあんだよ。ま、奥多摩だな。そっからまたずーっと山奥に入ったとこ。言っとくけど車じゃ行けないからな。途中からはずっと歩きだ。都心からなら電車とバスと歩きで半日かな。どお?』

「そうか…行ってみようかなあ…本当にいいんですか?」
『ここんとこ俺もいろいろあってさ、1年位行ってねえんだよ。気になってたから誰か様子見てきて欲しいと思ってたんだ。あんなとこじゃ、うちの嫁さんにも頼めねえしなあ…行ってくれるとこっちも助かるよ。掃除とかしてくれたらもっと嬉しいけど…』
「いいですよ。暫く寝泊まりしていいんですか?」
『1週間でも2週間でも好きなだけいてくれていいよ。なんだったらそのまんま住んじゃってもいいや…あはは…ま、居られりゃだけどな』

「何ですか?そんな淋しいとこなんですか?」
『はは…その点についちゃ、大丈夫だ…』
「え?どうして?近所にやたらお節介な人がいるとか?…」
『ま、暫く居たら分かるよ。俺ももし行けるようだったら行くからさ』
「本当ですか?それ嬉しいなあ…じゃあ、そこで会いましょうよ。俺、先に行ってますから」
『そうだな。上手く会えるといいけどな…ま、頑張ってみるよ…はは……』

そして室井は山小屋までの細かいアクセスや、滞在するに当たって、設備や備品、また周囲の環境についても細かく伝えてくれた。

『ま、要するに山の生活はさ、いくらのんびりするって言ったって、朝起きて、飯食って、夜酒飲んで寝るってそれだけのことを続けるだけでも、結構やることが沢山あるってことだ。そうこうしてるとな、人生の意味が少し見えてくるんだ…』
「人生の意味?…」
『ああ…見たいんだろ?…結城ちゃん…』


第2章 初日・山小屋


そろそろ歩き始めてから1時間半…まだまだ山道は続いているが、道幅はますます狭くなり、足元も悪くなってきた…両脇の森も深くなってゆく…タクシーを降りた場所よりも標高が高くなったのだろうか、それとも太陽が大分傾いてきたせいだろうか、気が付くと気温も少し下ってきたようだ。

それでもまだ初秋のうちだ。重いリュックを背に、時折行く手を塞ぐうっそうとした枝々を払い除け、太い木の根で生じた足元の段差を乗り越えながら進むのは、普段から運動習慣のない私にとっては骨の折れる仕事で、シャツの中はもう汗だくだ。途中少し休憩を取ろうとも思ったが、ここでどこかに腰を下ろそうものなら永久に再び立ち上がる気力を失いそうで、ただひたすら歩き続けた…

元来私は登山とかトレッキングには全く興味がない。どんなに長く険しい山道を歩いたところで清々しさも満足感も味わえないのだ。

たまに原稿取材や写真撮影の立ち会いで自然の中に足を運ぶ機会もあったが、いくら美しい景色を目の当たりにしても、だから何だ…という気分だ。
ああ…足が棒になるというのはこのことを言うんだな…と思ったその時、一気に周囲の空気が変わった…何かとてつもなく神聖な場所に足を踏み入れた感覚だ。多分周りの深い林が植林から原生林に変わったせいかも知れない…ふと見ると道の脇に古い木の標識が立っている。それは細い脇道に向かって『神竜水源』と書かれている…室井からの情報によれば、ここがいよいよ最後の分岐点だ。


脇道に入ると山道はさらに狭く険しくなる。ここからはいよいよ岩や石が足元に露出し、さすがに杖が必要だ。適当な枝を拾って杖代わりに前に進む…

足腰の疲労は限界に達しそうになっていたのに何故か気力が回復してくる。うんざりしていた気分も晴れ晴れとして、周囲の青々とした森がやたら美しく見える。


20分ほども進んだだろうか、森の中に小さな池が出現する。これが神竜水源だ。池の周囲を囲む岩盤のあちこちからこんこんと水が沸き出ている。足を止め、手ですくい、渇いた喉を潤す…旨い…これ程澄んだ美味しい水は飲んだことがない…

室井の話によれば、この水が山小屋の水源だ。道に這わせたビニール管を辿って下りていけば、じきに山小屋に到着する筈だ。言われた通りに道を下る…


そして、私はようやくそこに辿り着いた。
原生林の一角が二百坪分ほど奇麗に切り開かれている…周囲は腰ほどもある雑草に覆われているが、そのほぼ中央に小振りだが漆喰に塗られた堅牢そうな家が建っていた…

『こんな家…こんなとこにどうやって建てたんだ??…』真っ先に頭に浮かんだ疑問だ…

正直言って、山奥の小屋と聞いていたので、バラックに毛の生えた程度の簡素な山小屋を勝手に想定していた。これは…小屋ではない…家だ。基礎もしっかり整地されている。道から家までは砂利石が敷かれ、そこは雑草も疎らで、多分雨が降っても楽に歩くことが出来るのだろう。玄関前にはきちんとコンクリートの上がり口がある。

室井の話では1年間ほっぽらかしだということだが、周囲の雑草と外壁の多少の汚れ以外は何ら支障はなさそうだ。建坪こそ小さいものの、奇麗に塗られた漆喰の外壁といい、丈夫そうなサッシの窓といい、これは明らかにプロの大工が建てたものだ。しかし…どう無理をしてもここには車で来ることは出来ない。水源からの道は人がようやく歩ける幅しかない。これだけの建材をどうやってここに運んだのだろう?…

しばし家の外観を呆然と眺めていたが、気を取り直して玄関前に立ち、汗で少し湿ってしまったメモを取り出す。

『えーと…7583…』室井から教えられていた玄関の解錠番号だ。しっかりとした引き戸の左右の扉の把手とっては太い鎖で結ばれ、大きな番号式の錠で留められている。

番号を合わせ錠と鎖を手に扉を開くと…そこは8帖ほどの広さのコンクリートの土間だ。片側の棚には様々な道具類が収められている。何本かの釣り竿も掛けられていた。作業台や小さな椅子、灯油や炭等の燃料、さらに食品棚には室井の言った通り大量の缶詰めや乾物、酒類が埃を被って備蓄されている。

突き当たり上がり口の向こう側には板敷きの廊下、片側は風呂場のようだ。上がり口に座り、リュックを下ろしてその奥へと進むとすぐに広い板の間に出る。

16帖もあるだろうか…広々とした居間兼食堂兼炊事場だ。小さな炊事場側には簡素なテーブルと椅子、小振りの薪ストーブが備えられている。部屋の逆側半分は天井が低くなり、下には木製のベンチにサイドテーブル、脇の階段を昇るとその上は広いロフトに2つのベッドが置かれていた。

居間の脇、二間幅の雨戸を開けると、そこは広いウッドテラス、目の前に広々とした雑草だらけの庭が広がり、その向こうは森が谷に向って背を縮めてゆく…朱に染め始めた広い夕焼け空を飾るように沢の水音がかすかに聞こえる…


到着後にすべきことは、全て次のメモに書いてある…まずは水の確保とプロパンの開栓だ。室井のゴム長靴を借りて再び玄関から外に出る。

家を回り込み敷地の一番高い位置に備えられた貯水タンクの給水バルブを閉め、下の水抜き口の栓を開けると勢い良く中の水が脇に掘られた溝に流れ出す…水が抜けきるまでの間に、炊事場の外側のプロパン設備に移動する。家の外側には屋根付の棚、そこには幾つもの小さなプロパンガスボンベが置かれている。上の段が未使用、下段が使用済み、家のガス栓に繋がれているのが使用中のものだ。ボンベの元栓を開く…

次は、小屋の中の掃き出しだ。1年間未使用だった小屋の中には様々な小さな虫たちが入り込んでしまっている。彼らに退出して頂くのだ。ロフトから居間、廊下、風呂場とトイレ、そして土間…密閉性が高いのだろう、室井が言うほど多くの虫はいなかった。蜘蛛はなるべく残しておくように言われている。目に見えない小さなダニを捕食してくれるからだそうだ。

ざっくり掃除が終わり、貯水タンクに戻るともう水は抜けきっていた。水抜き口を閉め、給水バルブを開くと、水源からの水がどぼどぼとタンク内に溜まり始める音が響く…さて、これでまずは生活の準備が整った。

玄関に戻ると開け放たれた入口の脇に1匹の猫が座っていた。毛足が長めのキジ猫だ。太く長い尻尾を揺らしている。猫は玄関に近付く私の顔を見上げ「にゃー…」と小さな声で挨拶した。首には黄色い首輪を着けているので、多分どこかの飼い猫なのだろうが、この周辺には他に家はないはずだ。迷い猫だろうか?…一体何処からやってきたのだろう?…

余程人恋しいのだろうか…猫は私が土間に入ろうとすると、長靴に身を擦り寄せて一緒に入ろうとする…
「こらこら…」そっと外に追い出そうとすると、何故そんなつれないことをするのかとでも言いたげに、私の顔をみて「にゃー」と再び鳴いた。考えてみれば動物好きの室井のこと、そうだ、彼だって同じことをするだろう…そう納得して「ま、好きにしな」と、勝手にさせることにした。居心地が悪ければ、きっと勝手に出て行くだろう…と、玄関の扉は少し開けておいた。


山小屋には電気がない。電気がないので電化製品は一切ない。唯一あるのは蓄電式のバッテリーだ。東京の生活では見ることのない、多分アウトドア用のものなのだろう。

テラスの軒の上には室井が備え付けた太陽光パネルが敷かれている。天気の良い日にはこれにバッテリーを繋いでおく。ノートパソコンや携帯電話に充電式のパワースピーカー…その程度のものなら1日位は使用出来る。ただし雨や曇りの日にはそれも諦めなければならない。次に使用出来るのはお天道様の顔を暫く拝んでからとなる。

陽も暮れてきたので、部屋に明かりを灯す。照明は小屋の中のあちらこちらに下げられた灯油ランプだ。いつ頃購入されたものなのかは知らないが、この手のものは意外に良く出来ている。充分な照度が得られるし、調光も容易い。

風呂の準備をして、小さな鍋で米を炊き、秋山夫妻から貰ったハムと野菜で炒め物を作った。土間の棚からはインスタントのみそ汁とオイルサーディンの缶詰めを使わせて貰った。1年以上前のものだが、問題はないようだった。

オイルサーディンは皿に入れて猫の晩餐だ。余程腹が減っていたのか、猫は夢中で皿の中の小さな鰯にかぶりついている…ふと黄色い皮の首輪に何かが書かれているのに気が付いた。身を屈めてよく見てみると…油性ペンだろうか、手書きの小さなカタカナで『キリ』と記されていた。

「お前…キリっていうの?」私がそう話し掛けると、猫は一瞬皿から私に顔を上げ「にゃー…」と一言返事を返した。


ランプの光が揺らぎながら湯煙を照らしている。昔ながらのガス釜を備えた小振りな木桶の湯船に身を沈める…気持ちがいい…ここ暫くの間、重く息苦しい想いに縛り付けられていた心が解きほぐされていくようだ……

思い返してみれば、風呂に浸かるのは久し振りだ。ここ最近は近所のコンビニ以外は外に出掛けることもなかったし、エアコンの効いた小さな部屋で悶々としていたので、さして汗をかくこともなく、2、3日に一度ざっとシャワーを浴びるだけだ。

とにかく出来るだけ何もしたくないのだ。朝も昼も夜も食欲があるのかないのかも良く分からず、1日1度コンビニで調達した弁当1つを2度に分けて食べていた。計った訳ではないが、自分の見た目でも明らかに体重は減ってきている。

日中はどんよりといつも眠いのだが、夜寝床に入ってもなかなか眠れない…その内頭痛も始まったので、一度は近所の心療内科にも行ってみた。医師からは「うつ病ですね」とあっさり言われてしまった。それ以来処方された睡眠導入薬を飲めば何とか夜は眠れるようになったが、抗うつ剤は面倒なので飲んでいない。今のところ特にしなければならないことは何もないからだ。

ところが、どうだろう?今日は朝から重い荷物を背負って奥多摩までやってきた。ふもとの村では少なめながら定食一人前を平らげることができた。誰かとあれほど話をしたのも久し振りだ。

山道を何時間も掛けて歩き、ここに辿り着くと、生活準備の為やむなくせっせと働いた。夜を待てずに夕食も作って食べた時の空腹感も久し振りだ。時折感じていた頭痛もいつの間にか消えている。心の中の憂鬱が消えた訳ではないが、もしかしたら、この環境は今の私に向いているのかも知れない…あまり深くは考えずにとにかくこの山小屋に身を委ねることにした…


新しい下着に着替え、玄関の扉を閉める。外はもう漆黒の闇だ。時折吹く風に周囲の森の木々やその空間そして地形が複雑に干渉し合い、不思議な音を響かせている。

居間のサイドテーブルの上ではキリが満足そうにうたた寝を始めている。時間を見るとまだ8時前だ。テレビもなければラジオすらない。バッテリーが充電されていないので音楽はイヤホンで聴かなければならないが、この環境で耳を塞いでしまうのは何とも場違いな気もする…

テラスで一服するか…そういえば煙草は朝の出発前に1本吸っただけだ。食堂でも山小屋でも煙草のことなどすっかり忘れていた。東京の部屋では、毎日煙草を吸うこと位しかする事がなかったのに、確かにここは室井の言った通りすることが山程ある。何かをする為には何かをしなければならないのだ。

リュックの中を探ってみると、東京を出る時に入れておいた煙草が3箱あった。うち一箱の封を切って、一本取り出す…灰皿代わりにオイルサーディンの空き缶を持ち、テラスに出ようとして驚いた。

私が窓に近付くのを見て、ガラスの向こうの暗闇の中から1匹の犬がニコニコしながら姿を現した。大型犬と言えるほど大きくはないが、紀州犬ほどの大きさの白い雑種犬だ。まるで旧知の親友とでも会ったかのように、よろよろと腰砕けになりそうな程思い切り尻尾を振っている。この小屋に誰かがいるのが嬉しくて仕方ない様子だ。ということは、多分室井が可愛がっていた野良犬なのだろうか…

テラスへの窓を開くと、犬はさらに興奮して後脚で立ち上がり、私に抱きついてきた。森の中をすみかにする野良犬にしては、あまり汚れていない…首や頭を撫でてやると、私の手を夢中で舐め、やがてテラスの板の上に仰向けになり、服従の姿勢を取った。

誰かに山に捨てられた飼い犬なのだろうか、しっかりとした革製の首輪をしている。首輪にはメタルの小さな札が付いている。そこには『タロ』と刻まれていた。

「なんでメスのくせにタロなんだよ?…」


タロはひとしきり甘えると、何のためらいもなく私と共に小屋の中に入ってきた。多分室井がここに滞在した時にはいつもそうしているのだろう。炊事場近辺をうろうろし、しきりと匂いを嗅ぎながら私の顔色を窺う。フライパンの中に残った炒め物を皿に空けて床に置いてやると、嬉しそうにかぶりついた。

キリにもタロにも、この山小屋では定位置があった。キリは居間のサイドテーブルの上、タロは土間の隅の一角だ。2匹とも時折私が何をしているのか様子を見に徘徊するものの、必ず定位置に戻り安心したように微睡み始めるのだ。室井がここは淋しくはないと言っていたのはどうやらこのことだったのだろう。

さて、まだまだ時間は早いが、そろそろ私も寝ることにしよう…念のためリュックを探って処方された睡眠導入剤の紙袋を出す…
ところが、何故だろう…紙袋の中は空だった。アパートで荷造りをした時には間違いなく確認したつもりだったが、このところいつも頭が漫然とぼうっとしていた。どこかに置き忘れてきてしまったのかも知れない。睡眠薬なしで眠るのは久し振りだが、ないものは仕様がない。

