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父の残像 23

出来ることとすべきこと…


真弓と待ち合わせて、ヤスオの病室を訪ねたのは、それから3日後だった。ヤスオが入院したのは幹線道路沿い、私鉄駅の近くにある救急病院で、我が家からは自転車で10分程の近さだった。部屋は大部屋だったが、他のベッドは空いていたので周囲を気にせずに3人で話を交わすことができた。

「でもさ、すごいわよねえ…川瀬くん。お医者さんみたいじゃない」
「俺も驚いたぜえ、いきなりコウちゃんが来てさ、ちょっと診てあげるって…そんで体の中に入っちゃったんだからさ…で、盲腸だ、って救急車だろ?あんなことができるなんてびっくりだよな。ま、俺は痛くてそれどこじゃなかったけどな…はは…あいてててて…」
「ほらほら、無理しちゃ駄目よ。手術したんだから…第一お腹痛いのに2日も内緒にしてたなんて…ほんとに、もう、バカじゃないの?あたしが川瀬くんに電話してなかったら、死んでたんだからねっ!あんたみたいなバカ、いっぺん死んでみりゃいいのよ!」
「まあまあ…無事に手術も終わったんだし、良かったじゃない。ヤッちゃんも元気そうだしさ」
「まあね…それより、川瀬くん、いつからそんなことが出来るようになったの?」
「この間、跳ばされちゃってからだな…何となく、やり方が分かったんだ。だから、今回は自分で戻ってきたんだ」
「そんな風に、誰の中にでも入って行けるの?」
「多分…ヤッちゃんの中にしか入ったことはないけど…」
「あたしの中にも入れる?」
「多分出来ると思うよ」
「真弓もやって貰ってみろよ。凄いぜ…」
「やだ。あたし、心の中、人に見られるのなんて、絶対にやだっ!裸見られるのより恥ずかしいもん…」
「お前えの裸なんて、誰も見たくねえよ…」
「うるさい!あんたは病人なんだから大人しく寝てりゃあいいのよっ!でも…それってさ、どういうことなのか、もっと詳しく知りたいわ」

『私』は以前ヤスオに話したこと、さらにヤスオの病気を発見した時のことを詳しく説明した…
「心って…そういうことだったんだ…体の色んなとこ、全部か…で、ヤスオの盲腸は、手術して、もう取っちゃったんでしょ?」
「おう、お母さんが後で見せて貰ったって言ってた…なんか気味悪かったって…」
「じゃあ、川瀬くん、もう一度ヤスオの中に入ってさ、悪かったとこが前とどう変わったかもう一度見てきてみたら?」
「ああ、そうだな…それは、俺も見てみたいな…いい?ヤッちゃん」
「俺はいいけど…コウちゃんに隠してることなんてねえしよ…」

『私』は椅子をベッド側に引き寄せて、ヤスオの左手をしっかり握った…

ヤスオの心は平穏を取り戻していた…
かつて光を弱めていた部分に再び近付いて行く…
さらに小腸と大腸の境の部分へ…あの時黒ずんで殆ど光を失っていたものは跡形もなく消滅しており、隣接する幾つかの発光体が位置関係を変化させながら、失ったものの空間を埋めようとしているのが分かる…
さらに近づき、詳しく眺めると、内蔵や皮膚、神経のあちらこちらが傷を負っていることも細かく観察出来た…

「どお?どうだった?」『私』が元の身体に戻った様子を察して、真弓が問い掛けた。
「うん。大丈夫。ちゃんと治ってきてるよ」
「で、どんな風に変わってた?」

『私』は病気が治る時の心の形や構造の変化について、ヤスオの心の中で見てきた様子を詳細に話した…
「色が大事みたいだね。健康なところは大体青っぽかったり緑だったり、寒色系の色に発光してるんだ」
「かんしょく…?」
「そう、冷たい色だね。弱ってたり傷ついてたりするところは暖色、あったかい色…黄色とか赤とかオレンジの発光になってる…もっと悪くなると光が弱ってきて、色も茶色っぽくなって…この間の盲腸のとこなんて殆ど真っ黒だった」
「へーえ…寒色と暖色ねえ…そうか…それよっ!川瀬くん」
「え?それって?」
「川瀬くん…お父さんの中に入ってみたら?そしたら…何か…出来るかもよ。きっと、何か出来ることがある筈よ。どお?そう思わない?」

