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父の残像 11

起こったことは起こっていた…


ヤスオに電話したのは『私』だ。すぐにヤスオはやってきた。

「電話くれたの大人のコウちゃんでしょ?すぐに分かったよ」
「心配掛けて、悪かったね」『私』は素直に大人の自分として対応した。
「また、いなくなっちゃうかも知れないから…俺、大人のコウちゃんが帰ってきたら、どうしても伝えておきたいことがあったんだ」
「何?コウちゃんには直接話せないこと?」
「うーん…どうしようか考えたんだけど…ねえ、今はコウちゃんにも聞こえてるの?」
「ああ…2人で聞いてる。話が出来るのは俺だけだけど…」
「そうか…あの…ごめんね…これはコウちゃんになんだけど…ほら、大人のコウちゃんが急に消えちゃって…コウちゃん、心細そうにしてたから…あんまりがっかりさせたくなくてさ…だから、話せなかったんだけど…」
「どういうこと?」
「あの…先月…2週間くらい前のことなんだけど…お父さん、あ、俺のお父さんね…お父さんにさ、聞かれたんだよ。コウちゃんのお父さんて、どっか悪いのかって。あのね、うちの親戚がね、伯母さんなんだけど、お父さんのお姉さん…入院したんだ。新橋のね、大きい病院。そこにお父さんがお見舞いに行った時、コウちゃんのお父さんがさ、病院の売店で新聞買ってるの見たらしいんだ。入院患者さんみたいな格好してさ…最初は似てる人かなって思ったらしいんだけど、よく見たらやっぱコウちゃんのお父さんだったって。そんで声掛けたら、ちょっと検査でって言ってたから、検診か何かかなって…あんまり心配はしなかったらしいんだけどね」
「それで?」
「でね。また次にお見舞いに行った時にね、今度はコウちゃんのお母さんを見たらしいんだ。病院の待合室の横のベンチに一人で座ってすごく深刻そうな顔してたから、声掛けちゃ悪いかなって思って、そのまんま帰ってきたらしいんだけど…そいで、何か心配になって俺に聞いたんだって…俺…ほら、コウちゃんからさ、最初お父さんが今年の4月に入院するかもって、聞いてたじゃん?でも、その前に大人のコウちゃんが病気見付けてあげて、何だか上手くいくと思ってたからさ…」
「そうか…それで、ヤッちゃんは何て言ったの?」
「俺は、何にも聞いてないって言っといた。本当に聞いてないしさ、コウちゃんも知らないみたいだったし、その前の時はコウちゃんにだけは話したって言ってたから、おかしいなって…思ったんだけど…」
「そう…多分、俺が消えちゃってたから、話辛かったんだろうな、きっと」
「俺もそう思う…」

子供の私は動揺を隠しきれない様子で、懸命に『私』との距離を守ろうとしていた。

「ごめんね…折角戻ってきたのに…でも大人のコウちゃん、また消えちゃうかも知れないでしょ?だから、早く話しておかなきゃって…」
「ありがとう。話してくれて…。心配させちゃって悪かったね」
「でもさ、諦めないでね。俺さ、大人のコウちゃんがここに来たのって、きっと何かわけがあると思うんだ。それって、お父さんを助けるってことなんだと思うんだ。だってさ、俺、気が付いたんだ。大人のこうちゃんてさ、子供の時に未来の自分が来たことなんて覚えてないんでしょ?」
「ああ、記憶にないな」
「でしょ?俺とはさ、大人になっても付き合ってるって言ってたけど、俺からもそんな話聞いてないでしょ?」
「ああ、聞いたことないな」
「ほら、コウちゃんも俺も、こんなこと絶対に忘れる筈ないもん。それだけだってもう違う未来になっちゃうってことでしょ?」
「それは、そうだね」
「だから、変えられるんだよ。お父さんだって助けられるんだよ、きっと。だから、諦めないで欲しいんだ、俺」
「ヤッちゃん、ありがとう…そうだな。諦めないで、いろいろ方法探ってみるよ。そうだ、ヤッちゃん、一つお願いがあるんだけど…」
「何?」
「今の話、コウちゃんも聞いてるんだけど、すごく落ち込んでるみたいなんだよね。俺、前みたいにはコウちゃんに直接注意したり励ましたり出来なくなっちゃってるんだよ。あんまり近くにいると、この間みたいに俺が弾き飛ばされちゃうんだ。だから俺の代わりにヤッちゃんがコウちゃんのことしっかり見守って、励ましてあげて欲しいんだ。頼まれてくれるかな?」
「それって…どういうこと?」

『私』は『私』に起こった変化、『私』と私の間で守らなければならない微妙な距離について、なるべく分かりやすく説明した。

「そうか…そうなんだ…分かった。でも、時々はさ、今みたいに俺とも話して欲しいな。俺、大人になってもコウちゃんと友達だって言ってたけど、何か分かる気がする…大人のコウちゃんってすごく良い奴だもんな。俺もそんな大人になりたいな」
「ははは…ヤッちゃんも、すごく良い奴になるから、心配しなくて大丈夫だよ」
「ほら、そんな風に言ってくれる大人なんていないもんな」

ヤスオはその日の午後、ずっと子供の私と一緒にいてくれた。


詳しい事情を知るには、やはり『私』が父ときちんと話をする必要があったが、父の休暇中にそのチャンスが訪れることはなかった。母が父の傍を離れようとしなかったからだ。子供の私も兄の克夫も久し振りに父のいる団欒を楽しんでいる様子だった。

『私』は意識の座席を離れ、子供の私を通してずっと父と母の様子を観察していた。父はいつもの休みの日同様に快活に明るく振舞っていたが、母が時折見せる不安げな表情が気になった。