土間や居間のランプの火を落とし、ロフトのベッドに身を横たえる…昼間の疲れが心地良く身を包む…アパートで日々あれほど眠れぬ夜を過ごしていたことがまるで嘘のように、外から聴こえる虫の音に誘われるように、私は直ぐに深い眠りに落ちていった…


第3章 2日目…


山の中の生活が静けさに包まれていると思ったら大間違いだ。これから夜明けというまだ薄暮はくぼの頃、鳥たちのヒステリックな騒がしさに目が醒めた。

未だ頭の中にはよどみがあるものの、一晩一度も目を覚まさずにぐっすり眠れたのは本当に久し振りのことだ。昨夜は雨戸を閉めずに寝てしまったので、ロフトからの階段を降りると、うっすらとした青みがかった淡い外光が居間を照らし出している。サイドテーブルの上で、私の気配で目を醒ましたキリが大きく伸びをする…

テラスへの窓を開ける…涼やかな山の冷気が小屋の中一杯に広がった…昨日見た夕陽を浴びた暖かい光の中の森は、一面薄い朝もやのベールに包まれ、幻想的な寒色彩に姿を変えていた。

湯を沸かしコーヒーを入れる…土間に下りて玄関の引き戸を開放する…居間から玄関へと爽やかな冷気が流れ始める…タロは私に朝の挨拶を済ませると森の中へと出掛けて行った。縄張りの見回りだろうか…

さて、今日は何をしよう?…居間のテーブルでコーヒーを片手にメモに目を通す。空を見る限り今日も天気は良くなりそうだ。することはいろいろとある…まずは顔を洗って歯磨きだ。

食材を漁り卵とウィンナを炒め、缶詰めの野菜スープの朝食。もちろんキリのおねだりに応じてソーセージは2人前だ。こうして朝食を摂るのも久し振りのことだ…

早朝から騒がしかった鳥たちもようやく少し落ち着いたようだ。

テラスでバッテリーと太陽光パネルを接続して充電の準備をする。ロフトのベッドから布団を運び、日差しを待たずにテラスの手すりに干しておく。仕事は朝の涼しいうちに…室井からはそう聞かされている。小屋周囲の除草、給水設備の水漏れチェック等、やることは沢山ある。

土間に下りて道具棚の隅から刈り払い機なるものを引っ張り出してみる。
都会生まれ都会育ちの私には初めてお目にかかる代物だ。取扱説明書と首っ引きで燃料オイルを装填する。土間に掛けてあった作業用の上着を羽織り、ゴーグルと手袋を付けてベルトで刈り払い機を肩に掛けると、バルブを開き、恐る恐るレバーを引く。2サイクルの軽いエンジン音と共に先端の回転刃が回り始める…試行錯誤を繰り返しながら山道から玄関周りまでの除草を概ね終えた頃には、いよいよ日差しも強くなり始め、あとはまた明日以降にと道具を片づけ始めた。


玄関前に椅子を出し、一服していると、水源からの山道をタロが駆け下りてくるのが見えた。元気よく跳ねるように坂道を下り、時折立ち止まり、後を振り返っては尻尾を振っている。タロがようやく小屋に辿り着くころ、山道の上から杖を片手に下りてくる人影が見えた。

人影は次第に近付いてくる…どうやらこの小屋を目指しているようだ…かなり年配の男性だ。カーキ色のズボンに運動靴、白い開襟シャツを羽織り、片手にステッキ、もう一方の手には手ぬぐいが握られている。軽装なのでそれほど遠方からやって来た風体には見えない。玄関の前に立つ私に気付き、手に持ったステッキを振る。私も手を振り返す。

「やあ、お早う御座いまーす!」
男は山小屋に近付くと、満面の笑みを浮かべ、良く通る太い大きな声で挨拶を投げ掛けた。白い髭を蓄えた小柄な老人だった。

「お早うございます…」
「タロがよお、嬉しそうにここに走ってくから、何かあるのかと思ったらよ、こんなとこに家が建ってやがった…おたくは、どっから来なすったんだい?」
「あ、昨日東京から来ました。結城です。はじめまして…あの…タロはあなたの飼い犬なんですか?」
「いやあ、こいつぁ誰の犬でもねえよ。いっつもこの辺りをうろうろしてやがんだ。ま、俺とおんなじだな。散歩の相棒ってとこだ…はは…」
老人はそう言いながら手拭いで襟元の汗を拭う。

「あの…失礼ですが…あなたは?…」
「俺かい?俺あこいつとおんなじで、この辺をうろついてるただの野良老人だ」
「…野良老人…って…はは…」
「ま、そりゃ冗談だけどよ、半分は本当だぜ。こっちの下の沢のよ、小っこい集落にいるんだ。時々な、神竜様の御神水を頂きに来るんだ。ほれ…」
彼はそう言うと腰に下げた太い竹筒を見せた。

「あの…お名前、伺っていいですか?…」
「ああ…川添かわぞえ、川添康三こうぞうっていうんだ。あんた、結城さんっておっしゃったかね…ここに住んでんのかい?」
「いえ、ここは知り合いの山小屋で…暫く使ってなかったんで、暇だったら旅行がてら様子を見に行ってくれないかって言われまして…で、昨日から…」
「ああ、そう…じゃあ、この家の持ち主さんは他にいらっしゃんだね?」
「ええ。室井さんっていう、以前仕事で世話んなった人で…」
「じゃあ、ここは誰も使ってねえのかい?」
「まあ…どうも最近はその様ですけど…あの、もし良かったら上がって、少し休んでいかれませんか?俺もひと息入れようと思ってたんで…コーヒーでもどうです?」
「お、いいのかい?実はよ、ここまで上がってくんのも結構骨が折れんだよ。別に急ぐ用事があるわけでもねえし、お言葉に甘えさせて頂こうか…」


「しかしここは、自然が一杯ですねえ…」私がコーヒーカップを差し出しながら話し掛けると、川添はあきれたように笑う…

「はは…自然が一杯って…あんた、自然以外なんもねえだろう。まったく、都会の人は面白えこと言うねえ…ところで、こらああんたのもんかい?」
川添がそう言って手に持って示したのは昨夜私がリュックから出して、そのままサイドテーブルの上に放置してあった空の紙袋だ。袋の表には処方された薬剤名と数量が記載されている。

「ええ…そうですけど…どうも中身は東京のアパートに忘れて来ちゃったみたいで…へへ…」
「あんた、心の病なのかい?…」旨そうにいれたてのコーヒーを啜りながら川添が尋ねる…
「え?ええ…ちょっと…川添さん、薬のこと詳しいんですか?」
「ああ、こう見えても何年か前までは医者だったからな」
「え?お医者様なんですか?」
「あはは…お医者様なんてしろもんじゃねえよ。元々ぁ軍医上がりでよ。戦争のどさくさで拾ったような免許だからな…」
「ええっ!?戦争って…川添さんって…失礼ですけど、お幾つなんですか?」

70は超えているのだろうとは思っていたが、終戦は65年も前のこと…その時には既に医師だったということだ。
「ま、そんなような年ってことだ…あんまり思い出したくもねえけどよ…」


川添は実によく話しよく笑う、快活を絵に描いたような老人だった。一緒に居て話を聞いているだけで、こちらの気持ちも明るくなる。彼は私の祖父の世代だ。2世代も上の人物とこれ程長く語り合うことは初めての経験だったが、正直言って楽しかった。

興味深い話ばかりだった。腰を上げようとする彼を何度も引き止め、コーヒーの後は昼食、昼食の後はお茶…ビール…水割り…焼豚や缶詰めのつまみ…そして、夕食へ…瞬く間に外は夕暮れを迎え、山道はもう足元も危ないだろうと、そのまま泊まってもらうこととなった…


川添康三は八王子の商家の三男として生まれた。昭和初期の西洋化、近代化の波の中で、学業に秀でた康三は高等教育を許された。しかし旧制中学の頃、にわかに世の中は軍事色が強くなり、一般徴兵が活性化する。

戦場に駆り出されて殺し合いに参加させられるのはまっぴらと、康三は考え抜いた揚げ句、その難を逃れるため旧制医学専門学校に進学を決める。ところが、5年間の学業を終えるや直ぐに医師免許を与えられ、ほぼ強制的に下級軍医として中国北部の野戦地に送られてしまった。

その後、戦況の悪化に伴い、所属する部隊は南方パラオ戦線へ…そして、辛うじて生き延びた康三は終戦1年後に復員。その数年後には奥多摩に近い青梅市で診療所を開くこととなる。

この頃から、自治体の要請を受けて檜原村を足掛かりに、奥多摩の無医村地域を定期的に回診し始め、ここ月夜見沢に点在する幾つかの集落の人々とも診療を通して親交を深めるようになったのだ。

「あの頃はよ、この国は高度成長期ってやつでな、多摩にもでけえ団地がぼこぼこ建ってよ、人は増えるは街はでかくなるはで、そりゃあえれえ騒ぎだったんだぜ。ところがよ、ここはどうだ…テレビもなきゃあ電気も電話もねえ。森と水と風と…小さな畠を小さな糧にして…昔ながらのいさぎいい暮らしが丸々残っててよ、俺ぁいっぺんに気に入っちまったってわけさ。時々来ちゃあ集落の連中の病気を診てたんだけどな、いつかはここで暮らしてえなあって…まあ結局目出度く願いが叶ったのは何十年も先のことだったがな…」

復員後も川添が自分の家族を持つことは遂に一度もなかった。50年間続けた街の診療所を後進に譲り、ここ月夜見沢の小さな集落に余生を託したということだった。

しかしこの50年の間に山間部の過疎化はさらに加速し、幾つかあった集落も消滅して、今は川添を含むたった5世帯だけの一集落のみになってしまっているという話だ。

「ま、いろいろあったがよ。一応ゴールに到着ってことだな。もっとも寿命の方もゴールになっちまったけどな…はは…」

「で、診療の方はまだ続けてらっしゃるんですか?」
「いいや、俺の周りは医者いらずばっかりだからよ。薬を飲んでるような病人に会うのは久し振りなんだぜ」川添はそう言って再び私の薬袋を摘み上げた。

「ああ…それ…ちょっと、うつだって言われて…」
「そんなこたあ、これ見りゃあ分かるぜ。でも、どうしたんだい?何か余程つれえことでもあったのかい?まあ、言いたくなきゃあ無理にゃあ訊かねえけどよ…」
「いろいろときっかけみたいなことはあったんですけど…」

私はここ最近身の回りで起きた出来事について説明を始めた…川添の生い立ちを聞いた後では、自分の身に起きたことなど、話してみると我ながらやけに小さく思えたが、それでも川添は黙って聞いてくれた。やはり医者として多くの経験を積んできたからだろうか…

初対面だというのに、私はいつの間にかすっかり心を許し、自分の中で解決することが出来ない深い大きな悩みについても話していた…

「…要するに…俺には人生の意味がよく分からないんです。ちゃんと生きてこなかったっていうか…ちゃんとした目的がないっていうか…」

川添は少し俯いて、間を置いてから顔を上げ話し始めた。
「結城さんはよ、盗られちまった金が惜しいのかい?その、なんとかいう先輩を恨んでんのかい?」
「いや、そりゃ口惜しくないって言やあ嘘になりますけど…どうしても出版社やってみたかった訳じゃないし…彼も必死だったんでしょうから…まあ、仕方ないっていうか…」

「じゃあ、その男作って逃げたっていう嫁さんが恋しいとか?」
「いえ、それもいいんです。後で考えたらちゃんと夫婦をしてなかったのは、俺のせいのような気もするし…要はお互いそれほど愛情がなかったっていうか…ただ形だけのパートナーが欲しかっただけなんじゃないかって…」

「なら良かったじゃねえか。不幸中の幸いたあこのことだ。金を取り返すのも、嫁さん取り戻すのも一筋縄じゃあいかねえだろうがよ、問題は結城さんの心の中のことだけなんだろ?だったらどうとでもなっだろう。第一よ、人生の意味って…何だい?そりゃあ…そもそも人生に意味なんてもんがあんのかい?」
「え?川添さんは、そういうの感じないんですか?」
「そんなもん、さっぱり感じねえよ…」
「じゃあ、川添さんは何の為に生きてるんですか?…」
「なんかの為じゃねえと、生きてちゃいけねえのかい?人生ってのはよ、生まれてから死ぬまでのことだろ?それだけのことじゃねえのかい?それじゃ駄目なのかい?」
「いや…それは…そうなんでしょうけど…」

「だろ?だったらどうでもいいじゃねえか。なにもわざわざ無理して終わらせなくてもよ、ほっときゃ勝手に終わっちまうんだ。そういうもんだ。近頃の人たちはよ、余裕がありすぎんだろうなあ、きっと…人生の目標が見付けられねえとか、人と上手く付き合えねえとか…ぐじぐじ考える時間があるってことはよ、無駄な余裕がありすぎんだ。人生なんてよ、所詮思い通りにゃならねえもんなんだよ」
「…そんなもん…ですか?…」
「そんなもんだ…」


第4章 2日目・川添老人


川添老人の話はさらに続いた…

「俺のよ、若え頃の人生最大の目標って何だか分かるかい?」
「何だったんですか?…」

「どうすりゃあ戦争に行かずにすむかってことよ。好きでもねえ勉強がむしゃらにやってよ、何とか医専に潜り込んでよ、医者んなりゃあ徴兵免除だってな。ところがどっこい、揚げ句の果てに軍医にさせられて野戦病院送りだ。まったく…あん時にゃもう笑うしかなかったぜ。ああ…俺の人生もこれで終わったなってよ…ところがよ、戦場なんてとこはよ、そんな人生のことなんか考えてる暇なんてありゃあしねえんだ。次から次に病人だ怪我人だって、まるで流れ作業よ。修理工場みてえなもんだな。こりゃあもう治らねえ、内地送還だ、こっちはもう駄目だ、モヒで眠らせとけ…ってな感じよ。そうこうしてるうちによ、次は南方だ。結城さん、あんたパラオ戦線って知ってるかい?」
「いえ…祖父が戦争に行ったとは聞いてましたけど…詳しいことはあんまり…でも、南方は激戦だったんでしょう?」

「激戦なんて生やさしいもんじゃねえ…玉砕ぎょくさいだ玉砕…兵隊も軍属もほぼ全滅ってことだ」
「でも、川添さんは帰ってこられたんですよね?」
「当たり前えだ。そうでもなきゃあこんな歳になるまで生きちゃいねえや。パラオに着いて少し経った頃だったかな、一個中隊と一緒によ、メリー島っていう小さな島に派兵されたんだ。本島から200キロ以上も離れたサンゴ礁の小っこい島でよ、1キロ四方位ちょいしかねえ。そこに300人がとこの兵隊が孤立しちまったんだ…」

太平洋に浮かぶ小さな島、メリー島はパラオ戦線の専守防衛拠点の一つになる予定だった。ところが人員は送り込んだものの、既に制海権制空権を失っていた日本軍はその後の物資補給が一切出来なくなってしまった。一方敵対する連合軍は、武器を持たないこういった島々とは一切交戦せず、空母戦略でひたすらパラオ本島基地を攻撃した。こうしてメリー島は1年半もの長きにわたり、味方からも敵からも見放されてしまったのだ。もちろんその間、戦闘は全くなかった。

ただし、この小さな島には300人もの人間を養う包容力はない…派兵されて半年も経たずに島内の食料はほぼ全て消え失せ、兵隊たちはひたすら『飢え』と闘うこととなった。日々一人、また一人と栄養失調や代謝疾患で戦友たちが倒れてゆく…