確かに…そうかも知れない……
「そうだね…やってみる価値はあるかも知れないな…」


7月16日、日曜…今日は私と『私』の誕生日だ。

父の週末の一時帰宅は叶わなかった。
母と兄と私は午前中に病院に向かった。母は紙の手提げ袋一杯の荷物を磯田さんの車のトランクに積み込んだ。今日から暫く父の病室に泊まり込む為だ。

父の病室の扉には『面会謝絶』の札が掛けられていた。
母の話では、この週末前に仕事の引き継ぎを全て終えたとのことだった。
予定では先週と同様に週末に帰宅し、家族と一緒に過ごす予定だったが、全身に及ぶ患部の痛みが激しくなり、急きょ鎮痛の為の投薬を行なう事となってしまった。

父はベッドに横たわり、眠っていた。
心肺機能が衰え始めたのか、酸素吸入器が装着されていた。先週よりもさらに一回り痩せた様子で、その容姿から、かつての元気な父の姿は消え去ってしまっていた。ベッドサイドには既に付き添い用の一回り小さなベッドが置かれていて、狭い病室をさらに狭くしていた。

「お父さん、眠ってるみたいだね…」
「痛みを止める点滴してるからね…一昨日まで辛いの我慢してよく働いてたから、疲れたんじゃないかしら。ようやく休めるようになったんだから起こさないようにしてあげましょ」
「でも、良かったね。仕事終わって…」
「本当にねえ…先生たちも会社の人たちも感心してたわよ。凄い精神力だって…さあ、あたしはあなた達がいる間にそこの洗濯物洗って来ちゃおうかな…」
「いいよ、俺たちが持って帰って、野村さんに洗濯して貰っとくから…また、持って来ればいいんでしょ?」
「いいのよ、少しやることがあった方が…ずっとここにいてもあんまりやることないからね…じゃあ、洗濯室に行ってくるから、戻ってくるまでお父さん、見ててね」
「分かった…」

母が父の洗濯物を抱えて部屋を出ていって暫くすると、担当医が病室を訪れた。
「やあ、君たちも来てたんだ」
「あ、はい…どうも…」
「今日からお母様が付き添って頂けるって聞いたから、ちょっと御挨拶しようと思って…あれ?お母様は?」
「今、ちょっと父の洗濯物を…」
「あ、そうか…じゃあ、後でもう一度来ますって、伝えといて貰えるかな?」
「はい。あ、あの…」
「ん?なに?」
「父は、いつ頃目を覚ましますか?」
「ああ…そうだねえ…朝の内に、ちょっと強い鎮痛剤を点滴に入れたから…」担当医はそう言って腕時計に少し目を移す…
「少し長く寝てらっしゃるかも知れないねえ…午後まではお休み出来るといいと思ってるんだけど…昨夜はあんまり寝られなかったらしいからね…」
「強い鎮痛剤って…父は、その…もう…」
「いやいや、心配しなくていいよ。お父さんも、その…調子のいい時と悪い時があるから。状態をよく見ながら、ちゃんとお休み出来るように調整してるから。大丈夫…」彼はそう言って兄の肩をポンと優しく叩いた。


その日から『私』は毎日父の病室を訪れるようにしていたが、父と二人きりになる機会はなかなか訪れず、残り少ない時間だけが刻々と過ぎていった…
兄は昼間のクラブ活動を終えてから夕刻に病室を訪ね、ほんの短い時間だけ父の様子を窺い、毎日私と一緒に帰宅してくれていた。
「カッちゃんは…お父さんと一緒に居たくないの?」帰りのバスの中で私は兄に訊ねた。
「そんなことないけどさ…俺が居るとお母さん、不機嫌になるしな…」
「でもさ……」
「いいんだよ、コウちゃんは気にしなくて…お父さんとはもういろいろ沢山話せたし…あとは、お前がなるべく一緒にいてあげた方がいいんだよ」
「そうなの?」
「そう…俺は沢山話した…沢山話したんだ…」
「どんなこと?」
「いろいろ…これからのこととか…いいんだ…あとはコウちゃんが傍にいてあげてくれよ」
「分かった…」
「そうそう、中等部のコーチには俺から話しといてやったからな。しばらく休ませてあげてくださいって…心配しないでお父さんに付いててあげてくれってさ。だからお前は、お父さんのことしっかり看といてくれよ。な…」
「うん…」


