大矢のカンガルー 最終章
第11章 大矢のカンガルー
正治と大矢がフロアに降りると、シゲと梶井が二人を待っていた。
「お疲れさん。悪かったな、弁当食べる暇作れなくってさ。梶井、弁当とってある?」
「あったりまえですよ。へへ…上等な方、人数分ちゃあんと確保しといたから、それから、ほら、コーヒーポットも一発隠しといたよ」
「そうか…じゃ、弁当食ってから撤収だな」
テレビスタジオの撤収は撮影部、音声部、照明部、美術大道具、そして最後に正治たち制作部が立会いスタジオを閉める、という慣例になっている。他のスタッフの撤収の間、4人が弁当を頬張っていると、スタジオ隅の内線電話が鳴った。
「あ、俺取ります」一番近くに居た正治が受話器を取る。
「はい、スタジオ」
『外線から制作さん宛でーす』
「はい、どうぞ」
賑やかなノイズを背景に、今はもうあまり聞きたくない岩本の甲高い声が聞こえた。
『誰?』
「あ、川村ですけど」
『おう、お疲れ。俺よ、今西条さんのマネージャーさんと一緒だから。このまんまちょっと飲みに行くからよ、お前えら、片づけ終わったらそのままバレていいからな』
「はい、お疲れさまです」
『じゃな』あっさりと電話は切れた…
「誰だった?」梶井が訊いた。
「岩本さん。このまんま飲みに行くから、俺たちは撤収終わったら帰っていいってさ」
「そうか…」大矢がぽつりと呟き、寂しそうな表情を浮かべた。
「ったくよ、普通こういう時ってよ、あとでお前らも飲みに来いって、そういうのがさ…ま、言ってもしょうがねえか」シゲが言葉を飲み込んだ。
「言ってもしょうがねえよ。それよりさ、本番上手くいって良かったって、それだけでいいじゃん」梶井が締め括った。
制作関係の片付けも概ね終わり、スタジオでは美術部の撤収が終わろうとする頃、大矢が3人に声を掛けた。
「じゃあ、みんな資料持って制作室の方に上がっていいよ」
「大矢さんは?」
「ああ、まだ引取に来てない動物プロもいるし、撤収確認したらおれもあとで上がるわ」
「じゃ、上で待ってますから」正治はシゲと梶井を促して荷物を集め、制作室に上がった。
「大矢さん遅いねー。まだ何かやってんのかなあ?」シゲが時計を見上げて呟いた。
「俺もそろそろ帰りてえなあ…昨日も泊まりだったしよ。おい、川村、ちょっとスタジオにさ電話入れてみ」
「そうか、そろそろ1時間経つもんなあ…」正治は内線電話を取った。
「すいません。Fスタフロアの方に…はい……もしもし?あ、大矢さんですか?どうしたんですか?何かありました?」
『いや…ちょっとトラブっててね…でも、大したことないから。すぐに片付くから、みんな先に帰っていいよ。悪いな随分待たしちゃって…』
「いや、そりゃいいんですけど…本当に大丈夫ですか?俺、何か手伝いましょうか?」
『いや、いい、いい。ごめんね、先に帰って。お疲れお疲れ』そう言って大矢は電話を切ってしまった。
「何だって?」
「いやあ、大したことないから、みんな先に帰っていいってさ」
「じゃあ、そろそろバレようぜ」
「そうだよな…別に問題が起きるようなこと、もう何にもないだろ」
「あ、そうだ、大矢さんの私物、ここに置いてあるから、俺、これ届けてから帰ります。部屋の鍵も警備に渡しときますから」