「野戦地にいた頃はよ、負傷兵や感染症の兵隊が次から次に運ばれてきてよ、患者たちとはいちいち話してる暇もなかったけどよ、メリー島じゃあ、出来る治療なんて何もありゃしねえ。薬はおろか食わせるもんもねえんだからな。俺の仕事はただただ看取るだけだ。身体を拭いてやってよ、脈を看て…あとは話を聞いてやる位がせいぜいのところよ。毎日毎日、今日一人…明日また一人…って感じでよ、1人ずつ1人ずつ、眠るように死んでいくんだ…」
「随分亡くなったんですか?…」

「いつも4、5人が運ばれて来ててな…俺のとこに運ばれるってことはもう自力じゃあ動けなくなったってことだ。この4、5人が増えることもなきゃあ減ることもねえんだ。1人死んで、埋葬班に引き渡すと、また1人運ばれて来るって感じだな。8ヶ月位の間だったかなあ、大体250人がとこ死んじまった…」
「250人…そんなに亡くなったんですか…」

「ああ…ところがよ、そこでパタッと止まったんだよ。何でだか分かるかい?」
「え?どうしてですか?」
「島でよ、どうにか調達出来る食いもんが丁度いき渡るようになったんだよ。簡単な話だ。つまりその島で生き延びられる人数はせいぜい40、50人が限界だったってことだ。簡単だろ?ま、そんなことで俺あよ、毎日毎日これから死んでく奴等と話をすることになったわけだ」
「どんな話をされたんですか?…」

「ま、殆どが人生の話だ」
「人生…ですか…」
「そう…でもよ、おたくみてえに難しい話じゃねえよ。大概が極く極く簡単な話よ」
「簡単な話?…」

「そうよ。俺んとこに運ばれてきたってことはよ、長くてここ数日の命ってことだ。そりゃあ本人たちが一番良く分かってる。だからよこの世の最期の別れってことだろ?どいつもこいつもよく喋りやがんだよ。嘘も見栄もなしだ。思ったことをそのまんま話してくれんだよな。みんな若え連中だ。今考えりゃあ、まだ20歳かそこいらの若え奴が多くてよ…でも、みんなその短い人生を振り返るんだよなあ…概ねあ明るい話だ。ガキの頃仏壇からくすねた饅頭がとびきり旨かったこととかよ、飲んだくれの父親が飲み代削って中古の自転車買ってくれた時、どんなに嬉しかったかとか、べー独楽の削り方には特別なコツがあるとか、隣町の食堂の娘に付け文したこととか、出征の前の日に家の鶏が卵を沢山産んでくれたこととかよ…そりゃあ他愛ないことばっかりよ。最初の内はよ、人の死ぬ間際ってのは、つまんねえことをいろいろ思い出すもんなんだなあ…って思ってたけど、何人も何十人も色んな話聞いてるうちによ、ああ…そうか…此奴等はみんな一つのことを話してんだなって…分かってきてよ…」
「何ですか?一つのことって…」

「人生だよ。彼奴等が言いたかったことはよ、どんなに短くても、どんなに小さくてささやかでもよ、自分にはきちんと人生があったってことだ。人生はよ、充実してるかどうかじゃねえ、いいか悪いかでもねえ…人生がそこにあったかどうかが大事だってことだ。分かるかい?」
「人生があったかどうか…」
「結城さんは今何歳いくつだい?」
「35、あ、もうすぐ36ですけど…」
「あんたにも36年間の人生があっただろう?…」
「…はい…」確かに…人生はあった…


私は父が40代、母が30代、結婚後10年以上が経ち、もう子供は出来ないだろうと諦めた頃にようやく授かった一人息子だ。そのせいか、両親には大事に育てられた。親に厳しく叱責されたこともない。父は普通の勤め人で、大して裕福な家庭ではなかったが、子供にとっては満足出来る毎日を送っていた。

ただ、我が家は慎ましやかな生活だったので、さしたる贅沢嗜好は芽生えず、親が困るような高価なものをねだることもなかった様な気がする。私が好きだったのはテレビのヒーロー番組、いわゆるライダーものだ。今となってみれば、何故あれ程夢中だったのか分からないが、キャラクター玩具やフィギュアなど、小遣いを貯めては次はあれを買おう、その次はあれを手に入れよう…と、必死に計画を練る。両親もそれを良く分かっていて、誕生日やクリスマスには思い掛けずに高価な玩具を贈ってくれ、涙が出るほど嬉しかった記憶がある。

中学からは親の勧めで水泳部に所属した。3年間中長距離の選手として様々な大会に出場した。自分なりに泳法やペース配分を工夫し、体力と持久力と相談しながらコツコツとタイムを縮めていくことに熱中した。結果的には高校以降も続けるほどの好成績は収められなかったものの、3年生の夏には都大会で入賞を果たし、一応の満足を得ることが出来た。何よりもレベルアップするプロセスが楽しく、大会に関わらず練習の時でも、思わぬ好タイムが出た時には溢れるような喜びを感じたものだ。

大学の時にはアルバイトで旅費を稼いでは、ゼミの仲間たちと様々な地方へ小旅行を計画するのが楽しみだった。別にそれ程旅が好きだった訳でもなく、特に親しい仲間たちでもない。鉄道にも風景にも温泉にも興味はなかったが、限られた予算でどこまで遠くに、どれだけ快適に旅する事が出来るのかというプロセスを共に考えること自体が楽しかった。

他にも些細なことなら、楽しかったことやわくわくと胸をときめかせる出来事は数えきれない…と、思い返してみると、彼の言う通り私にも確かに人生があった…


「確かに、そうですねえ…」
「だろ?人生なんてもんはよ、所詮生まれてから死ぬまでのことだ。派手だろうと地味だろうと、長かろうと短かろうと、大した差はねえのさ。いよいよこれから死ぬって時によ、ああ…これが俺の人生だった…って受け入れられるかどうかが大事だってことだ。幸か不幸かなんてよ、他人が決めることじゃねえ。上を見たってきりがねえ。どうやったっていずれあ死ぬんだからな。それでちゃらだ」
「ちゃら…ですか?…」

「ちゃらだよ、ちゃら。貸し借りなしってことだ。ま、なかなかそう思えねえとこが人生の面白えとこでもあんだけどよ」康三はそう言いながら、傍らに寝そべっているキリの背中を優しく撫でた。キリは気持ち良さそうに少し身を震わせた。


川添康三が何故南方の惨状の中を生き延びることができたのか…それは彼が部隊でただ一人の医師だったことに尽きる。パラオ本島に配属された折に、ミクロネシア周辺の島々の植生や感染症、兵隊の為に徴用出来る食材に関する詳細な知識を現地の軍属たちから集めていた。

島に持ち込んだ食料がいよいよ底をつき始めた頃からは、康三のこの知識が部隊の兵士たちの健康を保つ糧となった。しかし、その知識も及ばぬ自然の摂理の中で、兵士たちが1人また1人と命を失うようになると、次第に彼の医師としての役割は変わっていった…

ささやかな彼の診療設備は兵士たちの最期の安息の場所となったのだ。康三の役割はそこに運ばれた人々を安らかに見送る、言わば聖職に専念することとなった。島の兵士たちにとって康三の存在は大切な人生終焉の扉となったのだ。大事な戦友や、強いては自分たちがやがて確実に迎えるであろう死出の旅立ちを穏やかなものにしてくれる康三の生活は、こうして多くの兵士たちによって支えられることとなった…


川添老人との語らいはついつい深夜までに及んでしまった。久々の深酒で、12時を回る頃にはすっかりろれつが怪しくなってしまっていた。楽しかった…いつの間にか深い睡魔に襲われ、自分でも記憶にない間にロフトのベッドに潜り込んでしまったようだ…


第5章 3日目…


目が覚めた時には、川添老人の姿はもうどこにもなかった。きっと私の起床を待たずに沢の集落に戻ったのだろう。時刻はまだ7時を回ったばかりだった。昨夜あれほど飲んだにも関わらず気分はいたって爽快だった。自分の朝食と合わせ、キリとタロにも餌を与え、昨日の草刈の続きを始めた。

今日の空模様は曇天…テラス前の庭や小屋周囲の草刈を終え、熊手で苅草をあちらこちらに集めていると、しとしとと霧雨が降り始めた。昨日一日中晴れていたので、今日はバッテリーが使用出来る。持ち込んでいたパソコンを充電している間に、ゆっくりと風呂に入ったが、暫くすると外からけたたましくタロの吠える声が聞こえてきた…

『今度は何事だ?…』風呂から出て、そそくさと服を身に着け、テラスから外を見て、思わず声を上げてしまった…

「おお…」牛だ!

立派な角を生やした黒い巨大な牛が目の前で私が集積しておいた苅草を悠々とんでいる…周囲に民家も農場もない筈なのに、一体どこからやってきたのだろう?…タロは少し距離を置いて、縄張りから出て行けとばかりに吠えて威嚇しているようだが、牛はといえば、全く動じる様子はない。

「おいっ!タロっ!やめとけっ!」私がそう声を掛けると、タロも牛もこちらに視線を向けた。タロは吠えるのをやめ、テラスに上って来たが、どうやら気が気ではないらしく、牛を監視しながらテラス中をうろうろと動き回っている。牛は暫く私を見ていたが、やがて再び目の前の草の山に取り組み始めた…どこかふもとの里から山に迷い込んだのだろうか…それともこの近くに放牧場でもあるのだろうか…

取り敢えず、タロを小屋の中に入れ、窓と玄関の扉を閉めて騒ぎにならないようにした。牛の巨体は雨にうっすら濡れて黒く光沢を放っている。都会育ちの私としては、いくら大人しいとは言え、これ程巨大な生物が目の前にいるというのも妙な気分だ。興奮醒めやらぬタロを落ち着かせる為に、コンビーフの缶詰めを一缶開けた。思い掛けずおこぼれに預かったキリも大満足だ。

雨は霧のようにうっすらと降ったりやんだりを繰り返している。どうやら今日は小屋に篭っていた方が良さそうだ。パソコンを小さなパワースピーカーに繋ぐ…お気に入りのジャズ女性ボーカリストのハスキーな声が小屋に流れる…

室井が持ち込んだものだろうか、壁に備え付けられた棚には沢山の本が並んでいる。殆どが小説とコミックだ。うっすらと埃が被っているものの、明らかに購入したばかりの汚れのない書籍ばかりだ。これだけあれば数ヶ月はゆうに暇を持て余さずに済むだろう。そう言えばこのところあれほど好きだった読書からもすっかり離れていた。目ぼしい本を3冊程選び出し、サイドテーブルの上に置いた。今日はゆっくり読書でもしていよう…


昼過ぎ…そろそろ腹も減ってきた。何か昼飯でもこしらえようと腰を上げる…窓から外を見る…相変わらず外はしっとりと濡れているが、みたところどうやら牛は姿を消したようだ。どこからやって来たのか分からないが、どうやら帰るべきところに帰っていったのだろう。さて…何を作ろうか…土間に下りて食材を物色していると、うたた寝していたタロが目を覚まし、私の顔色を窺いながら前肢で玄関の扉を盛んに引っ掻く…

「なんだ?外に出たいの?…雨だぜ。ああ…そうか、トイレか…」

引き戸を少し開けてあげると、タロは尻尾を振りながら外に出る…その時外から声が聞こえた。

「あ!タロだっ!」子供の声だった…

玄関から顔を覗かせると、軒下のたたきに子供が2人しゃがんでいた。タロは嬉しそうに2人に擦り寄っていた。

「おじさん、誰?…」振り向いてそう訊いたのは手前にしゃがんでいた女の子だ。多分小学生の低学年位だろうか…ジャンパースカートにクリーム色のブラウス、肩口にお下げを下げ、目鼻立ちのはっきりしたいかにも活発そうな女の子だ。

「僕は…この山小屋に来たもんだけど…そういう君たちは…何処から来たの?」
「俺たち、下の沢から上がって来たんだ。花子探して…おじさん、花子見なかった?」女の子の向こう側にしゃがんでいた少し大きな男の子が立ち上がって私に尋ねた。

「花子?…って、今日は誰も見なかったよ」
「花子は人じゃないよ。牛だよ黒い牛。ねえ、見なかった?」
「牛?ああ、うちの庭にいたよ、さっきまで。1時間くらい前かなあ…でも、いつの間にかいなくなっちゃったよ。あれ、君んの牛なの?」
「ううん。千恵ちえん家の牛。この子ん家。俺はおんなじ村だから…千恵ん家のさ、おばちゃんが一緒に探してきてくれっていうからさ、朝からずっと探して、ここまで登ってきたんだ。この家、誰も住んでないのかと思った。いきなりタロが出てきたからびっくりしちゃったよ。タロっておじさんが飼ってるの?」
「いや、一昨日おとといからずっとここにいついてるんだけど…おじさんもここには一昨日来たばっかりだから…それより、朝からずっとって、君たちお昼ご飯は食べたの?」
「あのね、ひとしちゃんがね、途中でグミとかスグリとか採ってくれたの。それ食べたの、ね?」
「ああ、ここまで来ちゃうと村はもう遠いからな…でも…花子、何処行っちゃったのかなあ…あいつ、すぐ逃げ出すんだよなあ…」

「おじさん、これからお昼ご飯作るとこなんだけど、君たち良かったら食べていかない?ほら、服も少し濡れちゃってるからさ、ちょっと上がって休んでいきなよ。な?」
「仁ちゃん…」千恵と呼ばれた女の子は、私の申し出に、少し緊張した面持ちで訴えるように男の子の顔を見上げた。

「あ、おじさんはね、この山小屋を持ってる人の友達で東京から来た結城まことっていうんだ。初めまして…知らないおじさんの家に上がったらお家の人に怒られちゃうかな?…じゃあ、雨が上がったらおじさんも一緒にお家まで送って行くから…それで、どう?」
「いいの?」
「いいよ。どうせ暇だしな。そうそう、下の沢っていったら、川添康三さんっていうお爺さんもいるだろ?」
「え?康三って…コウじいちゃん?おじさん、コウ先生の知り合いなの?」
「昨日ふらっと来て、今朝までいたんだよ」
「なんだ、コウ先生も来てたんだ。じゃあ、御馳走になろうか?」
「うん。あたし、お腹空いたっ!」千恵が嬉しそうに答えた。


「ご馳走さまっ!ああ、美味しかったっ!結城のおじちゃん、お料理上手だねえ…」湿った服が乾く間、私が出してあげたブカブカのTシャツを着て、千恵が満足そうに笑顔を浮かべた。
「あはは…上手もへったくれもないよ。缶詰めのカレーだからな…ま、今お茶入れてあげるから、少しゆっくりして、後で雨が止んだら家まで送ってってあげるから…」
「ここ…凄いね…町の家みたいだ…」食事を終え、足元で落ち着いているタロの首を撫でながら仁が部屋を見回す…

2人は地元の小学生だった。沢周辺の子供は2人だけだと言う。月夜見沢には檜原村の小学校の分校があるらしい。話を聞いてみると分校とは名ばかりで、下の沢の空き家を改装しただけの小学校だ。

2人の為に週代わりで村の小学校から教師が派遣される。いわゆる家庭教師に毛が生えただけのような環境だ。月に1週間は2人は村に赴き、校長や副校長の家に滞在して通常の学校授業を受けることが出来る。かつては月夜見沢の入口付近に別の小学校があったらしいが、過疎化が進み、10年以上も前に廃校になってしまった。状況を聞けば聞く程今時この東京にこれほどの教育へき地があることに驚かされる…

驚かされたのは教育環境だけではなかった。彼らの集落にはテレビがない。かろうじて電気はきているようだが、放送波は届かないらしい。電話は住人共用のものが集落に1台のみ。郵便も派遣される学校の先生が週に1度運んでくれるだけということだ。

集落の世帯は僅かに5世帯。人口はたった10人。仁と千恵の家族だけでも合わせて7人なので、残り3世帯は全て一人暮らし。言ってみれば、集落自体が一家族のようなものだ。現代社会からほぼ隔絶された家族だ。

