室井の山小屋 4
第4章 2日目・川添老人
川添老人の話はさらに続いた…
「俺のよ、若え頃の人生最大の目標って何だか分かるかい?」
「何だったんですか?…」
「どうすりゃあ戦争に行かずにすむかってことよ。好きでもねえ勉強がむしゃらにやってよ、何とか医専に潜り込んでよ、医者んなりゃあ徴兵免除だってな。ところがどっこい、揚げ句の果てに軍医にさせられて野戦病院送りだ。まったく…あん時にゃもう笑うしかなかったぜ。ああ…俺の人生もこれで終わったなってよ…ところがよ、戦場なんてとこはよ、そんな人生のことなんか考えてる暇なんてありゃあしねえんだ。次から次に病人だ怪我人だって、まるで流れ作業よ。修理工場みてえなもんだな。こりゃあもう治らねえ、内地送還だ、こっちはもう駄目だ、モヒで眠らせとけ…ってな感じよ。そうこうしてるうちによ、次は南方だ。結城さん、あんたパラオ戦線って知ってるかい?」
「いえ…祖父が戦争に行ったとは聞いてましたけど…詳しいことはあんまり…でも、南方は激戦だったんでしょう?」
「激戦なんて生やさしいもんじゃねえ…玉砕だ玉砕…兵隊も軍属もほぼ全滅ってことだ」
「でも、川添さんは帰ってこられたんですよね?」
「当たり前えだ。そうでもなきゃあこんな歳になるまで生きちゃいねえや。パラオに着いて少し経った頃だったかな、一個中隊と一緒によ、メリー島っていう小さな島に派兵されたんだ。本島から200キロ以上も離れたサンゴ礁の小っこい島でよ、1キロ四方位ちょいしかねえ。そこに300人がとこの兵隊が孤立しちまったんだ…」
太平洋に浮かぶ小さな島、メリー島はパラオ戦線の専守防衛拠点の一つになる予定だった。ところが人員は送り込んだものの、既に制海権制空権を失っていた日本軍はその後の物資補給が一切出来なくなってしまった。一方敵対する連合軍は、武器を持たないこういった島々とは一切交戦せず、空母戦略でひたすらパラオ本島基地を攻撃した。こうしてメリー島は1年半もの長きにわたり、味方からも敵からも見放されてしまったのだ。もちろんその間、戦闘は全くなかった。
ただし、この小さな島には300人もの人間を養う包容力はない…派兵されて半年も経たずに島内の食料はほぼ全て消え失せ、兵隊たちはひたすら『飢え』と闘うこととなった。日々一人、また一人と栄養失調や代謝疾患で戦友たちが倒れてゆく…
「野戦地にいた頃はよ、負傷兵や感染症の兵隊が次から次に運ばれてきてよ、患者たちとはいちいち話してる暇もなかったけどよ、メリー島じゃあ、出来る治療なんて何もありゃしねえ。薬はおろか食わせるもんもねえんだからな。俺の仕事はただただ看取るだけだ。身体を拭いてやってよ、脈を看て…あとは話を聞いてやる位がせいぜいのところよ。毎日毎日、今日1人…明日また1人…って感じでよ、1人ずつ1人ずつ、眠るように死んでいくんだ…」
「随分亡くなったんですか?…」
「いつも4、5人が運ばれて来ててな…俺のとこに運ばれるってことはもう自力じゃあ動けなくなったってことだ。この4、5人が増えることもなきゃあ減ることもねえんだ。一人死んで、埋葬班に引き渡すと、また一人運ばれて来るって感じだな。8ヶ月位の間だったかなあ、大体250人がとこ死んじまった…」
「250人…そんなに亡くなったんですか…」
「ああ…ところがよ、そこでパタッと止まったんだよ。何でだか分かるかい?」
「え?どうしてですか?」
「島でよ、どうにか調達出来る食いもんが丁度いき渡るようになったんだよ。簡単な話だ。つまりその島で生き延びられる人数はせいぜい40〜50人が限界だったってことだ。簡単だろ?ま、そんなことで俺あよ、毎日毎日これから死んでく奴等と話をすることになったわけだ」
「どんな話をされたんですか?…」
「ま、殆どが人生の話だ」
「人生…ですか…」
「そう…でもよ、おたくみてえに難しい話じゃねえよ。大概が極く極く簡単な話よ」
「簡単な話?…」
「そうよ。俺んとこに運ばれてきたってことはよ、長くてここ数日の命ってことだ。そりゃあ本人たちが一番良く分かってる。だからよこの世の最期の別れってことだろ?どいつもこいつもよく喋りやがんだよ。嘘も見栄もなしだ。思ったことをそのまんま話してくれんだよな。みんな若え連中だ。今考えりゃあ、まだ20歳かそこいらの若え奴が多くてよ…でも、みんなその短い人生を振り返るんだよなあ…概ねあ明るい話だ。ガキの頃仏壇からくすねた饅頭がとびきり旨かったこととかよ、飲んだくれの父親が飲み代削って中古の自転車買ってくれた時、どんなに嬉しかったかとか、べー独楽の削り方には特別なコツがあるとか、隣町の食堂の娘に付け文したこととか、出征の前の日に家の鶏が卵を沢山産んでくれたこととかよ…そりゃあ他愛ないことばっかりよ。最初の内はよ、人の死ぬ間際ってのは、つまんねえことをいろいろ思い出すもんなんだなあ…って思ってたけど、何人も何十人も色んな話聞いてるうちによ、ああ…そうか…此奴等はみんな1つのことを話してんだなって…分かってきてよ…」