休暇の最終日の夕食後、父から話が切り出された。
「ちょっと、お前らに言っとかなきゃならないことがあるんだけど…」

母はテーブルに背中を向け、黙って台所で食後のデザートの準備をしていた。父の表情はいつになく真剣だった。
「お前らにあんまり心配掛けたくなかったから、暫く知らせないようにしてたんだけど…実はお父さん、先月少し入院してたんだ」
「え?そうなの?出張に行ってたって時?」克夫が訊ねた。
「ああ…4月の会社の検診の時にちょっと引っかかっちゃってな、それで調べてもらったら…少し悪いところが見付かったんだ。お前ら膀胱って知ってるか?」
「おしっこが溜まるとこでしょ?」
「そう…膀胱の中にな、小さな腫瘍が見付かったんだ。ま、おできだな。このくらいの…」父は人さし指と親指の隙間を数ミリ程度に縮めて私たちの前に示した。

「それって…もしかして、癌っていうこと?」克夫の声が少し震えていた。
「まあ、はっきり言うとそういうことだ。で、内視鏡っていうのをおちんちんの先から入れてちょこちょこっと掻き取ってきたんだ」

やはり、再発していたのだ。子供の私は相当に動揺していた。私だけしか知らない本当の経緯については一切触れようとしない父の言葉に、どう割って入ろうか、何も言わない方がいいのか、と思案しているようだ。父もそのことを気にしているのか、時折諌めるように私に視線を投げかけていた。

「大丈夫なの?今はもう大丈夫?」克夫が不安げに聞いた。
「ああ…ちゃんときれいに取れたらしい。小っちゃかったからな」父は再び指でサイズを示した。
「ただ、ちょっとたちの悪い癌だったらしくてな、来月念のためにもう一度入院して、治療しなきゃならないんだ」
「それ…抗がん治療…ってこと?」克夫が恐る恐る確かめた。
「そういうことだ。でもまあ、まだ小さかったからな、いますぐどうこうって感じじゃないって医者も言ってるし…一応念のためってことらしい。あんまり心配しなくて大丈夫だ。ただ、俺が入院するとお母さんもいろいろ大変だから、お前らも家のこととか協力して欲しいんだ。ま、そんなに心配しなくても大丈夫だからな。分かったか?」
「分かった…」
「カッちゃんの展覧会にはちゃんと行くからな。コウちゃんも、宜しくな」
「うん…分かった…」
「私、入院中は病院通ったり、お父さんに付いてたりしなきゃならないから、お手伝いさんもお願いすることにするし、あんた達も協力してよ」母は陽気を装いながら食後の果物と紅茶を運んできた。


部屋に戻った私は不安で落ち着かない様子だったが、声を掛けてあげることは出来ない。
『どうしよう…やっぱ、お父さんが死んじゃう…何とか出来ないのかなあ…どうしたらいいんだろ…ねえ、出てきてよう…そうだ…落ち着かなきゃ…ゆっくり息をして…駄目だ…出来ないや…落ち着こう、落ち着こう……』

子供の私の気持ちを考えれば無理もない。『私』が消えていた間に事実が息を吹き返していたのだ。なだめてあげたいのは山々だが、そっと見守るしかないのだろう。と、その時、襖が開いて父が部屋に入ってきた。
「おう、コウちゃん、黙ってて悪かったな」
「うん…ちょっとびっくりした…」
「お前には何度か話そうかと思ったんだけど…何か前みたいに大人びてなくなっちゃっただろ、お前。どうしようか迷ってたんだ。お前、その後何か変わったのか?」
「あの…大人のね、自分がいるって前に言ったよね。その人がね、居なくなっちゃったの。お婆ちゃんのお葬式の時」
「やっぱり…そうだったのか…でもま、元のお前に戻ったってことだよな」
「でも…あのね、ついこの間、戻ってきたんだ」
「戻ってきたって…その大人の人?」
「人…っていうか…それも自分なんだけど…上手く言えないんだけど…」
「その人とお父さん、話が出来るのか?」
「うん、その人もね、お父さんと話したがってる…だけど、ちょっと簡単じゃないんだ。僕がね、その人に僕を預けなきゃなんないんだけど、すぐに上手くは出来ないんだよ」
「その人は、そこに居るのか?」
「うん、今はね。またどっかに行っちゃうかも知れないけど…今は、すぐ傍にいて話してることもちゃんと聞いてる…と思う…」
「前に俺の病気に気が付いてくれたのも、その人なんだろう?」
「うん…そうかな…」
「ギターのことも、お父さんの仕事のことも、その人が教えてくれたんだよな」
「そう…」
「そうか……なあ、その人といつ話が出来るかな?」
「うーん…僕は、今でもして欲しいんだけど…僕がね、落ち着いてないと駄目なんだ。そうしたいんだけど、上手く出来なくて……」
「分かった分かった、無理しなくていい…その内な…お、誰か来たぞ…」

克夫だった。
「どうしたの?」
「いや、ちょっとコウちゃんと話してた…あんまり、心配しなくていいってな」
「大丈夫だよ。癌もね、初期の内に治療すれば大体大丈夫だっていうからさ」
「そういうことだ。ま、今んとこ、ほら、ぴんぴんしてるし、大丈夫だろ」
「それよりさ、お父さん、ちょっと見て欲しいんだけど…自由課題の絵」
「おう、いいよ。大分出来たのか?」
「うん…もう少しだけど…」
「よしよし。じゃ、そういうことだから、コウちゃん。あんまり心配しなくても大丈夫だからな」そう言い残して、父は克夫と部屋を出ていった。
『大丈夫だよな…大丈夫…』子供の私はベッドの縁に腰掛けて、何度も繰り返していた…


第12話につづく…

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