「そお?じゃ、頼むわ。宜しくな。お疲れ」
「お疲れさまあ」
シゲと梶井が居なくなると、正治は部屋の照明を落とし、ドアに鍵を掛けて、大矢の私物と一緒にエレベータでもう一度スタジオに降りた。
スタジオの大きな扉を開ける…既に全てが片付けられ、ガランとした薄暗いスタジオのフロアの真ん中に二つの人影が見えた。
「大矢さーんっ!どうしたんですかあ!」正治はまだ誰か他のスタッフが残っているのかと近付いて行った。近付くにつれ、もう一つの人影は、どうやら人間のものではないことが分かった。大矢が正治の声に振り返る。
「いやー、こいつがさあ…」大矢はニコニコと照れ笑いを浮かべている。と、正治が目を凝らしてよく見ると、大矢の隣には大きなカンガルーが立って…いやしゃがんでいるではないか!身の丈は大矢より少し低い位なので、160センチほどもあるだろうか。太い皮の首輪を付けて、そこから伸びたリードはしっかり大矢に握られている。
「ど、どうしたんすか?それ…」と、もう一歩近付くと、カンガルーは機嫌の良さそうな面持ちで口をモグモグさせながら正治の方に振り返った。
「いやあ…城南動物さんさあ、さっき動物たち引き揚げに来たんだけどさあ、帰ってから気が付いたら、こいつだけスタジオの隅に忘れてっちゃったんだよねえ…なあ…」そう言いながら、大矢はカンガルーの肩のあたりをポンポンと叩いた。
「あの…俺、前に何かで読んだんですけど、カンガルーって結構気性が荒いから危険だって話ですよ…」
「んー?こいつ?あ、全然大丈夫。一人で取り残されちゃっててさ、寂しそうだったからさ、話し掛けたら、すり寄って来んだよねえ。でさ、弁当の残りのキャベツやったら、良く食うわけよ。ほら、これ!」と言って見せたビニール袋の中には、山のようにキャベツや人参の千切り、そしてパセリが入っていた。多分、皆の弁当の残りをかき集めたのだろう。
「俺、電話してきますよ」
「あー、もうしたよ。誰も出ねえんだよ。一応留守電にカンガルーが残ってるって入れといたから、その内引き取りに来んだろう」
「もし、明日の朝まで来なかったらどうするんですか?」
「何とかなるよ。ここは広いしよ。それよりそろそろ終電もなくなるから、川村、もう帰っていいよ。なあ…」と言いながらまたカンガルーの肩を叩いた大矢は、結構この状況が気に入っている様子だ。
「大丈夫ですかあ?」
「大丈夫、大丈夫。カンガルー1匹だけのことなんだから、俺1人で大丈夫!いいから、もう帰りなよ。君も疲れただろう?」
正治は何となく嫌な予感がしたが、大矢があまりしつこく帰宅を勧めるので、後ろ髪を引かれながらも帰宅の途に着いたのだった。
翌朝、大矢とカンガルーのことがやけに気になった正治は早めに出社し、昨夜のスタジオを覗いてみたが、もう誰も居なかった。制作室に上がり、早速自分のデスクから大矢の自宅に電話を入れてみた。7、8回呼び出し音が続き、ようやく大矢の眠そうな声が応答した。
『はい…大矢です…』
「あ、大矢さん?朝早くすみません、川村ですけど…」
『あー、川村君?今、何時?』
「えーと、8時半ですけど…」
『そうだ、城南動物から何か連絡入ってない?』
「え〜〜〜っ!まだ連絡取れてないんですかあ?」では、どうして大矢は自宅に居るのだろう?