七月20日、木曜…
『私』が記憶する父の命日まで、もう僅かに10日を切ろうとしていた…

鎮痛剤の影響だろうか、父は微睡みの中にいることが多くなった。
鎮痛剤は父の痛みの状況に応じて、朝と夕刻に投与される。従って、父の意識がはっきりしているのは、午後から夕刻までの数時間でしかない。しかも、特に痛みの激しい時には、その貴重な時間すら縮められてしまうのだ。

父はそういった自分の状況をよく把握していたようだった。会社の幹部や友人、証券会社や銀行の担当者、弁護士など、面会すべき人々を自分の体調を見ながら綿密にスケジュールを組んで病室に呼んでいた。それはまるで、最期の時を迎える準備を自ら進めているように見えた。父の貴重な時間は殆どそういった人々に充てられ、母と私に残されたのは微睡みの中にいる父を見守るだけの役割だけだった。

『私』は、なるべく早いタイミングで父と2人だけになれる機会を逃すまいと、毎日病院にいるようにしていたが、どうしてもそのチャンスを見出すことが出来なかった。しかしこれ以上待つことは出来ない。今日は何としても、父との時間を作ろうと心に決め、病室に向かった…もう、母が病室にいても構わないとさえ思っていた。

私が病室に到着したのはまだ午前中だった。いつもより体調がいいのか、父はベッドの上に上体を起こして機嫌良さそうに母と雑談を交わしていた。

「おう、コウちゃん、いらっしゃい…」少しかすれてはいたが、父らしい快活な声だった。
「あ、お父さん、起きてたんだ…」
「今日はねえ、調子がいいらしいのよ。朝ご飯もちゃんと食べたしね」嬉しそうに母が報告する。
「ああ…少し気分がいいから、起きてることにした。コウちゃん、今日は早いな」
「うん…ちょっとね、お父さんと話がしたくって…あの…」
「あー、そうそう…」父が突然私の言葉を遮った…「お母さん、明日の午後、家の方に戻れないかなあ?…」
「あら、別に大丈夫だけど…何で?」
「ほら、この間ミジンコが来たろ?」
「ええ、随分長くお話してたわねえ…」
「ああ、明日の3時くらいにな、あいつうちの方に来るって言ってんだけど…」
「あら、なんで?」
「ほら、俺が学生の頃から持ってるレコードがあるだろ?洋間の棚の奥…グッドマンとかアーティーショウとかさ、78回転の古いやつ…あれ、ミジンコにやることにしたから…あいつ戦災で全部無くしちゃったっていってたからさ。丁度明日、車でうちの方通るっていうから、持ってっていいよって言っといたんだよ。野村さんだけじゃ、あいつ、気い遣うからさ。お前、家に居てやってくれないかな?どうせその時間はこっちも客が多いから…お茶でも出してやってくれよ…」
「そうねえ…いいわよ。どうせあたしも着替えとかも少し取りに行きたいし。じゃあ、明日はちょっと帰らせてもらおうかな…」
「3時だ、明日の3時だからな。」父はそう言いながら私の顔をしっかりと見た。
『私』に伝えているのだ…『私』と2人きりになれる機会をアレンジしてくれたのだ…

「コウちゃんの話って、何なの?ほら、丁度今、起きてるんだから…」
「いや…あの…お父さんのギターなんだけど…弦が少し錆びてきて…張り替えようと思うんだけど、どんな弦買ったらいいのかな?」何とか話題を創り上げた…


第24話につづく…

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