室井の山小屋 1
第1章 山へ…
前日用意した旅行用のリュックを背負い、室井から言われた通り朝の内に出発した。ようやく夏も終わったようだ…昨日の昼過ぎまで関東に居座っていた低気圧は、すっかり何処かへと移動し、ここ何日も続いていたどんよりと蒸すような湿度が嘘のように、今朝の東京には晴れ渡った高い秋空が広がっていた。
駅から幾つか電車を乗り継いで、西多摩の武蔵五日市に到着した。そこからバスで30分ほど…檜原村に到着したのは、予定通り丁度昼前だった。『そっから先は、飯食うとこないからな』と室井から忠告されていたので、ここを昼休みの中継地と決めていたのだ。
びっくりする位山奥だ…と言われていたが、バスから都道沿いの街並みを見て失望した。どんなに奥地とは言え、やはりここはまだ東京だ。確かに長閑な田舎だが、店や旅館、民宿があちらこちらに点在する。秋川渓谷を臨む観光拠点なのだろうが、どう考えても千人や二千人は軽く超える規模の町ではある様子だ…
バス停の脇の村役場を背にして行く手を眺めると、少し先に食堂が見えたので、取り敢えずはそこに向かうこととした。
昭和を偲ばせる簡素な食堂だった。昼時だというのに店内に他の客は僅か2人しかいなかった。空いている席の脇にリュックを下ろし、ポケットから出したハンカチで額の汗を拭っていると、前掛け姿の太めの中年女性が笑顔で水を運んで来る…
「いらっしゃいまし、何にしましょうかね?」
「えー……と」テーブルに置かれた品書きを見ると、ここの定番はどうやら定食とラーメンのようだ…
「じゃあ、やまめ定食。あ、ご飯少なめで…」
「はい。山女魚ひとつ〜ご飯少なめ〜!」
「あいよ〜」厨房の奥から勢いのいい男の声が返る…
「お客さん、お一人?…」
「え?ええ…」
「何処にいらっしゃるの?」
「えーと…月夜見沢の方なんですけど…」
「ああ、キャンプ場ですかあ…」
「いや、藤原ってとこの先を、えーと上流の…あ、そうだ…」私は昨日室井から聞き取ったメモとプリントアウトした地図を胸のポケットから出して彼女に見せた…
「随分と上の方なんだねえ…」
「友人の山小屋があるんで…」
「あんなとこに小屋なんかあったかねえ…昔は幾つか集落があったけど、今はだあれも住んでないよ、あすこいらは…」彼女はそういいながらメモをじっと眺め続けていたが、そのまま厨房を仕切るカウンター前に移動した…
「ねえあんた…藤原の先のさ、月夜見の東側の沢の上の方に山小屋なんてあったっけねえ?」彼女が言うと、厨房の奥から小柄な男が顔を出す…
「あー?沢の上流?…あ、そりゃ、ムロさんだんべぇ?」
「ああ、そうか…そういやムロさんの小屋、あの辺だって言ってたわねえ…お客さん、室井さんのお知り合い?」
「ええ、あの…室井さん御存知なんですか?」
「ああ、ムロさん檜原に来ると必ずここで飯食ってたかんなあ…ここのラーメンがえれえ気に入ってよお、なあ?」そう言って厨房から割り込んだのは主だ。
「そうそう、大抵決まってラーメン開化丼セット…そういや、ムロさんこのところ来ないけど、小屋の方に来てんのかねえ?」
「いえ、実は昨日室井さんから電話を貰って…後で来れれば来るとは言ってましたけど…よかったら山小屋使ってくれって…何日居てもいいって言うんで、じゃあ、行ってみようかなって…来てみたんですけど…」
「でもよ、ここんとこムロさんずーっと来てねえよなあ…」
「そうねえ…もう1年以上来てないわよねえ…ねえ、お客さん、室井さんとはよくお会いになるんですか?」
「いや…以前は一緒に仕事もしてたし、毎日のように会ってたんすけど…最近は、ここ何年も全然会ってないんです。昨日久し振りに連絡があって…」
「じゃ、兄さんもおんなじデザイナーさんかい?」主がカウンターから顔を出して訊いた。
「いえ、僕は文章の方が専門でして…」
「へえ…作家さん?」
「いや、ライターです。企業のパンフレットとか…あ、でも、それも最近会社辞めましたから…今は無職ですけど…」
「ほれ、あそこに掛けてある山女魚と鱒の絵、あれムロさんが描いてくれたんですよ」女将さんがカウンターの上に掛けられた絵を指し示す。確かに、あの柔らかいタッチと色彩は室井のイラストだ。どうやら私は室井と同じ道を辿っているようだ…
「お客さん、お名前は?」
「あ、結城です」
「ゆーき?」
「結城紬の結城です…」
「ああ、結城さんね。結城さん、もしムロさんと会ったらさ、たまにはここに顔出すように言っといてよお…ここんとこ、急に来なくなったからさあ、心配してたんだよ…」
「ええ…はい。どうせ電話が入るでしょうから、伝えときます」
「あ、そりゃ駄目だ。あすこ辺りは電話もなきゃ、携帯も繋がんねえから…まあ、いいよ。元気なんだろ?来るって言ってんならその内顔見せんべぇ…」主はそう言って明るく笑った。