『ああ…あれからさ、大変だったんだよ。実はさ…』大矢の口から昨夜の経緯がぽつりぽつりと語られていった…
昨夜、正治がスタジオを去ってから、大矢はカンガルーに弁当の残り物野菜を食べさせながら、暫く迎えを待っていた。野菜を食べ終え満足げなカンガルーは、突然前かがみ姿勢になり、気持良さそうに目を細めた。ジョ〜〜…と音がする…床を見ると、その場で放尿してしまっていたのだ。
「もう…しょうがねえなあ…」大矢はカンガルーをその場に残し、スタジオの道具室にモップとバケツを探しに行った。
道具室を物色していると、突然スタジオから「わーーーっ!」と、男性の悲鳴が聞こえた。大矢が慌てて戻ると、初老のスタジオ管理職員がカンガルーを目の前にして腰も抜かさんばかりにあたふたしている。カンガルーもそれに驚いて「フゴーッ!」と鳴き声をあげている。
近付いてきた大矢を見付けてスタジオ職員は「あ、あんた、何これ?誰かいるのかと思ったら、ど、動物じゃないですか、これっ!こんなでっかい動物、どっかに繋いどいて下さいよっ!」と憤慨する。
「はあ…すみません…カンガルーなんです。動物プロが引き取りに来てくれなくて…」
「あんた、制作の人?」
「はい…そうですが…」
「どうでもいいけど、もうスタジオ、電源落として鍵閉めるからねっ!こんなとこにこんな大きな動物置いとかないでよっ!第一、噛みつかないの?これ…」
「あ、こいつは大人しいっすよ。でも…ほら、ここにしょんべんしちゃって…はは…」
「もー、そんなの、どうでもいいよっ!後で清掃の人に言っとくから。それより、早くスタジオ空けて下さいよっ!頼みますよ、本当に…」
大矢は、遂にカンガルーと一緒にスタジオを追い出されてしまった。スタジオ前の廊下に設置された赤電話からもう一度動物プロに試しに電話を入れてみたが、やはり無駄な試みだった。時間は既に深夜1時を回ろうとしていた。この時、大矢の感受性のスイッチが入ってしまった…
「しょうがねえ…お前、今日はもう遅いから、うちに来るか?」
「フゴフゴ」
大矢はテレビ局の長い廊下をスタッフ通用口に向う…カンガルーもパタンパタンとその後を追う…通用口の前には警備室があり、常に横長のガラス窓から出入りする人々をチェックしている。大矢はいつものようにガラス窓に向かって「お疲れさまでーす!」と挨拶を投げ掛けながら通り過ぎようとした。警備室から警備員が慌てて飛び出してきた!
「な、な、何ですかっ、それはっ!」
「カンガルーですよ。番組で使った…可愛いでしょ?」
「…ご、ご苦労様ですっ…」
こうして大矢は、深夜、アブノーマルの聖域から、カンガルーを従えて現実社会に足を踏み入れたのだった。
スタジオビルを出ると、そこは春先の深夜。外はまだまだ冷たい風が肌を刺す。テレビ局の大きな門柱を潜ると、目の前は大通りだ。大矢はカンガルーが寒そうに身を震わせたのを見て、自分のマフラーを首に結んであげた。
深夜1時過ぎ…ここは新宿…大矢が住むアパートは荻窪である。とても歩いて帰る事の出来る距離ではない。大矢とカンガルーは通りに並んで立ち、タクシーを拾うことにした。しかし、派手なマフラーを首に捲いた大人の背丈ほどもあるカンガルーを見たタクシーが止まってくれるはずがない…
何台もの空車が手を挙げる彼らの前を通り過ぎて行った。
そこで、大矢はカンガルーをテレビ局の門柱の影に連れて行き、こう言い渡した。
「いいか?俺がタクシーを止めて交渉するから、それまでここでじっと待ってろよ。分かった?絶対に出て来んなよ」
カンガルーは説明する大矢の顔をキョトンと見つめていたが、再び彼が通りに向かっても後を追っては来なかった。大矢が一人で通りに立ち手を挙げると、今度はすぐに一台のタクシーが止まった。開いたドアから運転手に「あのー、ちょっと大きめのペットがいるんだけどさあ、荻窪まで一緒に後に乗せてもいいかなあ?これ、チップ付けるから」と、千円札を1枚差し出した。
「あ、いいですよ。中で暴れたりしないですよね?」運転手はそう言いながら、チップの千円札を受け取った。
「大丈夫大丈夫。大人しいんだ…じゃ、ちょっと待っててね。今連れて来るから」
大矢はすぐに門柱の後に戻った。カンガルーは大人しくそこで待っていた。
「おい、乗せてくれるってよ。行こうぜ」とカンガルーを車のところまで連れて行った。
