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手塚治虫さんとまた会えたっ!
手塚治虫は私の創作意欲の原点と言えるだろう...
少年時代から小遣いを貯めては少しずつ揃えた単行本は、その後引っ越しや自宅の建て替えなどで、ほぼ喪失してしまったが、それでも再販本を買い集め、今でも南阿蘇の山小屋にはずらりと手塚の蔵書が並んでいる。
もちろん今でも時折、思い出した様に読み返すこともある...
小学生の時に、実際に手塚さんと会えた幸運...
https://note.com/kunikawasaki/n/n3c4e8de69183
さて、それから時はどんどん流れ…十数年後…
昭和54年頃だったような…
もちろん私は、もう大人になっていた。
漫画家になりたいという夢はとっくにどこかに消え去り、ミュージシャンの道を目指していたものの、それも成り難く、『ロッテ歌のアルバム』という歌謡公開番組の収録時のバックバンドの譜面配りのアルバイトをしたのをきっかけに、映像業界に興味を持ち始めていた。
それから何故かトントン拍子に事が運んで、うまいことフジテレビの制作部の社員になったのだが、当時フジサンケイグループを牛耳っていた鹿内財閥のお家騒動のあおりで、一時局内の制作部は廃部となってしまったのだ…
私は営業局に転属になるところを、なんとか立ち回って、傍系の大手制作プロダクションに移籍し、制作現場に踏み止まることができた。
このプロダクション、ワイド番組やドキュメンタリーや歌謡番組やドラマ等、手広くやっていたが、私は『ひらけ!ポンキッキ』という幼児教育番組と各番組タイトルやスポット制作のアシスタント、兼務で企画部という部署に入れられて、朝はオフィスの掃除と茶わん洗い、午前中は現場の準備や調査、午後は制作現場、夜は番組の企画会議、夜中は企画書書き…という超過密な下積みライフを送っていた。
当時の様子は連載小説『大矢のカンガルー』に描いています。
https://note.com/kunikawasaki/m/mc97dbd4bd498
この制作室のボスであり統括プロデューサーでもある野田昌宏氏は、叩き上げの制作マンであると同時に、著名なSF翻訳家で、作家でもあり、SFペンクラブの幹部という、二足の草鞋を見事に履きこなす、傍若無人で大きなだみ声の大変楽しいおじさんだった。
彼は科学系の番組の制作には、よく作家仲間の方々を企画顧問やゲスト・コメンテーターに招き、制作室には小松左京さんや筒井康隆さん、豊田有恒さん、地球物理学者の竹内均さん等、著名な方達がよく出入りされていた。
私は、若手の企画部員ということもあって、彼らのお相手をさせられることが多かった。
ある夜、私がデスクでいつものようにコツコツ企画書を書いていると…
野田氏が小松左京さんを連れて制作室に戻って来た…
「おう!なんだ…今日は人が少ねえなあ…帰っちまったのか?」
「あ、お疲れ様ですっ!帰ったり、編集室だったり、ですね。もうすぐ10時ですから…」
「川崎くんは遅くまで仕事して、偉いねえ…」
「こいつはよ、夜中に残って企画書書くのが趣味なんだよ。なあ…」
「…別に趣味じゃないですよお…いっつも野田さんが早く仕上げろって言うから…」
「そう言われて、真っ正直にやるっていうのが、趣味って事なんだよっ!!がははは…まあいいや、これから小松さんと飲みにいこうと思ってよ、二人だけじゃ寂しいから、若えもん、誘ってやろうと思ってよ。どうだ?お前え、つき合わねえか?そんなもん、遅れていいからよっ。」
「いいんですか?」
「本部長の俺がいいって言ってんだから、いいんだよっ!小松大先生の接待だっ!」
ということで、私は2人に連れられ、社用のハイヤーで銀座方面に向った。
行った先は小さなバーのカウンター…SF作家たちの隠れた溜り場のようなところで、そこで暫くお酒を飲みながら、2人のいかにも少年っぽい科学談義に耳を傾けていた。
最初は明らかに世代違いのこの場所に、居心地が悪く、緊張していたのだが、30分もすると周囲にもだんだん慣れて来て、あまり出しゃばらないようにちょいちょい会話に加われるようになってきた…
と、突然、背後から…「やあ!どうも!いらっしゃってたんですか。」と、快活な声が…
振り向くと、恰幅の良い、背の高い、ベレー帽に眼鏡…にこにこした笑顔の手塚治虫さんが立っているではないか!!