恐らく集落にはさしたる大きな現金収入がないのだろう。皆慎ましやかに主に自給自足の生活を送っている。月に1回町の生活に接している仁や千恵にしても、テレビやアニメ、ゲームや携帯など、今時の子供なら誰もが興味を持つ文明の切れ端にはあまり興味がないようだ。

彼らの興味は沢周辺の自然と集落の人々だ。日々沢や山を歩き四季の変化の中で楽しみを見付ける。特に今は夏から秋への変わり目の季節、森では様々な木の実が採取出来るし、沢では山女魚釣りや川海老や沢蟹の仕掛け漁など、楽しみが多い。日々生活を共にする集落の住人たちとの交流もまた楽しいらしい。

隔週交代でやってくる佳代かよ先生は明るく優しく、先生と言うよりも姉のように接してくれる。もう一人の先生、秦野はたの先生は厳しい。大きな体格に四角い顔の男先生で、秦野先生がいる1週間は宿題も多いし、授業中の行儀や態度にもうるさい。

干し柿、よもぎ団子、葛餅、栗の渋皮煮…和菓子作りの得意なさえばあちゃん。頑固者の川漁師八郎じいちゃん。山のことなら何でも知っている千恵の祖母の千津さん…そして、住人全員の相談役コウ先生…暫く仁と千恵から集落の様子を聞けば聞く程、そこは理想的な別天地のように思えてくる。是非訪れてみたい衝動が沸き起こってくる…


「あ、花子だっ!」窓の外を見て千恵が叫んだ。目を移すといつの間にか戻った花子が庭で再び苅草を食んでいる…

仁が慌てて玄関から外に飛び出した。仁は花子を驚かせないようにそっと近付き、優しく首を擦る…花子も首を上げて仁を見ると、少し安心した様子だった。

「結城のおじちゃんっ!縄ないっ?」牛の傍らから仁が叫んだ。
「たしか…土間の棚にあったな…」そう言って土間に下り、棚の脇に掛けられた細縄の束を掴むと庭の仁に届けた。雨足は幾分か強くなっていた。

「これでいいかな?」
「うん、丁度いいや」仁は手早く縄を解いて肩に掛け、手慣れた様子で端を花子の鼻輪に結び付けた。

「ねえ、そこに繋いでいい?」仁がそう言って指差したのはテラスの端の柱だ。
「あ?ああ…」
「これでよし…と…」仁は花子がそのまま刈草を食べられるように縄の長さを調整して、もう片方を柱に結び付けた。


「どうする?雨、止みそうもねえなあ…」私の問い掛けに、仁も外を見上げた。
「でも…そろそろ帰んないと、着くまでに暗くなっちゃうなあ…」
「千津ばあちゃん、雨が降ったら山をうろついちゃ駄目って言ってるよ…」いよいよ夕刻前を迎えて千恵も不安そうだ。

「別にここに泊まってってもいいんだけど…電話もないし、御家族も心配するだろう?下の沢って、ここから遠いの?」
「結構ある…雨だと道も泥々だし…千恵も一緒だし…2時間位は掛かるかなあ…」
「おじさんが知らせに行ってこようか?俺の分だけなら雨具も長靴もあるし…」
「無理だよお…だって、おじさん、村まで行ったことないだろ?山道はさ、登るより下りる方が危ないんだよ。雨だし…道に迷っちゃうよ」

「そうか…参ったなあ…とにかくさ、雨もだんだんひどくなってる感じだし、君たちだけで帰すわけにもいかないだろう…雨が止むまでここにいるしかないだろう?康三さんもここのことは知ってるんだし、誰か様子見に来るかも知れないし…」
「…そうだね…あ、そうだっ!タロだ。タロに頼もう!」
「え?だって、タロは犬だろ?…」
「タロは一日に一回は必ず村に来てるから…ここから出たらきっと、行くと思うよ。な?」
「うん、昨日は珍しく来なかったから、どうしたんだろうねえって、みんなで言ってたんだよねえ…」千恵も同意する。
「そうそう、でもコウ先生もいなかったから、きっと一緒に山歩きでもしてんだろう…って…なあタロ、ひとっ走り村に行ってきてくれないか?」

仁にそう声を掛けられると、足元に横たわっていたタロは身体を起こし、尻尾を振って嬉しそうに彼を見つめた。
「じゃあ、駄目元でそうしてみるか…」

どうやら他に良いアイデアも思い浮かばない…一応やるだけはやってみようと、私はメモ用紙2枚と鉛筆を2本用意した。

「ほら、おじさん手紙書くから、仁くんも書いてくれる?」
「分かった…」


『月夜見沢の皆さん。昨日川添康三さんと知り合いになりました神竜水源近くの山小屋の結城真と申します。本日、柴田仁くんと涌井千恵子さんの二人のお子さんが牛を探して我が家にやってきました。雨具もお持ちでないし、お腹も空かれていたようなので、雨が止むまでここでお預かりしております。多分今夜はここにお泊めすることになると思います。どうぞ御心配なさいませんよう。 結城真』

『神竜さまの近くの家にいさせてもらってます。花子もみつけました。ゆうきさんていうやさしいおじさんです。ごはんも食べさしてもらいました。千恵も一緒です。 仁』


2枚の紙を畳み、濡れないよう厳重にビニール袋に入れ、タロの首輪に目立つように留めた。タロ自身が果たしてどこまで事情を理解したのかどうかは分からなかったが「よしっ!じゃタロ、頼んだぞっ!」と、仁がテラスの窓を開けると、一声吠えて雨の中に飛び出していった。


第6章 3日目・雨の夜


雨は夜を迎えても衰えることはなかった。

夕食は何が食べたいか尋ねると、子供たちは口を揃えて即座にラーメンと答えた。食材を探ると中華乾麺の袋を見付けた。賞味期限はとうに過ぎていたが、袋を開けて見たところ何ら問題はない様だった。念のため同封の粉末スープは廃棄して作り直し、焼豚と野菜炒めとゆで卵をのせたラーメンを作った…デザート用にフルーツ缶詰めを開けて白玉団子を作ってあげると、仁も千恵も大喜びだった。

「結城おじさんってさ、どうしてこんなにお料理が上手なの?」白玉団子を頬張りながら千恵が尋ねた。
「ああ、たまたま白玉粉があったからな。こんなのは料理とは言えないだろ?缶詰め開けただけだし、大した事はしてないよ。でも、気に入ってくれたんなら嬉しいけどさ…」
「美味しいっ!ラーメンも美味しかったっ!カレーライスもっ!ねえおじさん、ずーっと、ここにいるの?」
「いや、ちょっと休暇で来ただけなんだ」
「へえ…いつまでいるの?」仁が訊く。

「まだ決めてないんだけどね…1週間位かな…」
「ふーん……休暇っていつまでなの?」
「うーん…実は、おじさん、会社辞めたばっかりなんだ。これからどうしようかなあ…って感じかな…」
「へーえ…なんで?…クビんなっちゃったの?」
「いや、新しい会社創ろうと思ってね…でも、うまくいかなかったんだ…」

私は子供相手に一体何を話しているんだろう…いや、子供相手だから気楽に話せるのかも知れない…

「じゃあさ、ここにずっといたらいいじゃん。な?」
「そうだよ。あたし時々遊びにきてあげる」
「あはは…そうか、それもいいかもな」

「おじさん、どんな仕事してたの?」
「うーん…文章を作る仕事だ。いろんな会社やその会社で売ってるものなんかを紹介する時に使う文章を書く仕事だな」
「へえ…文章を書くだけの仕事だったら、ここに居たって出来るじゃない」
「そうよ。ここでお仕事してさ、そいでお休みの時はあたしたちと遊ぶの。ね?」
「うーん…なるほど…それ、なかなかいいアイデアかも知れないなあ…本気で考えてみるかなあ…」
「そうしなよ、そうしなよ。ね、そいでさ、時々村の方にも遊びにおいでよ」


昨夜の康三との語らいも楽しかったが、子供二人を相手の語らいもまた楽しい…私は兄弟がいなかったし、大人になってからも身の回りに子供がいたことはなかった。いつの間にか、自分は子供が苦手なのだとばかり思い込んでいたが、こうして仁と千恵と話をしていると、その屈託なさに思わず顔がほころんでしまう。

子供というものは、大人が保護し面倒を見なければならないわずらわしい存在だと思っていたが、どうやら大きな間違いだったようだ。子供のあどけなさは、大人のすさんだ心を癒してくれるのだ…外は雨に加えて風も強くなってきている…でも、この小屋の中だけには穏やかな時間が流れていた。


突然玄関の外からタロの吠える声が聞こえた。

「あれ?タロ、帰って来ちゃったみたいだぞ…」私がそう言いながら玄関に向かおうとすると、続いて玄関から女性の声が聞こえた。

「今晩わあ!すみませーん!結城さんって方、いらっしゃいますかあっ!」
「あっ、佳代先生だっ!」千恵と仁が私を追い越し、大急ぎで玄関に向かう。私も後に続いた…

びしょ濡れのタロが土間で身体を思い切りふるって雨を払っていた。大きな仕事を成し遂げたことが分かっているのだろうか、どうだと言わんばかりに尻尾を振り、得意満面で私を見上げた。

その後にはゴム長靴に雨具姿の若い女性が雨を滴らせながら立っていた…リュックを背負い、手には大きな懐中電灯を持っていた。

「千恵ちゃん、仁くん…みんな心配したのよお…ああ、でも良かったわあ…」彼女はそう言いながら2人に近付き、にっこりと微笑んだ。

「あの…どうぞ…お上がりになって下さい…」私が声を掛けると、彼女は我に返り、緊張した面持ちで深々と頭を下げた。

「あ、すいません…こんな夜分に。あの結城さんですか?」
「ええ。タロのメモ、ちゃんと届いたみたいですね」
「ありがとう御座います。私、学校の…月夜見分校の沢井と申します。この子たちが朝から山に入ったままお昼過ぎても帰ってこないんで、御両親たちと心当たりを探してたんです。そしたら、夕方になって川添先生のところにタロが飛び込んできて…」

「まあ、ここじゃなんですから、取り敢えず雨具お脱ぎになって、上がって下さい。あ、今タオル持って来ますね。君たち、そこの雑巾でタロの身体拭いてやってくれる?」
「うん、分かった」

浴室前の棚からタオルを取って戻ると、彼女は上がり口に座って長靴を脱いでいるところだった。雨具の下はジーパンにTシャツ姿だったが、余程苦労して登って来たのだろう、見た目にも分かる程ぐっしょり汗をかいていた。

「どうぞ、これ、使って下さい」
「あ、すいません…あの、雨具、あそこに掛けさせて頂いたんですけど…」
「構いませんよ。それより、随分汗かいてらっしゃいますね。何かお着替え用意しましょうか?」初対面の若い女性への申し出としては少し失礼とも思ったが、汗で身体に貼り付いたTシャツからはくっきりと下着が透けて見えていて、面と向うと目のやり場に困ってしまいそうなのだ。

「あの…あたし着替持ってきてますから…どこか着替える場所があります?…すいません…」
「ああ…それじゃ、そこの浴室使って下さい。僕ら、こっちの居間にいますから…」

まだ20代なのだろうか…細身の女性だった。派手さのない小づくりの整った顔立ちで、髪は後で引っ詰めに結ばれている。

「結城おじさん?」居間でお茶を用意していると、仁がこっそり話し掛けた。
「ん?」
「佳代先生、お腹空いてるみたいだよ…」
「そうか…夕ご飯まだなのかな?」
「さっき、お腹がぐうって鳴ってたもん…」
「じゃ、何か作んなきゃだな…」
「佳代先生にもラーメン作ってあげてよ。ね」
「そうか、そうしようか。じゃ、一応訊いてからな…」私はそう返事しながら、料理の準備をし始める…


タロが我々のメモを携えて康三の家に飛び込んだのは夕暮れの頃だった。康三はすぐに住人たちを集め子供たちが無事保護されていること、またどれ程詳しくかは分からないが、私の人物像が説明されて、集落の住人たちは一様に胸を撫で下ろしたということだった。

ただし、天気予報によればこの雨は数日続くらしい。明朝子供たちを帰宅させるにしても雨具が必要となる。男一人で滞在している私に子供たちの世話を頼るのも申し訳ない。康三からは私に任せておけば大丈夫だと言われたが、まだそれほど雨も強くなっていなかったので、佳代先生が子供たちの着替や雨具を預かり、夜間の山道をタロと一緒に登って来たのだと言う…


「ご馳走さまでした…ああ、美味しかった…本当のこと言うと私、凄くお腹空いてたんです」着替えたジャージのパンツと新しいTシャツ姿で佳代先生が笑顔を浮かべた。

「ね?ここのラーメン美味しいでしょ?…」千恵が嬉しそうに佳代先生の顔を覗き込む。
「おいおい…言っとくけど、ここはラーメン屋じゃねえからな…」
「でも本当に美味しかったわ。結城さんてお料理がお上手なんですねえ…手際もいいし…」
「いやあ、そんなこと言われたことないなあ…普段は別に料理なんてしないし…でも、そう言われてみれば、独身の頃は結構料理好きだったような気がするな…」
「でも最近離婚されたんでしょ?」
「え?康三さんから聞いたんですか?康三さん、俺のこと何て言ってました?」
「穏やかでいい人だって…最近会社辞めて、奥さんとも別れて、人生やり直しにここに来たって…動物好きで、ライターのお仕事されてたんでしょ?」
「何だよ…何でも喋っちゃってんだな、あの人…でも、面白い人だったなあ、康三さん…俺、あんなに歳の離れた人とあんなに長く話したの初めてです。昨夜は本当に楽しかった…」

「コウ先生にはあたしも随分お世話になってるんですよ」
「そうなんですか?」
「ええ、私、青梅市の方で教員やってたんです。小学校の先生になりたくてようやく教員になったんですけど…なってみると、何だか思ってた仕事と全然違ってて、子供たちとだけ向き合ってればいい訳じゃなくって…人間関係も難しいし…あたし、少しノイローゼ気味になっちゃって…そんな時、コウ先生と会ったんです…」


佳代は仕事への悩みが高じて不眠が続き、次第に体調を崩していった。診察の為住まいの近くの診療所を訪ねると、そこで当時まだ医師だった川添康三と出会った。康三は彼女の不調の状態を診察するとこう言った…
「今のあんたにゃ、薬はかえって毒だろうよ。まあ、週に一度くらい看せに来なさい。何かいい方法を見付けてやるから…」

そして、週に1度診療所に通い始めた…康三は特に治療らしい治療は施さなかったが、毎回黙って彼女の身体の不調や仕事の悩みを聞いてくれた。

康三の診療所に足を運ぶことは、いつの間にか彼女の安息の時間になっていった…何回目の診察だっただろうか…康三は突然彼女にこう持ち掛けた…

「沢井さん、あんた俺と一緒によ、一度月夜見に行ってみねえかい?」
「つきよ…ですか?」
「いや、月夜見ってのは場所だよ。檜原村のずっと先の山奥によ、月夜見っていう沢があるんだよ。そこに小さな集落があってな、俺あ月に一度そこにへき地診療に行ってんだ。診療は1日で充分なんだけどよ、逗留は大体4、5日ってとこだな。いい所だぜえ。そこによ檜原小学校の分校があんだ。生徒はたったの4人だ。集落にゃ来年入学の女の子が1人いるからよ。その子が卒業したら、多分それでお仕舞えだな。1度見に行ってみねえか?俺が思うにゃ、今のあんたにゃ、しっくりくる処のような気がするんだけどな…」

康三に誘われるまま佳代は休暇を取って月夜見沢を訪れた。康三の言う通りだった。集落周辺の風景、人々、子供たち…そして、分校での教育現場…全てが彼女の心をしっかりと掴んだ。檜原小学校へのへき地教員としての転任は、康三が自治体に働き掛けてくれたお陰で、すんなりと翌年からと決まった。