先に大矢が乗り、中からリードを引っぱる…
「おいっ!早く乗れよっ!ほらっ!」大矢は戸惑うカンガルーを無視してグイグイとリードを引く手を強めていく…
「フゴ、フガー!」大きな身体のカンガルーがそう簡単に乗用車の狭い後部座席に乗る訳がない。
「お客さん…ペットってこれっすかあ?困るなあ…」
「そんなこと云わないで、運転手さん、ちょっと後から押してよ!」
「しょーがねーなー…」運転手は文句を言いながらも、車を降りてカンガルーのお尻を押してくれる…最初は嫌がって抵抗していたカンガルーも、運転手から後を押されると身体を倒れ込ませるように後部座席に乗ってくれた。少し窮屈な体勢だったが長い尻尾も巻き込むように収まっている。
「いいですか?ドア、閉めますよ!大丈夫ですか?」運転手は不機嫌そうに「もし暴れたら途中で降りて貰いますからねっ!」と言い放ち、車を走らせた。
居心地が悪そうに「フゴフゴ」鳴いていたカンガルーも、大矢が上半身を支えて首を撫でてあげるとすぐに落ち着き、流れる外の景色をキョロキョロと眺めている…
「大人しいねえ、でもカンガルーってのは随分でかいんだねえ!俺あ、こんな間近でカンガルー見るの初めてだなー…営業所帰っても誰も信じてくんないだろうなあ…」と、運転手も少し興奮気味だ。
やがて、タクシーは目指すアパートの前に到着した。ドアを開けて貰ったが、カンガルーは何故か窮屈な後部座席が気に入っているらしく、大矢が後から押しても降りようとしない。今度は運転手も必死だ。嫌がるカンガルーを二人がかりで何とか引きずり降ろした。
「…ったく…千円のチップじゃ合わねえよな…」運転手はそう捨てゼリフを残して去って行った。
「さ、着いたぞ」大矢はアパートの入口にカンガルーを連れて行った。
ところが、ようやくここまで来て、大矢は次の問題の大きさに気が付いた!このアパートは鉄骨2階建てのどこにでもよくあるアパート。大矢の住む部屋はその2階だ。アパートの外側には、これまた典型的な鉄製の階段が付いている。ところがカンガルーの足の形状は…これでどうやって階段を昇らせることが出来るのだろうか?…
暫く思案に暮れていた大矢は、思い切ってカンガルーを背負って階段を昇ることにした。カンガルーの懐に入って背中を向けると、うまい具合にカンガルーは大矢の背中に寄り掛かってくる…腰を落として大きな両腿を抱え、ぐっと力を入れて持ち上げてみる…一瞬カンガルーが嫌がる素振りで「フガー!」と鳴いた途端、「いててててててっ!」物凄い激痛が大矢の両肩に走った!
カンガルーの前脚には人間と同じ5本の指があって、それぞれには恐ろしくしっかりした堅くて鋭い爪が生えているのだ。カンガルーは持ち上げられる恐怖から、この10本の爪を大矢の両肩に食い込ませているのだ。
この時、大矢は鞄の中に仕事用に軍手を入れてあったことを思い出した。カンガルーの両手の大きさを確かめ、軍手の指先をそれぞれしっかり結んで、それをカンガルーの両手にはめた。そして、もう一度持ち上げてみる…今度は大丈夫…一つ問題が解決した。
しかし、背負い続けてこの階段を上まで一気に昇るには、カンガルーは思った以上に重すぎる。そこで、大矢は自分とカンガルーが階段に対して横向きになり、数段ずつ休みながら背負ってゆくことにした。これならカンガルーのスキーのような足も平行に収まるはず…なかなかの名案だ。
ぐっと持ち上げて2、3段…一旦下ろして休憩…ところが、持ち上げる時と下ろす時カンガルーは「フゴフゴー!」と鳴いて、少し足をパタパタさせる。カンガルーの脚力は凄いので、鉄の階段はバンバンバンッ!と物凄い音を立てる。
深夜の2時に「よいしょっ!」「フゴーッ!」「バンバンバンッ!」「うんせいっ!」「フガーッ!」「バンバンバンっ!」が繰り返されるのだから、他の住人はたまったものではない。
何事か、と寝巻き姿の住人が次々と外に出て、階段の上と下から大矢たちの様子を覗き込んだ。見た事のあるアパートの住人が、派手なマフラーを捲いて白い手袋をはめた大きなカンガルーを背負って必死に階段を昇っている…
「ちょ、ちょっとあんた…何してるんですか?」
「あ、す、すいません…お騒がせして…もうすぐ、昇れますんで…うんしょっ!」
「フガーッ!」バンバンバンバンッ!