『わあっ!ナマ手塚だあ!!』と、痴呆のように度肝を抜かれている私をしり目に…
「おう!どうもっ!どもどもっ!」
「やあやあ、久しぶりですねえ、手塚さん…」
「ちょっと、フラっと、抜け出して来ちゃいました。あはは…いいですか?混ぜてもらって…おじゃまかなあ?」
「いやいや、俺たちも飲みに来ただけだから…どうぞどうぞっ!ほらっ、川崎っ、お前え一個席ずれろっ!」
「あ…はいっ…すみませんっ…ど、どうぞっ!!」
と、取りあえず席を譲り、自分はどうしていいのか全く判断できずにオロオロしていると…
「お前え、なにやってんだ?ほれっ、そっちに座れっ!どうかしたのか??」と野田氏…
「いや…あの…え?いいんですか?えーと…あの…」
私が一つ席をずれると言うことは、手塚さんの隣に座って一緒に酒を飲むということだ!
そんな降って湧いたような夢のような現実が、そうやすやすと受け入れられないのは当り前だ。
「こちらは…初めての方ですね。野田さんのスタッフの方ですか?」
「おう!うちの兵隊で、駆け出しの企画屋なんだ。そのうち何かに化けっから、宜しくお願いしますよ。ほれっ!お前え、ちゃんと挨拶しろいっ!」
「あ、あの…川崎と申します。宜しくお願いします…」
「あー、どうも…はじめまして。手塚です」
『ひゃ〜…て、手塚治虫が…俺に…はじめまして、手塚です…だって!す、す、すげーっ!凄すぎるう!』
と、当たり前のことに大感激した私だが、一応初対面ではないことを勇気を振り絞って伝えてみる…
「いえ…あのお…実はあ…前に一度お会いしたことがあるんです」
「えー??そうだったかあ?手塚さんはうちの事務所に来たことなかったんじゃねえかなあ?…」
「ありませんよ。で…どちらで?」
「あの…お宅に伺ったことがあります…子供の頃ですけど…サインを貰いに行きました。」
「へえ…はは…そうかあ…そういえば、よくいろんな子供が来てましたねえ…で、僕、ちゃんとサイン差し上げました?」
「ええ、0マンの原画読ませて貰ってたら、そのうちの一枚の裏にサインして頂きました。その節は有り難う御座いました!」
「お前え、手塚さんファンだったのか…」
「ファンというより、フリークです。僕らの世代はみんなそうですよ!」
「じゃ、川崎くん、手塚さんの原画持ってんの?」
「ええ、その一枚…ずっと宝もんにしてます」
「あはは…そうだったなあ…うちに来るファンの子たちに結構気前良くあげちゃったんですよ。再版の時、紛失原画が多くて参ったんですよねえ…」
「す、すんません…あの、お返ししましょうか?…」
「あはは…いいんですよ。0マンみたいに単行本になってるのはいいんだけど、もっとほら、雑誌に書きっぱなしで、ちゃんと纏めたことのないやつとかね、まあ、あの頃は出版の人たちもいい加減だったし、僕がなくしちゃったってのも多いんだけど…でもまあ、あの時の子たちが川崎さんみたいに立派に大人になったんですねえ…いや、宜しくおねがいします。」
「恐縮っすっ!!」
30、40分位だったと思う。
手塚さんは機嫌良く、2、3杯飲まれて「じゃ、そろそろ僕は仕事に戻ります」と言って、1人で帰っていった。
それまでの主な会話は、人工衛星を使って大きな映像イベントが企画できないか、というテーマで、『チャッチャッチャ大作戦』と命名されていた。
静止衛星から夜日本列島を写し出し、生テレビ放送での指示を合図に全視聴者が一斉に家の照明を三三七拍子でつけたり消したりすると、日本の都市部が…
という他愛ない内容で、お三方は大変盛り上がっていた(実は私も)。
どうやって現実化するかという会話の中で、手塚さんは自分の漫画と出版社を巻き込んで事前に煽ろうというお話を盛んにしておられ、その合間合間で本当に信頼出来るフェアなスタッフは少ないと、日頃の憤懣をこぼしておられたのを覚えている。
帰った後、私が何度も「やったあ!手塚治虫さんと話が出来たあ!」「手塚さんが肩叩いてくれたあ!」「手塚さんの隣に座ったあ!」「手塚さんが…」と、有頂天で何度も繰り返すのを見て、野田氏と小松さんは、「やっぱり手塚さんの威力はすごいな…」と、感心していました。
それから数年後、私は一人前の演出になり、野田氏には後ろ足で砂をかけるようにさっさと広告代理店に移籍してしまったので、SF関係の方達との繋がりも途絶えてしまったが、手塚さんと直にお会いできたこの2つの思い出は、生涯最高の宝物として大切に心の中にしまってある…
このエッセイではイラストレーターのTAIZO Condovic氏にイラストを書き下ろして頂きました。
TAIZO氏のProfile 作品紹介は…
https://i.fileweb.jp/taizodelasmith/