「康三さんが私をここに導いてくれたんですよ」佳代はそう言って懐かしそうに微笑んだ…


外の雨はますます激しさを増しているようだった。私は仁に促され、花子を風の弱い小屋の北側のクヌギの木に繋ぎ直し、餌となる苅草を周囲に集めた。

来客たちの為に風呂を沸かし、ロフトのベッドを彼ら3人に譲って、居間に自分用の寝床を用意した。子供たちを寝かしつけ終えた佳代と、再び居間で語り合った。彼女の口からは、月夜見の美しい季節の移ろいや、隔週で繰り返される町と森との生活の違いが綿々と語られていった。その言葉に誘われるように私の心は既に下の沢の集落を目指していた…


第7章 4日目…


外からの子供たちの声とタロの鳴き声で目が覚めた。

テラスの反対側、居間の北側の窓から外を見ると、少し小降りになった雨の中、雨具を身に付けた仁と千恵が花子の世話をしていた。佳代はテラス側の脇の台所に立っている…コンロの上の鍋からは湯気が立ち昇っている…うっすらとした窓からの青い外光が彼女の横顔を照らしている…優しそうな美しい横顔だった…

「お早うございます…」
「あら、ごめんなさい、騒がしくて…起しちゃいました?子供たちは起きて欲しかったみたいでしたけど、よく眠ってらっしゃったから、起しちゃ駄目って言ったんですけど…ふふ…」
「いやあ、ぐっすり眠っちゃったなあ…佳代さんはよくお休みになられました?」
「はい、とっても…すいません、何だか寝室追い出しちゃったみたいで…あの、下からちょっとお米と卵とお野菜と使わせて頂いちゃったんですけど…」
「ああ、構いませんよ。どうせ俺一人じゃ食い切れないくらいありますから…って言っても、俺のじゃないんですけどね…へへ…」
「今、朝ご飯作ってますから…雨も少し小降りになってきたみたいですから、朝ご飯頂いたら子供たち連れて帰ろうと思って…」

「あのう…出来たら俺も一緒に行っていいですかね?」
「え?結城さんも?」
「ええ、何だかあなたや子供たちの話聞いてたら、1度行ってみたくなっちゃって…康三さんにもまた会いたいし…」
「本当ですか?きっと皆凄く喜ぶと思うわ。子供たちももっと結城さんと一緒に居たいって言ってましたし…でも…結構遠いし、雨の山道は凄く大変ですよ。あたしたちは慣れてるけど…」
「いや、頑張りますから、是非連れてって下さい。宜しくお願いしますっ!」私がそう言って頭を下げると、佳代はその様子を見て呆れたように笑った。
「うふふ…結城さんて、面白い人ねえ。いいですよ、その代わり途中で音を上げないでくださいね。きっとあの子たち喜ぶわ…」


4人で朝食を済ませる…野菜がゆと卵焼き、それに私が缶詰めのソーセージを添えた。タロとキリにもたっぷりと餌を用意した。特に留守番となるキリには大きな皿に数食分の餌を作り、水の器を添えて床に置いておいた。

子供たちは土間にあった大きな木箱に庭の土を入れて、隅に置く…「猫、締め込んじゃうんだったら、うんちの場所作ってあげないとだよ」そう言った。


濡れた時用の着替えといざと言う時の多少の食料をリュックに詰め、タロと花子を連れ、4人で山道を下り始めたのは8時を少し過ぎた頃だった。

出発時には千恵の手を引いてあげていたが、途中からはそれどころではなくなった。濡れた地面に足を滑らせ、ぬかるみに足を取られ、露出した木の根や岩につまずき、何度も地面に手を着き、周囲の木や枝にしがみついて難を逃れるという体たらくだ…

「結城さん、あたしの後ろにいて、あたしの歩いた通りに歩いて下さい。そしたら大丈夫ですから…」私に代わって千恵の手を引いていた佳代が見兼ねて声を掛ける…花子を連れて先頭を歩く仁が振り返って笑っていた。

途中からは再び雨が強くなり、下りるにしたがって霧も立ち込めてきた…

もう1時間以上も歩いただろうか、山道の歩き方には次第に慣れてきたものの、もう完全にがくがくと膝が笑い始めていた…私の頭の中には…音を上げない…という言葉しかなかった。

歩き続け、10時を過ぎた頃だろうか、周囲の雨の音に混じって、ごうごうと流れる川の音が聞こえ始めた。どうやら沢に近付いたようだ。

先頭の仁の横にいたタロが突然勢い良く走り出し、我々から遠ざかっていった。

「もうすぐ沢ですよ。あとは沢沿いに少し登ったら到着ですから、頑張って下さいね」
「おじちゃん、頑張ろうね」佳代と千恵が振り返って微笑んだ。

沢沿いの道に出る…この雨で水かさが増しているのだろう、直ぐ脇をごうごうと音を立てて水が我々とは逆の方向に流れていく…

「大丈夫かしら…随分水かさが多いわ…」佳代が不安そうに流れを見つめる…
「そんなにひどいんですか?…」
「ええ…多分、山の上の方は大雨なのかも…」

さらに15分程歩くと、行く手の霧の中から再びタロの吠える声が聞こえた。近付いてゆくと、タロと一緒に雨具姿の大柄の男性が立っていた。

「佳代せんせーいっ!大丈夫ですかーっ?」男が大きな声で叫んだ。


男は千恵の父親の涌井恭司だった。タロが集落に戻ったことを知り、多分子供たちが戻るのだろうと迎えに出ていたのだ。

恭司は花子の綱を仁から預かると、我々を自宅に案内した。霧が立ち込めていたので、集落の様子は今一つ良く分からなかったが、古い農家が点在する長閑な小さな集落の様だった。

涌井家は広い敷地に建った古い農家だった。彼は我々を母屋の土間の入口に案内すると、花子を牛小屋に連れて行った。

「ただいまあ〜っ!」引き戸を開けて千恵が叫ぶと、家の奥から慌てた様子で大人たちが顔を見せた…

「ありゃあ、よくまあ、こんな雨ん中、山あ下りてきたねえ…」真っ先に口を開いたのは初老の女性だ。

「おばあちゃん、佳代先生がね、迎えに来てくれたの。仁と3人で結城おじさんのお家に泊まったんだよ。ちゃんと花子も連れてきたよ。タロも一緒だったんだよ。凄く奇麗なおうちなんだよ。カレーライスもラーメンも作って貰ったの。お風呂も入ったんだよ」千恵が興奮した様子でまくし立てる…

「結城さんですか?千恵の母親の昌子です。子供たちがすっかりお世話んなって、本当にありがとう御座います…」私と同世代位だろうか、千恵をそのまま大人にした様な小柄な女性が深々と頭を下げた。

「初めまして…結城です。何だかすいません、かえって御心配お掛けしたみたいで…」
「結城さん。あんたも来てくれたのかい?御苦労だったねえ。あすこにいんだったら大丈夫だから、とにかく朝まで待てって言ったんだぜ。全く…佳代先生は言い出したらきかねえからなあ…ま、みんな無事で何よりだ」後方から顔を出してそう言ったのは康三だ。

「あ、先日はどうも…康三さんもここにいらしてたんですね?」人々の中に顔見知りを見付けて少し緊張が治まる…
「とにかく、上がって下さい。まあ結城さんも佳代先生もお疲れでしょう。まずは上がってお茶でも飲んで…ねえ」千恵の母親が促す…


土間に続く広い板の間の奥、10帖もあろうかという和室に置かれた大きな座卓を囲んで、3世帯の人々と対面した。

ここの家主である千恵の祖母千津子、千恵の母親の昌子、仁の伯父伯母の洋次と咲恵、そして康三…皆穏やかで優しそうな人物ばかりだった。仁は洋次の弟の息子で、両親は集落を離れ都会で働き始めたらしいが、兄に一粒種の仁を預けたまま数年前から全く音信不通になってしまった。以来洋次と咲恵が親代わりとして仁を養護している。

少し会話を交わしただけだが、この集落の住人たちにはそれぞれに事情があるようだ。康三から聞いたように、月夜見は日本の高度成長期に急速に過疎化が進んでしまった。ここもかつては100人を超える集落だったが、近隣の町や村が都市化するに従って人々はどんどん去っていってしまった。

それを後押ししたのは自治体だった。今でもへき地集落からの移住には様々な支援があるらしい。今この地に留まっている人々は皆『便利』や『裕福』には全く興味を示さず、ひたすらこの沢での暮らしを守り続けている者ばかりだ。

子供たちも中学になると集落を出て近隣の町や村に下宿することになる。これまで教育を終えた後この集落に戻ったのは僅かに3人だけ。仁の伯父伯母の洋次と咲恵、そして千恵の父親の恭司だけだ。

康三の言葉を借りれば…「町の連中にしてみりゃ、俺たちゃただの物好きだ。こんな不便なとこで子育てするなんてよ、狂気の沙汰ってえことなんだろうよ。本当の幸せってもんが分かってねえのさ…」ということだ。

集落の話に夢中になっていたが、ふと佳代先生と千恵の父親の恭司の姿が見えないことに気が付いた…

「あれ?佳代さんと千恵ちゃんのお父さん、何処かに行かれたんですか?」
「佳代先生はさよさんのとこだんべ?」答えたのは洋次だ。
「うちのは沢の近くのじいさんを迎えに行ってるんですよ」
「え?ここに皆さん集まるんですか?…」聞いた限りの情報では、この集落の住人はあと2人。その2人もここに集わなければならない何かがあるのだろうか?…

「あはは…何も結城さんが来たからみんな集まる訳じゃねえんだ。ここはよ、沢の近くだろ?雨が続いて沢の水かさが増した時は、この家に集まることになってんだよ。この家が一番の高台だからな。沢の周りは鉄砲水や山津波があるからよ」

「まだ、この雨は止まないんですかねえ?」
「下手あすると、明日まで続くって話なんだけど、生憎今朝から停電でね、電話も通じないんですよ。それ程風も強くないのにねえ…」千恵の母親、昌子はそう言って不安の表情を浮かべた。
「こりゃあ、きっと下流の方で土砂崩れでもあったに違えねえって、話してたんだがねえ…」洋次が加える。
「つまり、孤立状態ってえことだな。ま、台風の時期にゃ珍しいことでもねえんだけどよ。とにかく雨が止むまでじっと待つしかねえだろう」


小一時間も経っただろうか…女性陣がそろそろ昼食の支度をしようと席を立った時、佳代が老女の手を引き、荷物を抱えて戻ってきた。

「もう、さえさんたら、恭司さんのとこに行くんだったら、どうしても葛餅作っていくってきかないんだから…」
「あんなもなあ簡単だよ。ちょいちょいってな。千恵ちゃん葛餅好きだろ?沢山こしらえてきたからね」雨具を脱ぎながら、小さな老女は千恵に皺だらけの笑顔を投げ掛けた。
「うんっ!大好きっ!さえばあちゃん、ありがとうっ!」さえさんはそう言って近付いた千恵の頭を愛おしそうに撫でた…

羽田さえは同じ月夜見沢の隣の集落で生まれ、ここに嫁いできた。4人の子供を育てたが、子供たちは皆月夜見を離れた。連れ合いが15年前に他界すると、子供たちから再三にわたり同居の申し出があったが、彼女は頑としてここを動くことはなかった。

今は1人暮らし。隔週で子供たちに勉強を教えに来る佳代の下宿先でもある。2年半が経った今では、さえと佳代はまるで親子のように仲の良い気の置けない関係になっているようだ。

「ああ、あんたが結城さんかい…昨夜は千恵と仁が随分世話んなったらしいなあ」
「あ、どうも初めまして…お菓子作りの上手なさえさんですよね。千恵ちゃんから伺ってます」
「どうもどうも、ここに外から人が来るなんてねえ…まあ良くおいでなさったねえ…」

「あら?恭司さんは?」佳代が客間を見渡して尋ねた。
「八郎さん迎えに行ったんだけど…遅いねえ、何やってんのかねえ…」仁の伯母である咲恵が不安そうに答える。
「八郎さんのとこ、大分水が迫ってたわよ。あたし、様子見に行ってこようか?」
「大丈夫大丈夫。どうせじいさん、またごねてんだよ。恭司のことだ、上手い事なだめて、ちゃんと連れて来んべ」と、笑顔で言ったのは洋次だ。

ようやく昼食の準備が整いそうな昼過ぎ、大柄な恭司が自分の半分程の小さな老人を連れて帰宅した。ビニールシートを被せたリアカーを引いていた。

「じいちゃん、リアカー中に入れるぜ」
「ああ…」老人は不機嫌そうな表情で答えた。

相当雨が激しくなっているのだろう。雨具姿の2人とタロはびしょ濡れだった。

「ほら仁っ!その辺濡らされねえうちに、タロ拭いてやるべ!」洋次に言われ、仁がタオルを持ち、興奮して土間を走り回るタロを追いかける…

「なあに?これ…八郎じいちゃん荷物いっぱい…」千恵がリヤカーの中を覗き込む…
「こらこら、触んじゃねえぞ。そら全部じいちゃんの漁の道具だ…いやあ、じいちゃん、舟上げるって言い出してさ…はは…大変だったよ」恭司がそう言いながら手拭いで汗を拭った。
「舟は漁師の命だんべ…」老人は不機嫌そうな表情のまま、一言呟く…


第8章 4日目・下の沢の人々と


一堂に会した住人たちは一様に興奮し、高揚している。

年に1度や2度は必ずこういうことがあるらしい。長閑な集落の生活の中では突発的な大きなイベントなのだ。この長引く雨のお陰で集落の人々の非日常のど真ん中に参加することとなってしまった。私にしてみれば、非日常の中の非日常だ…

送電は止まり電話も通じないが、彼らにとってみれば、それは大した問題ではないようだ。元々孤立した集落なので、外の世界と切り離されたところで、どうということはないのだろう。

川魚の佃煮、煮物と漬物…女性陣が作ってくれた昼食は簡素だが愛情の篭った格別な風味だった…この食事に出会うだけでも雨の中を苦労して下りてきた甲斐があったというものだ。

食事の途中川漁師の八郎さんの「この雨あ嫌な感じだ…山の雲が動いてねえ…まだ降り続くべ…山の上はきっと大雨だ…」との言葉を聞いて、食後念のため各家を回って大事なものや食料をここに運び込んでおこうということになった。


「悪いねえ、お客さんに手伝わせちまってよお!」空のリヤカーを引きながら恭司が大声で話し掛ける…雨が激しくなっていたので、直ぐ傍にいても大声を出さなければ届かないのだ。

「いえっ、少しでもお手伝い出来て良かったですっ!」

恭司、洋次、そして佳代との4人で各家を回る…位牌や手箱や引き出し、野菜の種に備蓄された食材、燃料…雨の中、それぞれの家と涌井家を何度も往き来した。沢の水は恭司たちが思った以上に水かさを増しているようだ。

念のため、川に最も近い八郎の家の畳を屋根裏に上げる。全てを終え、交代で風呂を使わせて貰い、4人が再び涌井家の客間でくつろいだのは、もう夕刻前だった。


室井の山小屋と違い、ここは古い農家だ。機密性が薄いので外の様子が良く分かる。夕餉ゆうげが用意された頃には雨はますます激しさを増している様だった…

一堂に会した住人たちはみな陽気に振舞っているものの、表情に一抹の不安を抱え、会話の途中でも時折外の様子に聞き耳を立てている。状況が次第に深刻になっていることは明らかだ。先程から恭司は短波ラジオを抱えてチューナーとアンテナをあちらこちらに動かしては放送波を探っている…