「な、な、何ですかそれは?」
「あなた、ここ、ペット飼っちゃ駄目なのよ!」
「大体今何時だと思ってるんですかっ!」
「も、申し訳ないっす、っしょっと…」
「フゴーッ!」バンバンバンバンッ!「ふう〜…す、すみません…」
ようやく階上までカンガルーを運び終えた大矢を住人たちが遠巻きに取り囲んだ。大矢は上がった息を必死で整えながら、ここにカンガルーを連れて来なければならなかった止むを得ない事情と、このカンガルーを部屋で飼うつもりは決してないことを説明し、平身低頭に謝った。不思議なことに大矢が住人たちに頭を下げると、何故か隣のカンガルーもそれに合わせて一緒に両前脚を着いて姿勢を低くする。その仕草の愛らしさに住人たちの顔にも笑みがこぼれ始め、その場は何とか事無きを得たのだった。
大矢の部屋は六畳一間に三畳ほどの小さな台所、小さな風呂場にトイレ、それに一間ほどのベランダといった間取り。一人暮らしの制作マンには充分な広さだが、腰回りの大きな尻尾の長いカンガルーを招き入れてみると、想像した以上に手狭だった。大矢はまずカンガルーをベランダに出し、部屋の暖房を入れ、散らかった部屋をざっくりと片付けて、布団を敷いた。少し考えて、もう一組客用の布団を出して、その隣に敷いた。これで部屋はほぼ一杯一杯だ。それから寒そうにベランダで待っているカンガルーを再び部屋の中に入れてあげた。マフラーと軍手を外してあげても、カンガルーは落ち着かない様子で室内をキョロキョロと見回している。
「お前も大変だったよなあ…しかし、疲れたなあ…もう大丈夫だから、くつろいでいいぞ」と、ポンポンと肩を優しく叩いてあげる…カンガルーは幾分安心した様子で、自由になった前脚の爪で首や背中を器用に掻いている…
「お、身体が痒いんだったら、いいもんがあるぜ」大矢は風呂場に行き、シャンプー用のブラシを持ってきて、カンガルーの背中をブラシしてあげる…カンガルーはニコニコと気持良さそうだ(大矢曰く)…
「さ、お疲れだったな。もう遅いから、少し寝とこうぜ」と、部屋の電気を消し、布団の上に横になった。カンガルーは相変わらず布団の横でじっとしている…
窓からの薄明かりで、まるで恐竜のようなカンガルーのシルエットが浮かび上がっている…目だけがランランと大矢を見つめている…その視線が気になって、大矢は一向に眠ることができない…カンガルーが大人しくしていればしているほど、目が冴えてしまう…
「だめだ…こりゃ、酒でも飲まなきゃ寝られねえや…」と、大矢は起き上がり、台所へ行って酒瓶とコップ、冷蔵庫に残っていたウインナの袋を出して、布団の上で飲み始めた。
「悪いな…ちょっと、飲まして貰うぞ」
その様子を見ていたカンガルーは、バタッと布団の上に上がり、お辞儀をするように前屈みになると、ウインナの袋に鼻を近づけて匂いを嗅いでいる。
「おう、良かったら食っていいぞ」
しかし、カンガルーは今一つソーセージには興味を持てないようだった。
「そうか…お前、草食動物だったよな…そうだっ、いいもんがあるぜ」そう言って部屋の隅に置いてあった段ボール箱を引き寄せた。
「おととい、お袋から送ってきたんだ。気に入ったもんがあったら食っていいぞ」と箱の蓋を開いてあげる。カンガルーは鼻をフゴフゴ鳴らしながら箱の中を暫く物色していたが、やがてリンゴを一つ取り出して、両手でしっかり持ち、食べ始めようとした。しかし、どうやら丸ごとのリンゴは食べ難そうだった。