檜原の食堂『あけぼの屋』の秋山夫妻との歓談はついつい長くなってしまった。
昨日室井から、山小屋はここ1年ほど誰も行っていないことや、備蓄された食材の状況を細かく聞いていたので、そのことを夫妻に話すと、手持ちの野菜類や卵やハム、焼豚等幾ばくかの食材を土産だといって持たせてくれた。沢付近までは夫妻が手配してくれた地元のタクシーで向かった…
「お客さん、こっから先は歩きだねえ…」タクシーの運転手は地図を示しながら、この先山道を私が間違えないように、丁寧に分岐場所を指示してくれた…
室井の話では、ここから細い山道を2時間以上は歩き続けなければならない。幸い腕時計ではまだ2時過ぎだ。ゆっくり歩いても明るいうちには辿り着けるのだろう。
30分も歩くと、まばらに見え隠れしていた畑や作業小屋もなくなり、深い森の中を歩く自分の足音以外には人気を感じるものは何もなくなってしまう…
別に、ライターになりたくてなったわけではない…
大学卒業を控えてなかなか就職先が決まらず、たまたま、ある先輩から勧められて入社試験を受けた小さな広告代理店に採用が決まった。文学部出身ということもあって、クリエイティブ部署に配属され、コピーワークの仕事を与えられた。
日々様々な企業や商品のパンフレットやキャッチフレーズを紡いできたが、正直言って面白い仕事だと思ったことは一度もない。社内にはさして魅力のある人材も見当たらず、先輩・後輩といった体育会系縦社会が幅を利かせる社風。
入社当初は新鮮な気分でそれなりに楽しかったが、今ではやたらと多い飲み会にもうんざりする。まあ、仕事とはそんなもんだと諦めていた。
あれよあれよという間に10年以上が過ぎ、30代も半ばとなってしまった。そんな折、学生時代の先輩から起業の相談を持ち掛けられた。タウン誌の発行をベースにした新しい出版社を共同経営しないかという話だった。
そろそろきちんと自分の人生の方向を見直したいという気持ちから、その計画に乗ることにした。僅かな退職金と貯金を出資金に提供し、いよいよ次のステップに踏み出そうと覚悟を決めたその矢先に、当の先輩が姿を消した。私の人生を賭けた決意は、彼が競馬で擦った莫大な借金返済の一部に消えてしまったのだ。
追い討ちをかけるように4年間共に暮らしてきた妻が家を出て行ってしまった…相手は妻と同じ職場の同僚だそうだ…ぐうの音も出ないとはまさにこのことだった。
4年間我々夫婦の生活を支えてくれたマンションから、いっそ身を投じてやろうかと本気で考えたが、そのマンションも今は人手に渡っている。何しろ一文無しの状態だったので、不動産屋に相談したところ、幸い直ぐに高値で買い手が付いたのだ。
頭金は生前の母が用立ててくれていたのでローンの残りを返済し、妻の協力分を差し引いても、幾ばくかの金額が手元に残った。今はこの金が無くなってから考えようと先延ばしの状況だ。
これから何をしようか?…これからどうしたらいいのだろうか?…誰かに相談したくても、私の周りには誰もいなかった。兄弟もいなければ両親は2人とも既にあの世だ。親しい親戚もない。親友と呼べる人物も思い当たらない。会社勤めの頃の上司や同僚など論外だ。
要するに私は人と親密に付き合ったことがないのかも知れない…孤独好きという訳でもないのに、何故か人と深く関わるのが面倒だった。きっと自分の人生に対してもずっと真剣に向き合っていなかったのだろう…身から出た錆ということなのだ…
1人移り住んだ賃貸アパートで悶々とする日々が始まったのは、つい1ヵ月前のことだ。新しい簡素な生活環境も整え終え、うっとうしい雨の風景を窓から眺めながら毎日ぼんやりと過ごしていた。一昨日、ふとある人物のことを思い出した。それが室井だ…
室井は私がまだ20代だった頃、担当していた企業広報誌編集の仕事で付き合っていたフリーのイラストレーターだ。確か私より4歳年上で、やけに気の合う人物だった。付き合った期間は僅かに2年弱だったろうか、彼の作業場が会社の近所だったこともあって、仕事の打合せはもとより、昼食や夕食、夜も一緒に飲み歩くことも少なくなく、平日はほぼ毎日のように顔を合わせていた。仕事への悩みや人生のこと、家族のこと、趣味のこと…私にすれば、なんでも遠慮なく相談出来る初めての人物だった。
室井は私とは全く違うタイプの人物だ。社交的で如才なく、仕事も遊びも何でも楽しんでやろうという意欲に溢れていた。
長身で細身だが、骨格はがっしりしている。面長の顔には口髭を蓄え、丁寧で繊細で、いかにも器用そうなな指先を持っていた。趣味は釣りで、竿も自分で作ると嬉しそうに大きな目を細めて語っていた。私が好きな読書や音楽のことも良く知っていて、何度会っても、何時間会っていても話の尽きない良き友人だった…