「やっぱ全然駄目だな…やめた、電池がもったいねえ…」恭司がそう言ってラジオのスイッチを切った。

「相当まずい感じなんですかねえ?」私が尋ねると隣で杯を傾け始めた洋次が答える…
「こん位の雨あ、別に珍しかあねけんど、問題は山だあ。きっと山あ昨日から大雨が続いてんべえ…」
「そうなんですか?…」
「沢あ見りゃあ分かるわ。なあ、じいさん」
「んだで…かさあ増え過ぎだ…」その向こう側に座っていた川漁師の八郎が深刻そうな面持ちで俯いたまま呟いた。その表情を覗くと不安が一気に込み上げてきた…

「大丈夫なんですか?…」
「ほらあ、じいちゃん!お客さん、怖がってんじゃないのお!あはは…結城さん、大丈夫ですよ。このじいさんはねえ、大体いっつもこんな感じなんだから。あんたも脅かすようなこと言うんじゃないよっ。全くもう…はは…」料理を運びながら洋次の妻の咲恵が大らかに笑った。

「まあ、どっちにしたって、今夜のうちは大丈夫ですよ。俺と洋次さんとで、交代で見回りますから…それより、折角訪ねて下さったんだ。こんな田舎で大したものはねえけんど、ま、やって下さい。ほら、洋次さんも自分ばっかり飲んでないでお注ぎしなきゃあ」奥に座った主の恭司が笑顔を浮かべる。

山女魚、かじか、沢蟹、あしたば、木ノ子、枝豆、里芋、空豆、いんげん、きゅうり、ナス…食卓に並べられた料理は、明らかに自然のものばかりで何れも深い味わいだ。周囲と杯を重ねながら、私は夢中で舌鼓を打った。沢の食材について、洋次から話を聞いていて、ふと室井のことを思いだした。

「そうだ、洋次さんも八郎さんも漁をされるんだったら、1年位前まで沢によく釣りに来てた室井さんって御存知ないですか?」
「室井?…この辺りにもルアーの人が時々釣りに上がって来るけど…室井さんて人は知らねえなあ…その室井さんって、お知り合い?」
「ええ。実は…」私は何故自分がこの月夜見にやって来たのか、その経緯について説明した。

「なる程ねえ…神竜様の辺だったら、あすこから沢に下りると、少し下流の方だからなあ…大体そんなとこに小屋が建ってるなんて、コウ先生から聞くまであ、だあれも知らなかったんですよ。いつの間にって…不思議だよなあ…じいちゃん、室井さんて知ってる?」
「知らねえ…」相変わらず無愛想な表情で八郎が呟く…

どうやら室井が付き合ったこの集落の住人はタロだけだったようだ。夕餉は酒宴となり、賑やかに時は過ぎていった。


「ねえ…結城おじさん、ご飯終わったらさ、一緒にトランプしよう?ねえ…」いつの間にか私の横に座った仁にせがまれた。
「ん?ああ、いいよ…」
「本当?やったあ!あたしも一緒にやるっ!」卓の向こう側で千恵が叫んだ。

「仁くん、宿題はやったんでしょうねえ…」千恵の隣から厳しい表情でそう言ったのは佳代だ。
「昼飯のあと、ちゃんとやったよ。なあ、千恵?」
「うん、やったよ。おかあちゃんから言われたんだもんね」
「でもよ、どうせ明日は学校休みだっぺ?」仁は嬉しそうに尋ねた。
「なんで?」
「え?だって…分校使えねえし…」
「何言ってんの?あたしもいるし、教科書もあるし、明日は朝からここでちゃんと授業するわよ」
「嘘!いいじゃんかよお、こんな時だし、折角結城おじさんも来てくれたんだし…大体、明日午後は体育だろ?どうすんだよ…」
「こらっ、仁。お前え、先生になんて口のきき方すんだ!勉強教えて下さるってえんだから、有り難いと思えっ!結城さんだって、手伝って頂いてお疲れなんだ。無理言うなっ」
「はい…」洋次に睨まれると仁は身を縮めた。

「はは…俺は構いませんよ。仁くんと千恵ちゃんと一緒にいると楽しいし…な?」
「すいませんねえ…ここはお客さんなんてめったにないし、嬉しいんですよ、この子たち」そう言ったのは厨房と席をかいがいしく往き来している千恵の母親の昌子だ。


暖かい人たちだ…料理は申し分なく旨かった。心地良い酔いの中で、私は佳代と2人の子供たちと客間の隅に車座に座り、しばし七並べに興じた。時折さえさんや千津さん、咲恵や昌子が交代で加わり、それぞれに歓談を楽しんだ。


2つの和室に敷布団が敷きつめられ、男部屋女部屋に別れ、それぞれに薄掛けと枕代わりの座布団を持って思い思いに床に就いた。千恵と仁はどうしても私と一緒に寝たいと言って、私と康三の間に潜り込んできた。

「結城おじちゃん、お話聞かせて」と千恵がせがんだので、昔読んだ『風の又三郎』の話を聞かせてあげた。やがて二人は満足そうに寝息をたて始めた。

数日前には一人暮らしのアパートで、あれ程孤独感にさいなまれていたのがまるで嘘の様だ。出会ったばかりの人々なのに、まるで何年も生活を共にしてきた隣人のように思える。

よく考えてみると、36年の自分の人生の中に、こういった体験が何故一度もなかったのか…それとも気付かずに見過ごしてしまっていたのか…何故人がわずらわしいと思い込んでいたのか。つくづく不思議に思う。

「結城さんよ、どうだい?天気の方は今一だけど、ここはいい処だろう?こんな風に暮らす人生もあるんだぜ…」隣の寝床から康三が囁いた。
「そうですね…」

誰にも否定出来ない、確かなものがここにはある。目的ばかりを追い求め、それを見出せない自分を責め続けていた自分に気が付いた…大したもんじゃないが、捨てたもんでもない…ようやく階段を1段昇ったような気がした。

変わらず外から聴こえる風雨の音と、仁と千恵の寝息に誘われるように、やがて私も眠りに落ちていった…


第9章 5日目…


恭司が部屋に敷かれた布団を畳む気配で目が覚めた…どうやら私以外は皆起きているようだった。腕時計を見るとまだ6時を過ぎたばかりだった…

「ああ、起しちまったかね?申し訳ねえ…」
「いえ、みなさんもう起きてらっしゃるんですか?」
「あはは…田舎の暮らしは朝が早えからねえ…やっぱ、結城さんお疲れだったんだねえ、良く寝てらしたわあ、子供たちの面倒までみてもらって…千恵も仁もおじさん早く起きないかって、首い長くしてますよ」

「へへ…俺、山歩くことなんてめったにないすから…すいません…」
「そろそろ、朝飯が出来る頃だから、客間の方にどうぞ。ここあ俺が片づけときますんで、どうせ今夜も使うかもしれねえんで…」
「雨の方は大丈夫ですか?」
「いんやあ…おさまんねえなあ…相変わらずだねえ…」
「そうですか…じゃ、俺、顔洗ってきます」
「洗面は炊事場だから…」
「はい…」


土間の炊事場に下りると、タロと子供たちが駆け寄ってきた。

「おじちゃん!お早うっ!昨夜はお話ありがとう!ねえねえ、今晩も続き聞かせてくれる?」千恵は、タロの身体を撫でていた私の腕を掴み、待ちきれない様子で尋ねた。

「ああ、いいよ…」
「あら、良かったわねえ…どんなお話して貰ったの?」炊事場から声を掛けたのは佳代だ。

「えーとねえ…またさぶろう?…」
「風の又三郎だよ」仁が訂正した。
「へえ、宮沢賢治ですね、お好きなんですか?」
「子供の頃、好きで何度も読んだんで…急にお話って言われて…咄嗟に思いついて…」
「良いですよねえ、あのお話、あたしも大好き。良かったね、千恵ちゃん」
「うん、面白いんだよ。どっどどどどうど…って…ああ、早く夜にならないかなあ…早く続きが聞きたいなあ…」

「それにしてもおじさん、寝坊だよねえ。いっつも最後まで起きねえんだもんなあ…」傍らからそう言ったのは仁だ。
「ええ?6時は寝坊なの?都会じゃ6時は早起きの方だよ」
「じゃあ、いっつもみんな何時に寝るの?」
「うーん… 12時とか1時とか…」
「えーっ!何でっ?そんなの変だよ!」
「そうだな…変だな。直さなきゃな…」
「そうだよ。朝は早起きすれば、楽しいことが一杯あるんだから…」
「そうだよな…俺ももっと早寝早起きしなきゃだな…」

「ほらほら、あんたたち、朝ご飯の用意出来たよ。結城さんの邪魔ばっかりしてないで、早く向こうに行きなさい。佳代先生もどうぞ」

3人は咲恵に促されて私を離れた…
「いっちょ、人生考え直すか…」再びタロの首を撫でながら私は一人呟いた…


「おじさん、こっちこっち!」洗面を終え、客間に入ると、千恵と仁が隣に座れと私を招いた。
「なんだかすっかり懐いちまったな。動物や子供はよ、人を見る目があるからなあ…」康三がそう言って目を細めた。

「あんたみたいないい人から逃げた嫁さんっていうのも、一度見てみたいもんだねえ…」そう呟いたのはお菓子名人のさえだ。優しそうな見掛けによらず、言い難いことをさらりと言ってくれる。

「まあ、世の中、人それぞれだからねえ。それより結城さん、当面やることがないんだったら、しばらくここに居てみたらどうだね?ここは都会と違ってなんもねえけど、面白いと思やあ、山にゃ何でも揃ってんからなあ…そういう生活も楽しいもんだよ」そう言って微笑んだのは千恵の祖母の千津だ。

「漁なら俺が教えてやんべ…」八郎がそう呟くと席にいた全員が思わず彼を見て『ほーお…』と驚きの声を上げた。


朝食を終え、洋次が集落と沢の様子を見回りに行くというので同行させて貰った。雨は一向に衰えていなかった。今朝は霧は発生していなかったので、雨で煙ってはいたが、ようやく集落の風景を良く見ることが出来た。

ここは谷にあるちょっとした小さな丘陵だ。我々が泊まっていた涌井家は丘の一番上に建っている。丘陵の周囲は高い山と、深い森に周囲をぐるりと囲まれている。斜面のところどころには畠が開かれ、その合間合間に民家が点在する。民家は全部で10棟ほどもあるだろうか、半数以上は使われていないということだ。

昨夜の風雨で被害が出ていないか、それぞれの家を見回りながら丘陵を少しずつ下ってゆく…さえの家の周囲を確認し終え、いよいよ沢に一番近い八郎の家に移動しようとした時だった。突然遥か彼方からドシンという重い地響きが聞こえた。

「くそう…遂に始まりやがったな…」
「何ですか?あれ…」
「地崩れだ…多分下の方だべ。あっちこっちに植林があるからよ、町の連中があっちこっち木い切っちまいやがって…植林の斜面はよ雨に弱えんだ。近頃あすぐに崩れやがる…」
「大丈夫ですかね?」
「まあ、沢あ見りゃ分かるさ。見に行ってみんべえ」


沢の流れは相当に水かさを増し、激流に近い状態で、既に八郎の家のすぐそばにまで川幅を広げている。洋次は厳しい眼差しでその流れをしばし見つめていた。

「…こりゃあ少しまずいかも知れねえ…」
「そうなんですか?…」普段の情景を知らない私には、何がどうまずいのか良く分からない。
「ああ、この勢いはまずい。これで流れに岩や木が混じり始めたら、沢の周りは全部危ねえ…」
「沢の周りっていうと…八郎さんの家ですか?」
「いや、村のどこにいても危ねえってことだ…逃げる準備だけでもしとかなきゃあよう…」

洋次と私は急ぎ涌井家に戻った。


佳代と子供たちは奥の間で授業中の様だ。洋次は戻ると直ぐに他の大人たちを集め、状況を報告した。

「後でもう一度様子を見に行ってみるにしてもよ、逃げる算段はしといた方がよかっぺえ」恭司が言う。
「でもよ、下の村行くにゃあ沢沿いの道だベ?何処に逃げる?千津さんどう思うかね?」そう尋ねたのは咲恵だ。
「そりゃあ、山だ。古い森に逃げりゃあええ。植林の近くは危ねえぞ」
「恭司、洋次、お前えらもう様子なんぞ見に行かなくていい。沢にゃあ一切近付くんじゃねえ。俺の家や舟なんぞ忘れていい…ここも危ねえ。直ぐに逃げる準備しろ。子供たちにも早く知らせろ!」そう言っ切ったのは八郎だ。どうやら経験豊富な年寄りたちの意見は、恭司や洋次よりもずっと深刻だった。

「あのお…」私は恐る恐る割って入った。
「何だね?結城さん…」
「もし上の方に避難されるんでしたら、うちの山小屋はどうですかね?ま、俺のじゃないんですけど、好きに使ってていいって言われてますんで…いや、危なくなければなんですけど…」
「確か、神竜様んとこって言ってたねえ…」
「はい。神竜池からちょっと下りたとこです」
「そりゃあ、いいかも知れねえ。なんせあの辺は岩盤が強えし、森は深えし、まず周りが崩れるってえこたあねえだろう…少なくとも此処よりゃあずっと安全だあ。ただし、登り口までは沢沿いだ。行くんだったら早く出た方がええぞ」千津が冷静な眼差しできっぱり言った。

「よしっ、決まりだ!じゃあ急いで準備すっぺ」恭司がそう切り出すと、皆が一斉に動き始めた。


食材、着替え、貴重品…取り敢えず必要なものはリュックに詰められ、千津、千恵、さえ以外が背負うこととなる。重いもの、かさの大きなものは花子の背中にくくり付けられる…

子供たちは授業が中断された嬉しさと、集落に水が押し寄せるかも知れないという不安の狭間で興奮していた。女性陣は手早く米を炊き、大量の握り飯と漬物を用意した。

全ての準備が整い、全員雨具を着込んで集落を出発したのは10時過ぎだった…先頭はタロと仁だ。その後を恭司と花子、そして我々が続く…


一度集落を下って沢沿いの道を下流に向かう…沢の勢いはごうごうと凄まじい。時折川底の巨大な岩がごろごろと転がっている様子が水面からも見える。昨日集落に来た時と比べると、明らかに沢の激流は道に迫っている…

特に沢がカーブを描く箇所では道脇が大きくえぐられている。千津に言われた通り、とにかく速やかに山への上り口に到達することに専念した。

沢沿いの道から20分ほど掛かって、ようやく山道への分岐に辿り着いた…

「よーしっ!とっとと上に登るぞっ!なるべく急いで登るからな。皆がんばってくれよお」恭司が大きな声で皆に号令をかける。それもその筈だ…雨がさらに激しくなってきた。沢の流れはもう既に道を呑み込みそうな勢いとなっていたのだ。

そこからおよそ30分…大人も子供も年寄りも、全員が一丸となり、まるで泥の小川のような山道をひたすら登り続けた。ようやく少し歩き易そうな道らしい道に出た。そこから10分ほど斜面を回り込むように道を進むと、沢を見下ろすことの出来る開けた場所に出た。

「よーしっ、皆あ、この辺で少し休むべえ!」恭司が再び叫ぶ。

道脇の僅かな開けた場所に荷物を置く。昌子と咲恵が早速花子の背中から茶碗とポットを取り出し、皆にお茶を配った。

「ここまで登りゃあ、もう大丈夫だろうよ」千津のその言葉に皆が一安心したその時だった…

『ズゴゴゴゴゴ……ドドドドド……』聞いた事のない不気味な音が沢の谷に轟き渡り始めた…その音は確実にこちらに近付いている様だった…全員が茶碗を片手に固唾を呑んで沢を見下ろす…
「うおんっ!うおんうおんっ!」タロが沢に向かって吠え続ける…