「なんだよ、意外と不器用なんだな…いいや、ちょっと貸してみ、あっちで切ってきてやるよ」そう言って大矢が手を伸ばすと、カンガルーは素直にリンゴを手渡す。台所でリンゴをざく切りにして、丼に入れて前に置いてやる。今度はカンガルーもバリバリシャクシャクと美味しそうに食べ始めた。
「よしよし、これで何だか宴会ぽくなってきたぞ…どんどん食っていいからな。足りなかったらまた切ってやるからよ」
すっかり嬉しくなってしまった大矢は、それからカンガルーを話相手についつい酒のピッチが上がってしまった…ふと気が付くと、すっかり飲み過ぎてしまっている。自分が何故こんな所で飲んでいるのかもあまり良く分からなくなってしまっていた。疲れも手伝ってか、気分が悪くなってくる…
「ごめん!俺、何だか気持ち悪くなってきちゃった…ちょっとあっちでもどしてくるわ…」と、中座を詫びて台所の流しで「オエ、オエーッ」とやっていると…誰かが優しく背中を擦ってくれる…
「どうも…すいません…」と振り返ると…擦ってくれていたのは、なんとカンガルーだった!
正治は、電話の向こうに繰り広げられる大矢の必死の説明に、涙を流して笑い転げていた。正治が笑う度に大矢は『いや、笑い事じゃないんだよ』『冗談で言ってるんじゃないんだよ』と懸命に弁解し、それがますます笑いを誘うのだった。
「でも、背中擦ってたっていうのは、ちょっと脚色でしょ?」
『違う違う違う違うっ!本当に本当にそうなんだったら!』
「ぶはははははは!で、それからどうしたんですか?」
『俺は寝床に戻って、そのまんま寝ちゃったんだけど』
「カンガルーは?」
『あー、俺の横で寝てるよ。お前の電話で目は覚ましちゃったみたいだけど…なあ、おはよう…』
「カンガルーってどうやって寝るんですか?」
『え?犬や猫とおんなじだよ。布団の上で斜めって言うか横になって…』
「あははは…いや、すいません。とにかく城南動物の方には今電話しときますから、暫くカンガルーとそこにいて下さい」
『分かった、俺たちもう少し寝てるわ』
正治はすぐに動物プロに電話し、大矢の住所と電話番号を伝え、カンガルーを速やかに引き取るように伝えた。
夕方、大矢がしょんぼりと制作室に姿を現した。
「おはようっす!」正治が声を掛ける。
「ああ…おはよう…」
「どうしました?カンガルー、引き取りに来ました?」
「ああ…調教師が、すっげー怒ってた…カンガルーは結構獰猛で危険なんだって…こんなことして怪我したらどうするんだって…」
「あー、やっぱりねえ…」
「そんな危ねえもん、忘れて置いてくなって逆に怒鳴ってやった…トラックで連れてった…檻に入れられてさ…なんか寂しそうにさ…俺のこと振り返って見つめるんだよ…ここに置いてくれって感じでさ…俺、生まれて初めて動物が愛おしいって思ったよ…本当に……」
「あの…大矢さん、もしかしてあのカンガルーに名前付けました?」正治が尋ねると大矢は照れ臭そうにうつむいて「ん?…カンちゃん…」と、小さく答えた。
[了]
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