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大矢のカンガルー 3

第3章 正治とクマさん


「おはようっす…」
「あら、おはよう。前山くんちゃんと来たじゃない」
「こら、クマ。お前え、朝一に来いって言っといただろう」
「だから、朝一にきましたよ」前山はニコリともしない。

「馬鹿野郎、朝一ってのは10時までに来いってことだよ!川村はちゃんと朝までに企画書書き上げてんだぞ」
「え?本当すか?早えな…おいっ、川村っ、俺にも企画書見せて」
「ちょい待って下さい。今コピー作ってますから…」
「第一よ、お前え、その格好は何だよ。今日は代理店とも会うんだぞ」
ハーフコートを脱いだ前山の格好は、ジーパンに紺のトレーナー、胸には真黄色のトゥウィーティーが描かれている。

「え、これじゃ駄目っすか?一応きれいなの着て来たんすけど…」
「スーツにネクタイとは言わねえけどよ、一応シャツに上着くらい着てこいよ。まったく…」
「すんません…じゃ、衣装部行って借りてきますわ」
「いいわよ、そのままで。それよりさ、これから編成に行くから、企画書にちゃんと目え通しといてよ」桜子が助け船を出す。
「へい」

「前山さん、これ、原本です」正治がコピー室から戻ってきた企画書を手渡す。
「おう、御苦労さん。お前え、これ全部一人で書いたの?」
「ええ…一応…」
「なあ、凄えだろ?結構立派に頁数もあってさ…」仲野が言う。
「へっへっへ…企画書を量で褒められたって、嬉しかねえよなあ、川村。企画は中味ですよ、中味。なあ…」
「はい…」

前山が近くの椅子に腰掛けて、目を通しはじめる…ただでさえ強面のいかつい表情がさらに険しくなる…前山は元々若手の脚本家としてこの業界を渡ってきたキャリアがあり、風貌に似合わず、番組制作のアイデアの面でも、企画力の面でも、正治は一目も二目も置いている。

鋭い視線が猛烈なスピードで紙の上を走る…頁をめくりながら、時折『チッ』と舌を鳴らして、チラリと正治の顔に目を上げる…最初の頃、この前山の舌打ちを聞いたときには、何か恐ろしく気に入らないことがあるのかとビクビクしたものだが、特に大きな感情の変化を示すものではないらしく、単なる癖に過ぎない様であった。

前山が企画書を読み終えた。
「なーるほど…」正治を見て、ニヤリと笑った。
「良く書けてんじゃねえか。面白え。ここまで出来てりゃ、もう作家も要らねえんじゃねえ?」と、企画書を正治に返した。
「へへ…どうも…」社内随一の切れ者に認めて貰えて正治は満足だった。
「バッチリですよ」前山は仲野と末次に了解の意を伝えた。


出来上がった企画書のコピーを携えて、仲野、末次、前山、正治の4人はすぐに編成局に向かった。普段無口な前山はテレビ局の担当者を前にすると豹変し、驚くべき饒舌さで正治の企画のメリットを語り上げ、瞬く間に相手を惹き込んでゆく。

広告代理店の担当者がスポンサーを連れて現われた後は、ようやくその場の雰囲気を掴み取った正治が前山の合いの手役となり、流れる前山の弁舌の隙間を埋めていくことができるようになった。正治は前山との息が合ってくると、まるでライブハウスのステージの上でアドリブ演奏をしているような感覚を覚えた。

売り込みはまんまと成功し、この午前中のプレゼンテーションのうちに、番組の放映スケジュールがほぼ決定した。これまで、これほどスピーディーにオリジナルの企画が決定したことはなく、出席者は全員一様に喜んでいた。

仕事の話が終わり、席が雑談で盛り上がりはじめると、前山が立ち上がった。
「じゃ、俺達はこれで、失礼します。おい」と、正治をうながす。
「あ、はい。失礼します」
「ご苦労様」
「宜しくね」
「宜しくおねがいしまーす」
「どうも…」

正治は前山と一緒に局の応接室を出た。
「あとは、あいつらに任せとけばいいよ。良かったな」
「はい。へへ…」
「おい、川村…ちょい早えけどよ、昼飯食ってかねえ?」
「あ、いいすよ」