やがてその不気味な音は轟音となって、タロの声も掻き消してしまった…

恐ろしい光景だった…大量の泥水が岩と木々を巻き込み、一瞬にして沢全体を呑み込んだ。周囲の森の木々がなぎ倒されてゆく…泥流の渦の中に家の上まで引き上げてあった八郎の舟が一瞬見え隠れした…我々が歩いてきた沢沿いの道はあっという間に激流の底だ…我々は…あそこを歩いていたのだ…もう30分出発が遅かったら…そして、もしあのまま集落に留まっていたとしたら…間違いなく我々はあの激流に巻き込まれていたのだ…


一体皆はどの位の時間、谷底を凝視し続けていたのだろう…気が付くと沢に押し寄せた泥流の轟音は、ごうごうと流れる継続した水流の音に治まっていた。

「あれじゃあ、あたしらの村も、ひとたまりもなかろうのう…」そう言ったのは千津さんだ。

他の誰も口を開こうとしなかった。
「取り敢えず、結城さんとこに急ぐベえ…」恭司の言葉を受けて我々は再び山道を登り始めた。


第10章 5日目・山小屋


重い道のりだった…皆雨でぬかるんだ道をひたすら歩き続けた…
途中幾度も休憩を取り、握り飯の昼食も摂ったが、
一団の気分は沈んだままだった…

「とにかくよ、みんな無事で良かったじゃねえか。くよくよしたって始まんねえよ。取り敢えず結城さんのとこに行きゃあ雨風もしのげるし…不幸中の幸いってなあこのことだぜ。そのうち役場と掛け合って住むとこくれえ何とかして貰うから心配すんな。まあ、何とかなるってもんよ」
康三がそう言うと仁が歩きながらそれに続いた…
「そうだよ。父さんだって大工得意なんだからさ、家くらいまた建てりゃあいいんじゃない。今度はさ、さえばあちゃんもコウ先生も、八郎じいちゃんもみんなで住める大きい家にしようよ。みんなで一緒に住んだら楽しいよお。結城おじさんだって一緒に住めるよお」
「あはは…そりゃあいいねえ。あたしも旨い菓子沢山つくらなきゃだねえ…」さえも笑顔を浮かべる。
「まあなあ、みんな一緒なら、きっと何とでもなんだろう。それに、一緒なら何やったって面白えべ」洋次も加わる。
「奪うのが山なら、恵むのも山じゃ。山で生きるっちゅうことは、そういうことじゃ。なあ、八郎さん?…」千津が八郎に同意を促す。
「その通り…待ってりゃすぐに、沢も元に戻るべえ…」


山小屋に辿り着く頃には皆少しいつもの陽気さを取り戻した様だった…雨も小降りになり始めていた…

「ほら、ここだよ。結城おじさんの家」先頭の仁がそう言って皆に室井の山小屋を指し示した。

「だから…俺の家じゃないって、言っただろう…はは…」
「へえ…こりゃあ小屋なんかじゃねえぞ…立派な家だあ…」恭司が呟く…
「いや、持ち主が山小屋だって言い張るんで…」鍵を外し扉を開放する…

「どうぞ、入って下さい。濡れた荷物は取り敢えず土間の方に…上がって奥が部屋ですから…俺、水とプロパンの準備してきますから…」
「俺、花子繋いでくる…父さん、花子の餌、積んできた?」
「おう、背中に一袋積んである。どれ、花子の荷物も下ろしてやんべ…」


風呂の準備をして、居間に行くと、彼らはそれぞれに居場所を確保してくつろいでいた。テラスへの雨戸は開けられていた。キリはベンチに座ったさえの膝に乗り、心地良さそうな表情で身体を撫でる手に身を任せていた。

咲恵と昌子は既に炊事場でお茶の支度をしている。子供たちは佳代と一緒にロフトに上がっている。千津はさえと一緒にベンチに、康三はテーブルの椅子に座って外の様子を眺めている。恭司は床の上にあぐらをかいている。八郎と洋次とタロはどうやら土間にいるようだ。大人10人、子供2人の大人数を抱えると、この小屋もほぼ満員状態だ。

「すいませんねえ…狭くて…って、借りてるだけの俺が言うのもなんなんですけど…もう少ししたら風呂も沸きますから…」
「いやあ、助かりましたよ。ここに居させて貰えりゃ、もう御の字ですよ」恭司が満足そうに笑顔を浮かべる。

「ほらほら。お茶が入りましたよ。さえさんの葛餅も…結城さん、急須とお皿と勝手に使わせて貰ってますよ」咲恵と昌子がお茶と葛餅をテーブルとサイドテーブルに運ぶ…
「ここにあるものは何でも好きに使ってくれって言われてますから…あ、俺、八郎さんと洋次さん呼んできますね」そう言って土間に向かった。


土間では洋次が運んできた荷物を選分け、棚の前や上がり口の脇に整理していた。
「結城さん、ここは酒も食いもんも沢山あんだねえ…あ、花子は取り敢えずそこの椎の木の下に繋いだからよ…」
「花子、入れてあげられなくて可愛そうですね…」
「ま、あいつは慣れてるからな。もう大分小降りになってきたしよ…」
「あ、咲恵さんがお茶入ったから、どうぞって…」
「そうか…じゃ、ひと息入れるとすっぺ。おい、じいさん…」

八郎は道具棚の前の椅子に座り、真剣な面持ちで室井の釣り竿を手に取って眺めていた。
「おい、ここの釣具はあんたのかい?」
「いえ、ほら、昨夜話した室井って人のですよ」
「こらあええ竿だ…擬似餌もリールも全部揃ってらあ…手入れも行き届いて…その人あただもんじゃあねえぞ…」

「そうなんですか…俺、釣りのことはさっぱり分かんないんで…室井さん、竿は自分で作るって言ってましたよ」
「どれも技もんだあ…大えしたもんだ…」
「八郎さんは、道具置いて来ちゃったんですか?」
投網とあみと仕掛けだけは多少な…竿は置いてきちまった…」
「室井さん、ここにあるものは何でも好きに使ってくれって言ってましたから、暫く使ってていいんじゃないですかね。もう1年以上ここにも来てないみたいだし…」
「そうかい…そらあ有り難えなあ…」八郎はそう言いながら愛おしそうに竿を構えた…


交代で風呂を使い、全員が集まって食事が出来るように、テーブルや椅子の配置代えを終えた日没前、ようやく雨が上がった。皆自分の僅かな私物や着替えを整理し、それぞれにくつろげる場所を確保して、この山小屋の空間にすっかり馴染んできた様子だった。

佳代はロフトで子供たちに勉強の続きを教えているようだ。八郎は土間で持ち込んだ漁の道具の手入れに没頭している。私は昌子と咲恵とさえが夕食の支度をしている間、康三と共にテラスに出て煙草を吸いながら、花子の世話をする恭司と洋次相手に談笑を交わしていた。

この3日間の豪雨が嘘のように空は高く、朱と青のグラデーションに染まった薄雲と長閑な時間が流れる…ここまでの慌ただしい避難はまるで夢の中の出来事の様だ…


食卓の上に酒と肴が用意された。私を含め男連中が酒を交わし始めると、女性陣や子供たちが一人また一人と食卓に参加し始める…あれ程のことがあったにも関わらず、食卓は昨夜ゆうべと変わらず陽気で賑やかだ…家財産、そして故郷ふるさとを一瞬にして失ってしまったばかりの人たちとはとても思えない…

そもそも一人自然の中でゆっくりと人生を見つめ直そうと、ここ月夜見にやってきた筈なのに、あっという間に私の周囲は人で一杯になってしまった…しかし、この数日の間に、私の心の中で何かが大きく変化した。八方塞がりだった人生の中に、様々な歓びや無限の先行きと広がりが秘められていることに気が付いたのだ…


「こんばんわあ!結城ちゃーんっ!」突然玄関に男の声が響いた…
「おじちゃん、誰か来たみたいだよ?」隣から仁が私の顔を見上げた。
「え?誰だろ?…」慌てて玄関に赴く…


「良かったあ…無事だったんだなあ…」雨具を脇に抱え、満面の笑顔で土間に立っていたのは、室井だった。
「室井さん…」
「いやあ、驚いたぜ。結城ちゃんに会おうと思って来たらさあ、月夜見は大雨で、山に入んのは危ないって言われちゃって…で、俺、少し小降りになるの待って登って来たんだよ…いや、良かった良かった!…でも…何だか随分人がいるみたいだねえ?」室井は興味深そうに中の様子を覗き込んだ。

「いや、実は大変だったんです。まあとにかく上がって下さい。中で説明しますから…」
「そお?いいの?」
「いいも悪いもここ、室井さんでしょ?」
「はは…そりゃそうだわ…」


居間で室井を全員に紹介し、1人1人を室井に紹介しながら下の沢での出来事を説明した…

「いやあ、そりゃあ皆さん大変でしたねえ…」
「申し訳ねえっす。勝手にここ使わせて貰って…」洋次が頭を下げる。
「いや、いいんですよ。この小屋もお役に立って良かったですよ。どうせ今は誰も使ってませんから…ああ、良かったら、落ち着くまで暫くここ使って頂いて結構ですから」

「室井さんは?ここ、使わないんですか?」
「俺はちょっと…いろいろあって…今回は結城ちゃんがここに居るっていうからさあ、頑張って来てみた訳よ。明日にはもう戻んなきゃだしな…」
「そう言って頂けると助かりますよ。俺達ゃ暫くは行き場がねえしなあ…いや本当に、助かります」今度は康三が頭を下げる。
「もし結城さんと知り合ってなかったら、今頃は山ん中で野宿ですからねえ…まあ、室井さん、どうぞ召し上がって下さい。山のもんばっかりですけど…」咲恵が勧める。

「いやあ、実はずっと歩いてきたんで腹減ってたんすよ。玄関とこから、ああ、何だか旨そうな匂いだなあ…って…へへ…遠慮なく頂きます」


室井は直ぐに皆と打ち解けた様子だった。食事の後は八郎と土間に行って釣り道具の話に花を咲かせていた。

食卓の片づけが終わると、サイドテーブルとベンチを部屋の端に移動し、ロフトと居間にありったけの布団や毛布を敷きつめて全員の就寝場所を確保した。酒席はテラス前のテーブルだけになった。

千津とさえはさすがに疲れたのだろう、早々に就寝し、咲恵と洋次、昌子と恭司も就寝の支度を始めている。佳代と子供たちもロフトに上がっていった。私は約束通り子供たちに『風の又三郎』の続きを話して聞かせた…

「…こうして、高田三郎は学校から居なくなったんだ。学校の窓が風でがたがたと音を立てるのを聞いて、嘉助と一郎は、三郎は間違いなく又三郎だったと分かった…おしまい」
「…それでおしまい?…」仁が私の顔を覗き込んだ。

「そう、これでおしまいだ…」
「三郎は、やっぱり風の又三郎だったんだね…面白かったあ…どっどどどどうどどどうどどどう…青いくるみも吹きとばせ」千恵が呟くと仁も後に続いた…
「すっぱいかりんも吹きとばせ…どっどどどどうどどどうどどどう…」

「さあ、じゃあ2人とももう寝なさい。結城さんにお礼を言うのよ」佳代にそう促されると2人は私の顔を見た。
「結城おじさん、ありがとう」
「おじちゃん、ありがとう。おやすみなさい…」
「はい。じゃあな…」

私と佳代はロフトを下り、階段の一番下に並んで座った。
「ありがとう御座います。子供たち楽しそうだったわ。結城さんてお話上手ですねえ…あたしも聞いてて面白かったわ…」
「言葉を紡ぐのが仕事だったからかな…俺も楽しかったです。子供なんて苦手だと思ってたんですけど…そうじゃなかったなあ…まあ、佳代さんも今日は大変でしたね…」
「ええ…結城さんこそ…ねえ、結城さん?」
「なんですか?」
「もし東京に帰っても、また、会えますよね?また戻ってきてくれますよね?」
「ええ。俺、みなさんと知り合えて本当に良かったです。もし帰っても、絶対に戻ってきます…今は、そう思ってます…」
「絶対ですよ。約束ですからね」佳代はそう言って優しく微笑んだ。
「はい。約束します…」


佳代は再びロフトに戻った。居間の奥のテーブルではまだ康三と室井が杯を酌み交わしていた。

「子供たちゃ寝たかい?」康三が訊く。
「ええ…ようやく…佳代先生も休みました。あれ?八郎さんも休まれたんですか?」
「ああ、さっきまで飲んでたけどな」

「結城ちゃん、溶け込んでるねえ…まるで家族みたいじゃない。あんなに悩んでたのに、人格が変わっちゃったみたいだねえ」室井は膝の上で微睡むキリをそっと撫でながら、にこやかに語りかけた。
「いやあ、ここに来てから何だか毎日いろんなことがあって…あたふたしてるうちにだんだん気持ちが落ち着いてきたんですよ」
「ま、良かったじゃねえか。あんたは元々そんな人なんだよ」
「じゃあ、結果的にはここに来て良かったってことじゃない?」室井がそう言って微笑む…

「室井さん…室井さんには感謝してます…いろいろあったけど、ここに来て、色んな意味で本当に良かったです…あれ?…何だか変だな…」大して酒も飲んでいないのに、急にめまいが始まった…連日の出来事で疲れが出たのだろうか…

「俺もよ、村のみんなもよ、結城さんに会えて本当に楽しかったぜ。確か最初にあった時は、人生の意味を探してるとか何とか言ってたよな?どうだい?あいつ等と一緒にいたらよ、そんなこたあどうでもいいって、少しゃ分かってくれたら俺も嬉しいけどよ…」
「はい…あの…康三さん……俺……」

それ以上は言葉が出て来なかった。視野が少しずつ狭くなってゆく…
身体から力が抜けていく…

私はかろうじてテーブルにつかまり、椅子に座った自分の身体を支える…
しかし、それも長くは持たなかった…
室井も康三も何故か私に微笑みかけていた。

私が気を失う直前に康三がこう言ったのを微かに覚えている…
「あとのことを頼むぜ…」


最終章 そして…


白い部屋だ…天井も壁も白い、木造の小さな洋室だ…ここはどこだろう……

頭が重い…今まで経験したことのない気怠さが身体を寝床に縛り付けている…目は覚めたものの指1本動かす気力が起きないのだ…じっと上を見つめたまま視野の細部を確認する…誰かが私の傍にいるようだ…気配がする…人が動く物音がする…


「結城さん?結城さん、気が付いたかね?」そう言いながら1人の女性が視野の中に飛び込み、正面から私を見下ろしている…

どこかで見た顔だ…誰だったか?………そうだ…おかみだ…檜原村の『あけぼの屋』のおかみだ…確か…秋山さん……私はいつ山を下りたのだろうか?…何故彼女がここにいるのだ?…私は気力を振り絞り、ようやく口を開いた…

「あの…ここ…何処…ですか?……」
「ああ…気が付いたんだねっ!ここはね、檜原の病院だよっ!ちょっと待ってな、先生呼んで来るから…」

「びょう…いん?…」何故俺が病院?…どこかに病気があったのか?…康三たちに運ばれたのか?…彼らは何処にいるのか?…室井は?…康三は?…


ドアが開く音が聞こえた…50過ぎ位だろうか、大柄で恰幅のいい白衣の医師が私を覗き込む…

「結城さーん、気が付かれましたかあ?気分は如何ですかあ?」

「頭が…凄く重いです…」

私の表情を近くから凝視していた医者は、ペンライトで私の眼球を照らし、少しほっとした表情を浮かべた。

「大丈夫のようですね。結城さん、睡眠導入剤を過剰摂取されたようですが、何度も続けてお飲みになりました?結構強い薬ですから、昏睡しちゃったんです。丸2日以上眠り続けてたんですよ。まあ一過性の中毒症状ですから、命に関わるとかそういうことはないんですけど…ああいうものは常用しない方がいいですよ。もっと弱い薬に変えるとか、減薬するとか、した方がいいですねえ。ま、今日はここでゆっくり点滴受けて、明日また診察しましょう。様子が良ければ帰られて大丈夫ですから…ね、分かりましたか?」
「はい…お手数掛けて…すみません…」
「はい、じゃあお大事に…」