『そうだ…室井さんに連絡してみよう…』そう思い、古い住所録や名刺ホルダーを探してみたが、引っ越しの際にどこかに廃棄してしまったようだった。
ところが昨日、その室井から私の携帯に突然連絡があったのだ。何処から掛けたのか、表示は非通知になっていた…
『もしもし?結城ちゃん?俺、室井だけど…』
「え?室井さん?嘘…丁度昨日室井さんのこと考えてたんですよ。びっくりだなあ…」
『そうなの?…俺も結城ちゃん、どうしてるかなって思ってさ、会社に電話したら辞めたっていうじゃない…で、こっちに掛けてみたわけよ。どうしたの?今、何してんの?』
「いやあ…どうしたらいいかなあ…って感じで…で、ちょっとね、室井さんに話聞いて貰いたいなあって思ってたんですよ。ねえ室井さん、どっかで会えませんかね?」
『あー…俺今ちょっとさあ、遠くにいるんだよねえ…暫くそっちには戻れない感じでさ。悪いねえ。今ならちょっと時間あるから、聞こうか?な?話してみなよ』
「そうですか?…どっから話せばいいのかなあ…」
私はここ最近起こった様々な出来事、そして未来を見出せない自分の心情と絶望感について室井に語った…相変わらず彼には躊躇なく何でも話せた…
「…っていうことなんですよ。俺、もう何だかどうでも良くなっちゃって…もしかしたら、俺って人生に向いてねえのかなって…」
『あはは…人生に向いてないって…そりゃ、親が泣くぜ』
「親はもう、いませんから…」
『いなくても…だよ。まあ、そういうことじゃ凹(へこ)むのも無理ゃないけどさ。で?それで今はなにやってるの?』
「いや、別に何も…やる気も起きないし…」
『東京のど真ん中でさ、ごちゃごちゃしたとこで、どうせ一人なんだったら狭い部屋なんだろ?どっか広々したとこにでも行ってみたら?自然の中とか…そういうの嫌いなの?』
「俺もどうせやることないし、どっか旅行でも行ってみようかなって、思ったんすけど、別に特に行きたかったとこもないし…」
『だったらよ、俺の山小屋に行ってみるか?』
「室井さん、別荘なんて持ってましたっけ?」
『別荘なんてもんじゃねえよ。山小屋、ちっこい山小屋だ。5年前位だったかなあ、知り合いの建築家からさ、買ってくれないかって…どっかの山好きの御隠居さんに頼まれて建てたは建てたけど、あんまり山奥で不便なんで、誰も使えなくなっちゃったって…ほら俺渓流釣り好きだろ?で、使ってくれるんならいくらでもいいって言うからさ、買ったんだよ。いいところだぜえ』
「何処なんですか?」
『月夜見沢ってとこなんだけど』
「月夜見沢?…何処ですか?そこ…」
『あきる野って知ってる?』
「なんだ、東京ですか」
『そう思うだろ?ところがところが、行ったらびっくりだぜ。あきる野のずーっと奥にさ、檜原村ってとこがあんだよ。ま、奥多摩だな。そっからまたずーっと山奥に入ったとこ。言っとくけど車じゃ行けないからな。途中からはずっと歩きだ。都心からなら電車とバスと歩きで半日かな。どお?』
「そうか…行ってみようかなあ…本当にいいんですか?」
『ここんとこ俺もいろいろあってさ、1年位行ってねえんだよ。気になってたから誰か様子見てきて欲しいと思ってたんだ。あんなとこじゃ、うちの嫁さんにも頼めねえしなあ…行ってくれるとこっちも助かるよ。掃除とかしてくれたらもっと嬉しいけど…』
「いいですよ。暫く寝泊まりしていいんですか?」
『1週間でも2週間でも好きなだけいてくれていいよ。なんだったらそのまんま住んじゃってもいいや…あはは…ま、居られりゃだけどな』
「何ですか?そんな淋しいとこなんですか?」
『はは…その点についちゃ、大丈夫だ…』
「え?どうして?近所にやたらお節介な人がいるとか?…」
『ま、暫く居たら分かるよ。俺ももし行けるようだったら行くからさ』
「本当ですか?それ嬉しいなあ…じゃあ、そこで会いましょうよ。俺、先に行ってますから」
『そうだな。上手く会えるといいけどな…ま、頑張ってみるよ…はは……』
そして室井は山小屋までの細かいアクセスや、滞在するに当たって、設備や備品、また周囲の環境についても細かく伝えてくれた。
『ま、要するに山の生活はさ、いくらのんびりするって言ったって、朝起きて、飯食って、夜酒飲んで寝るってそれだけのことを続けるだけでも、結構やることが沢山あるってことだ。そうこうしてるとな、人生の意味が少し見えてくるんだ…』
「人生の意味?…」
『ああ…見たいんだろ?…結城ちゃん…』
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