前山に食事に誘われたのは初めてだった。二人は局のビルを外に出ると、正門のすぐ近くにある和食屋に入った。
「はい、らっしゃーい!」
「二階いい?」
「へい、どうぞっ!えー、お二人様おにかーい!」
前山は慣れた様子で、二階の窓際の席に正治を連れていった。

「俺、ここの『わかれ』好きなんだよな。お前え、食ったことある?」
「わかれって何すか?」
「お、知らねえの?じゃ、食わせてやるよ。わかれ二つねっ!」
「へいーっ!わかれお二つ!」

「川村、お前え、うちに入ってきたの、確か割と最近だったよな」
「はい、去年の9月からです」
「企画書の書き方、それから覚えたの?」
「いえ、局のバイトの頃から書いてました」
「へーえ、お前え、局でバイトしてたのか?」

正治は、局でのアルバイトの後、大学を卒業して局の正社員になったこと、入社後大きな人事異動があった為、なんとか制作現場に残ることが出来るようにテレコープに移籍したこと、一日も早く番組制作の構造や現場の仕組みを理解したくて、自分で現場を動かすチャンスを掴みたくて、自主的に企画書を書き始めたことなど、これまでの経緯を説明した。

「ほう…で、この業界に入る前は何してたんだ?」
「え?学生ですけど…」
「ばーか、そんなこた分かってるよ。まさかお前え、学校行って勉強すんのが趣味だった訳じゃねえだろう?」
「あ…ギター弾いてました」
「なんだ、音楽やってたのか。バンド?ロック?」
「バンドもやってましたし、頼まれれば一人で行ってセッションに入ったり…あと弾き語りとかも…」
「なんだよ、稼いでたの?」
「ええ、少しは…ナイトクラブとか、ライブハウスとか…基本的にはジャズっすから…」
「ジャズかあ…じゃ、なんでこの業界入ってきたんだ?」
「いや…音楽じゃなかなか食えそうもないし、どうしようかなあって思ってた頃にこの仕事紹介されて…やってみたら結構面白そうだから…」

「俺よ、ビートルマニアよ」
「はあ…フォルクスワーゲンですか…」
「ばか、お前え、ビートルマニアっていったら…」
「はは…知ってますよ。ビートルズでしょ?」
「へっへっ…お前え…意外と面白え奴だなあ…」
「あ、そういえば前山さんの子供番組ってよくビートルズの曲の途中フレーズとかBGMに使ってますね」
「え?分かる分かる?嬉しいねえ…そうなんだよお。いいだろ?どお?ね、ああいうの…」
「インマイライフとかタックスマンとか渋いとこ使ってますよねえ、選曲の人がビートルズ好きなんだろなって思ってました」
「違うよ、俺、俺っ!俺が選んだんだよっ!いいだろっ?ええ?嬉しいねえ…そういうの分かってくれる奴がいてよっ」
前山はそう言いながら無邪気に嬉しそうに正治の肩をポンポンと叩いた。

「前山さんはこの商売の前は何やってたんすか?」
「俺?俺は演芸番組のネタ出し作家。平塚茂って知ってる?」
「あ、ヒットステージの作家でしょ?エンディングで変な踊り踊ってる…」
「そうそう、あれの弟子だったからな」
「じゃ、その前は何やってたんすか?」
「警備員のバイト。食えなかったからな…」
「格好いいっすね。全部カタカナ商売じゃないですか」
「え?そお?」
「だって、ディレクター、ライター…で、その前は…ガードマン…」
「あははは…上手いっ!座布団一枚っ!」
「へへ…」

「はーい!わかれお二つ、お待ちどうさまー!」
「おっ、きたきた!」
「へえ…わかれってこういうことか…」

二人の目の前にはカツ煮を卵で閉じた皿と白いご飯の定食が置かれた。つまり、単にカツ丼の上下が分かれているものだっだ。

「わかれねえ…頂きます」正治は箸をとった。
なるほど、湯気を立ち昇らせる熱々のカツ煮を炊き立てのご飯と一緒に食べるのは、思った以上に美味しかった…
「…旨い…」
「だろ…?」

第4章につづく...

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