どういうことだ?…一体何が起きたのだ?…


「結城さん…、あんた本当に驚かせてくれるねえ。あたしゃ肝冷したよ…」

呆然とする私に『あけぼの屋』のおかみ秋山さんが話し始めた…

それは、私が室井の山小屋に向かった2日後のことだった。

店のレジ周りの整理をしていると、以前貰った室井の名刺を見付けた。主人に見せると、友人の私が立ち寄ったことを知らせようということになり、電話を掛けてみた。

電話に出たのは室井の妻だった。果たして…室井は1年前に亡くなっていた…原因はどうやら癌だったらしい…

秋山夫妻は、持ち主のいない辺ぴな山小屋に向かった私は、もしかすると自殺志願者なのではないかと疑った。一晩迷ったものの、どうしても気になった夫妻は、翌朝雨天の中、2人で山を登り、私が説明した場所を目指した。

そして到着した山小屋で、一人床に倒れている私を発見したのだ。主人が急ぎ山を下り救急隊員を呼ぶ間、おかみは懸命に私を介抱したが、目覚める様子は全くなかったと言う。

私は担架で都道に待機していた救急車まで運ばれ、そしてこの病院に運ばれたのだ。

それからも私は昏睡を続けた…実はもし昏睡がこれ以上続く場合は、設備の整った大病院に移される予定だったらしい。


おかみはずっと付き添ってくれた。小一時間経つと次第に意識もはっきりし、身体を動かすことも出来るようになった。

「あの…本当に、俺以外は誰も居ませんでした?」
「あんただけだよ。あんなとこで他に一体誰がいるっていうのよ?」
「じゃあ、犬とか猫とかは?…」
「いや、見なかったねえ…」

「下の沢に集落がありますよね?」
「前にも話したけどさ、あの辺にゃ集落はないよ…っていうか、住んでる人は1人もいない筈だけどねえ…あんた、誰かに会ったのかい?」
「ええ…川添さんっていう老人の方なんですけど…昔、医者だったって…」
「川添?…何だか聞いた事があるねえ…うーん…思い出せないわ…ま、今日帰ったら旦那に訊いてみるよ。それより、あんた…本当に自殺しようとしたんじゃないんだよね」
「ええ…薬飲んだ記憶もないんです…」

「そんならいいけどさあ…自殺なんてする奴あ馬鹿なんだからね。うつ病だか何だか知らないけどさ、親から貰った命は大切にしとくれよ。それとあんた…なんでムロさんから電話があったなんて言ったんだい?」
「いや、それは本当にあったんですよ。あれは確かに室井さんの声でした。それにあの電話がなきゃ俺、ここに来てないし、こんなとこに山小屋持ってるなんて知らなかったし…そうだ、鍵の開け方まで教えてくれたんですよ」
「おお嫌だ、気味悪いよお…まさかあんた、あそこにムロさんが来たなんて言わないでおくれよ。あ、そうだ、あんたが持ってたリュック、周りにあったもん適当に詰めてここに預けといたからね。もし明日退院出来たら、必ず店の方に顔出すんだよ。旦那も心配してるからさ…」

「はい…分かりました…ありがとう御座います…」


おかみが帰ったのは病院食が配られる夕刻だった。

配膳された病院食はあの月夜見の集落で食べた夕餉とは比べものにならない程味気なかった…

食後は点滴のスタンドを転がしながら、トイレに行ったり病院の中を見て回った。多少の病床を備えた診療所といった規模の小さい、古い病院だった。病棟の受付で、預けていたリュックを受け取り病室に戻った。

リュックのポケットから何となく携帯電話を取り出す。バッテリーの残量は申し分なかったが、連絡するべき相手は誰もいなかった…

月夜見では取り出すことのなかった携帯電話。せめて皆の写真でも撮っていれば…後悔したが、もう後の祭りだ…

消灯時間を迎え、暗くなった病室の白い天井を見つめながら、この数日間私が体験した数々の出来事や私が出会った人々、それと実際に私の身に起きた事とのギャップをどう埋めたらいいのか、どう結論付けたらいいのか、思いを巡らせたが、結局納得出来る答えは何も見出せないまま、いつの間にか眠りに落ちたようだ。


翌朝、自分でも驚くほど爽快に目覚めた。

朝6時の検温が終わると、点滴が外され、さらに自由の身となった。パンとサラダと卵と牛乳の朝食を済ませると、一般外来が始まる前に一階の診察室に呼ばれた。部屋に入ると昨日の医師が待っていた。

「ほう…大分顔色が良くなりましたね。気分は如何ですか?」
「お陰様で、気分はいいです…」
「頭痛や頭が重い感じや吐き気はありますか?」
「いえ…全く」
「食欲は?倦怠感はありませんか?」
「食欲はあります。倦怠感もありません」
「目がかすむことやふらつくこともありませんね」
「はい、全く…」
「はは…どうやら大丈夫なようですね。で、どうしますか?減薬はしますか?」
「ええ、今のところ気分もいいですし、暫く薬の服用はやめようかと思って…」
「ほう…まあそれもいいかも知れませんね。ただまた生活に支障をきたすようなら、直ぐに病院で相談して下さいね。あまり無理しないように、いいですね?」
「はい、分かりました」

「じゃあ、一応念のため、身体の方も診ておきましょう。上着を上げて、ちょっと後を向いて頂けますか?」
「はい…」背中にあてられる聴診器の感触を感じながら、ふとドアの横の壁に掛けられた額に目がいった…額の中は1枚の大判の集合写真だった…それを見て、私の目は釘付けになった…

その写真は、あの月夜見の下の沢集落、涌井家の前で撮られた写真だった。何人かの見た事のない人物に混じって、そこに笑顔で写っていたのは、恭司、昌子、千津、洋次、咲恵…そして最前列には仁と千恵を両脇に従えた康三、その横にいるのは佳代だ…佳代の足元にはタロがいつものように行儀良く座っている…後方には牛の花子も見える…

「どうしました?前を向いて下さい。胸も診ますから…」
「あの…」
「あ、すこし喋らないで下さいね。今聴診器あててますから……はい、いいでしょう」

「あの…そこの写真ですけど…川添…康三さん、ですよねえ?」
「え?川添先生御存知なんですか?」
「ええ…少し…これ、月夜見沢の集落ですよねえ…」
「ええ、川添先生が引退後暮らされていたところです。月夜見の最後の集落でした。先生、ここがえらく気に入っててねえ…ほら、左端に立ってるの私ですよ。先生に言われて暫くへき地診療してましたから。この時と比べると、大分太っちゃいましたけど…はは…あの頃はよく歩いてたからなあ…しかしねえ…まあ5年前にあんなことがなきゃあ、先生まだお元気でいらっしゃったかもしれませんねえ…」

「え?5年前に何かあったんですか?」
「あれ?御存知ないんですか?…5年前の大雨で、沢で山津波があって…あっという間だったらしいですわ…集落ごと呑み込まれて…」

「……亡くなったんですか?…」
「御存知なかったんですか…亡くなりました。集落は全滅です…」
「住人の方全員ですか?…」
「いや…確か…2人だけ、奇跡的に助かった方がいたって…ちょっとうろ覚えですけど…そうですか…川添先生を御存知なんですか…いやあ懐かしいなあ。先生はね、私の師匠なんですよ。若い頃はいろんなこと教えて頂きました。今でも時々会いたくなるんですよ。でね、この写真飾ってるんです。ほら、患者さんの後から先生に見張られている感じでしょ?いい加減な診察したら怒られちゃいそうで…ね?」医師は懐かしそうに写真を差し示した…


退院手続きをして会計を終わらせると、真っ先に『あけぼの屋』に向かった。

秋山夫妻は無事に退院した私を暖かく迎えてくれた。店は平日の午前中ということもあり、暇そうだった。私は夫妻にこの数日、月夜見で私が誰と出会い、どんな不思議な体験をしたのか、詳細に話して聞かせた。もちろん病院の診察室で見た写真のこと、最後の晩に死んだ室井が訪ねてきたこと、そして自分の心境がどう変化したのかについても話した。

夫妻はとても驚いた様子だった。5年前の沢の災害のことも良く覚えていた。主人は診療所にいた頃の川添康三の存在も覚えていたし、室井との付き合いもあったので、信じざるを得ない様子だった。

「で?あんた、これからどうするつもりだい?」
「まず、室井さんの奥さんを訪ねようと思ってます。出来ればあの山小屋譲って貰おうかと思ってるんです。きっと室井さんも、そうして欲しいんじゃないかなって思えて…」

「じゃあ、こっちに住むつもりなんかい?」
「ええ…出来れば…いずれにしろ室井さん訪ねたら、東京のアパート引き払ってこっちに戻ってきますから…その先はここでゆっくり考えようと思って…それでですね、お世話になったついでにお願いしたいことがあるんですけど…」
「なんだい?どうせ乗り掛かった舟だべ。出来ることなら何でも協力すっぺ」主人が言った。

「5年前、山津波で全滅した集落で、2人だけ助かった人がいるらしいんです。その人たちが誰なのか、今何処にいるのか調べて欲しいんですけど…出来る範囲でいいんで…」
「そりゃあ、そんなに難しい事じゃねえ。役場の連中に訊きゃあすぐに分かんべえ」
「お願いします。俺、なるべく早く戻ってきますんで。どうしてもその人たちに会わなきゃいけないような気がするんです…」
「そう…分かったよ。ねえ、結城さん、これから帰んだろ?帰る前にうちの飯食ってきなよ。どうせ病院の飯ゃ不味かったべ?」
「はい、じゃ、ラーメン開化丼セットで…」
「おいよっ!結城さん、あんた、何か雰囲気が変わったねえ…」


再び檜原村に戻ったのは10日後だった。東京のアパートにはさしたる荷物もなかったので、殆どの物は売り払い、廃棄した。目ぼしい物は小包にして秋山夫妻の元に送り、アパートは解約した。村に向かうバスの中で室井の家族に会った日のことを思い出していた…


世田谷の住宅地に建つ低層マンションの一室だった。室井の家族とは初対面だったが、奥さんは室井から私の話をよく聞かされていたようで、歓待してくれた。

11歳の息子との2人暮らしだった。彼女にとっては、多分突拍子もないことと思うだろうが、とにかく室井の山小屋を訪問した経緯や、そこで経験したこと、そして最後の日に室井本人とも会ったことを正直に話した。

ただ単なる妄想や幻覚というだけでは説明出来ない数々の不思議についても付け加えると、彼女は黙って室井の仏壇の引き出しから何枚かの写真を出してきて、その内の1枚を私に見せた。

「最初の日に山小屋に来たキリっていう猫…この子ですよね?」

写真には痩せ細った室井がにこやかにこの部屋のソファに座っている姿が写っていた。その膝の上にいるのは…間違いなく同じ首輪をしたキリだった…

「ええ…この猫です。黄色い皮の首輪に片仮名でキリって書いてありました…」
「これ、主人の最期の写真なんです。この翌日には病状が悪くなって…再入院して…それからはあっという間でした…キリは、主人の四十九日の日に姿を消してしまったんです。きっと山に会いに行ったのね…あたし、室井が結城さんを山に呼んだんだと思います。あの人、よく言ってましたから。一度結城ちゃんを山に連れて行きてえなあ…って…あたしはああいうとこ全然駄目ですから…ふふ…実はね、あたし、お会いしたことはなかったけど、結城さんにちょっと嫉妬してたんですよ。あの人、いっつも、結城ちゃんどうしてるかなあ…ちゃんとやってるかなあ…ってあんまり言うもんだから…」

私が山小屋を買い取りたいと申し出ると、彼女はすんなり了解してくれた。どうせ売ろうにも売れない場所なので、名義の書き換えをしてくれるのであれば対価はいらないと言われた。その代わり、父親と何度か行ったことのある息子がもし行きたがったら、迎えてあげて欲しいと依頼された。


今日はバスの乗客が多い…多分天気の良い土曜日だからだろう…バス停で降り、『あけぼの屋』に向かうと、店の前におかみが立って、こちらに手を振っていた。到着の時刻を知らせておいたからだろう…

「結城さーんっ!よく戻って来たねえ…お客さんがお待ち兼ねだよ」
「え?お客さん?」
「まあまあ、入って入って」おかみが店の引き戸を開く…のれんを潜って店内に入る…

「ほらっ、結城さん来たよっ!」一緒に入ったおかみが声を掛けると、奥のテーブルで主と対面していた2人の女性が振り返った。
「結城さん…」
「結城おじちゃん…ほら、結城おじちゃん、本当にいたよっ」

2人は、5年後の佳代と千恵だった…

「結城さんから探してくれって頼まれた2人だ。直ぐ分かったぜ。檜原に住んでたからな。でもよ、驚いたぜ…2人ともあんたのことよく知ってるって言うからよ…」
「千恵ちゃん…大きくなったねえ…そうか、お父さん似だね。恭司さん大きかったもんなあ…」千恵はもう中学生だった。顔立ちはあのままだったが、背丈はもう隣の佳代と殆ど変わりがなかった。

「結城さんは、全然変わってないわあ…」そう言ったのは佳代だ。佳代も変わらず若々しかったが、30を超えた女性らしい落ち着きを見せていた。私が変わらないのは当たり前だ。彼女たちと会ったのは、ほんの2週間前のことなのだから…

「あたしたち、結城さんはあの時亡くなったんだと思ってたの。でも…誰に話してもそんな人が山に入った形跡はないって…」
「山小屋にも行ってみたんだよ」千恵が言う…
「そう…でも、山小屋はまだ工事中で、誰も住んでないって…持ち主も室井さんっていう人じゃなかったし…一体あたし達が行った山小屋は何だったんだろう…結城さんって誰だったんだろうって…でも、良かった…生きてらっしゃったんですね…」


沢を襲った5年前の山津波…私が見たのはその光景だった…私と沢の人々は5年間の時を超えて出会っていたのだ…生き残った佳代は千恵を引き取り、今も檜原の小学校で教員を続けている。彼女たちにとっては5年ぶりの再会、私にとっては2週間ぶりの再会だった…


1年が経った…月夜見に再び夏が訪れた。

私はあれから室井の山小屋を住処すみかと決めた。

週に2度ほどは檜原に下りて、代理店や出版社に連絡し、ネットで原稿を送る…いわゆる田舎暮らしのフリーライターだ。会社に勤めていた頃よりは収入は減ってしまったが、あまり現金を使うこともないので問題ない。

小屋の周囲には小さな畠も開いたし、頑張って室井の竿での渓流釣りも何とか身に付けた…キリとタロは相変わらず山小屋にいる。2匹が亡霊なのか実体なのか…今となってはもうどうでもいいことだ。そして今や佳代と千恵は私の家族だ。学校が休みの時にはここで3人の時を過ごしている…


今日から夏休みだ…朝の内に到着した佳代と千恵は、留守の間に私とキリとタロが散らかした山小屋の掃除に余念がない…私はその間テラスで一服だ…足元でタロが微睡み始めている…

千恵がテラスに出てきて、空を見上げた…

「大分曇ってきたねえ…」
「ああ…風も出てきたなあ…」
「あの時みたいだね…あ、ほら、あっちの山の上、雨が降ってる…」
「ここもそのうち降り始めそうだな…」

その時、一陣の強い風が吹き抜け、周囲の木々をザワザワと大きく揺らした。タロが耳を立てて周囲を見回す…千恵が森に向かって声を上げた…

「どっどどどどうどどどうどどどう…青いクルミも吹きとばせ……」

                                  [了]





この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?