「何ですか?1つのことって…」
「人生だよ。彼奴等が言いたかったことはよ、どんなに短くても、どんなに小さくてささやかでもよ、自分にはきちんと人生があったってことだ。人生はよ、充実してるかどうかじゃねえ、いいか悪いかでもねえ…人生がそこにあったかどうかが大事だってことだ。分かるかい?」
「人生があったかどうか…」
「結城さんは今何歳(いくつ)だい?」
「35、もうすぐ36ですけど…」
「あんたにも36年間の人生があっただろう?…」
「…はい…」確かに…人生はあった…
私は父が40代、母が30代、結婚後10年以上が経ち、もう子供は出来ないだろうと諦めた頃にようやく授かった一人息子だ。そのせいか、両親には大事に育てられた。親に厳しく叱責されたこともない。父は普通の勤め人で、大して裕福な家庭ではなかったが、子供にとっては満足出来る毎日を送っていた。
ただ、我が家は慎ましやかな生活だったので、さしたる贅沢嗜好は芽生えず、親が困るような高価なものをねだることもなかった様な気がする。私が好きだったのはテレビのヒーロー番組、いわゆるライダーものだ。今となってみれば、何故あれ程夢中だったのか分からないが、キャラクター玩具やフィギュアなど、小遣いを貯めては次はあれを買おう、その次はあれを手に入れよう…と、必死に計画を練る。両親もそれを良く分かっていて、誕生日やクリスマスには思い掛けずに高価な玩具を贈ってくれ、涙が出るほど嬉しかった記憶がある。
中学からは親の勧めで水泳部に所属した。3年間中長距離の選手として様々な大会に出場した。自分なりに泳法やペース配分を工夫し、体力と持久力と相談しながらコツコツとタイムを縮めていくことに熱中した。結果的には高校以降も続けるほどの好成績は収められなかったものの、3年生の夏には都大会で入賞を果たし、一応の満足を得ることが出来た。何よりもレベルアップするプロセスが楽しく、大会に関わらず練習の時でも、思わぬ好タイムが出た時には溢れるような喜びを感じたものだ。
大学の時にはアルバイトで旅費を稼いでは、ゼミの仲間たちと様々な地方へ小旅行を計画するのが楽しみだった。別にそれ程旅が好きだった訳でもなく、特に親しい仲間たちでもない。鉄道にも風景にも温泉にも興味はなかったが、限られた予算でどこまで遠くに、どれだけ快適に旅する事が出来るのかというプロセスを共に考えること自体が楽しかった。
他にも些細なことなら、楽しかったことやわくわくと胸をときめかせる出来事は数えきれない…と、思い返してみると、彼の言う通り私にも確かに人生があった…
「確かに、そうですねえ…」
「だろ?人生なんてもんはよ、所詮生まれてから死ぬまでのことだ。派手だろうと地味だろうと、長かろうと短かろうと、大した差はねえのさ。いよいよこれから死ぬって時によ、ああ…これが俺の人生だった…って受け入れられるかどうかが大事だってことだ。幸か不幸かなんてよ、他人が決めることじゃねえ。上を見たってきりがねえ。どうやったっていずれあ死ぬんだからな。それでちゃらだ」
「ちゃら…ですか?…」
「ちゃらだよ、ちゃら。貸し借りなしってことだ。ま、なかなかそう思えねえとこが人生の面白えとこでもあんだけどよ」康三はそう言いながら、傍らに寝そべっているキリの背中を優しく撫でた。キリは気持ち良さそうに少し身を震わせた。
川添康三が何故南方の惨状の中を生き延びることができたのか…それは彼が部隊でただ一人の医師だったことに尽きる。パラオ本島に配属された折に、ミクロネシア周辺の島々の植生や感染症、兵隊の為に徴用出来る食材に関する詳細な知識を現地の軍属たちから集めていた。
島に持ち込んだ食料がいよいよ底をつき始めた頃からは、康三のこの知識が部隊の兵士たちの健康を保つ糧となった。しかし、その知識も及ばぬ自然の摂理の中で、兵士たちが一人また一人と命を失うようになると、次第に彼の医師としての役割は変わっていった…
ささやかな彼の診療設備は兵士たちの最期の安息の場所となったのだ。康三の役割はそこに運ばれた人々を安らかに見送る、言わば聖職に専念することとなった。島の兵士たちにとって康三の存在は大切な人生終焉の扉となったのだ。大事な戦友や、強いては自分たちがやがて確実に迎えるであろう死出の旅立ちを穏やかなものにしてくれる康三の生活は、こうして多くの兵士たちによって支えられることとなった…
川添老人との語らいはついつい深夜までに及んでしまった。久々の深酒で、12時を回る頃にはすっかりろれつが怪しくなってしまっていた。楽しかった…いつの間にか深い睡魔に襲われ、自分でも記憶にない間にロフトのベッドに潜り込んでしまったようだ…
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