昭和であった5 〜テレビ時代の到来!〜
昭和32年…
我が家は父の関西勤務が終わり東京に戻って来た。
東京で入居する予定だった社宅の完成が大幅に遅れ、我々家族はおよそ半年の間、当時祖母と叔母夫婦が暮らす目黒の実家に同居することとなった。
丁度その頃のことである。
我が家に大変なことが起こった!
父親がテレビ受像機を手に入れたのである。
当時のテレビ受像機1台の値段は14型で10万円以上…大卒の初任給が1万円程度の頃なので、普通の勤め人のサラリーでは手の届かない高級品で、家族の誰も(もちろん叔父叔母の家族も)我が家にテレビが導入されるとは夢にも思っていなかった。
実は…父の東京本社での新たな勤務部署は宣伝課だった。
当時民間でテレビ放送を行なっていたのは日本テレビとKRTテレビ(現・TBS)の2局だけだったが、昭和34年に向け新たな民間放送局・フジテレビが開局準備に入っていた。
父の勤めていた企業はその協賛クライアントとして新たに編成される番組提供の準備を行なうこととなったのだ。
開局間近のフジサンケイグループからなのか、勤めていた企業の配慮なのか、詳しい事情は子供の私にはよく分からなかったが、街頭テレビが主流だった時期にテレビ受像機が到来してしまったのだった。
突如我が家にテレビがやってきた!
もちろん子供の私や兄や従兄姉たちは大喜び。
毎日自宅でテレビが観られるのだ。
ただし、自宅所有のテレビはまだまだ僅かだったので、野球の巨人戦やプロレス中継がある時には近隣の人々が我が家に5人10人(時にはもっと)押し寄せてくるので、必然的にチャンネル権は大人にあり、子供はそれを垣間見る立場を守らなければならない…
それでも午前中や夕方の早い時間帯、さらに重要な番組の合間など、子供たちが好きに観ることが出来る隙間もある。
当時5才の私としては画像が動くだけでも大感激、瞬く間にテレビの虜になってしまったのは言うまでもない…
当時のテレビ受像機はもちろんまだ真空管式。
電源スイッチを入れても画像がブラウン管に映るまで1、2分待たなければならない…
その間テレビの前で固唾を飲んで何も写っていない画面を凝視し続ける…
やがて映し出される映像も不安定で、毎回あちこちつまみや室内アンテナを調整しながら安定させなければならない。
まあ、ちょっとしたセレモニーだ。
ここでちょっと昭和32年当時のテレビ番組表を見てみよう。
NHKを含めチャンネルは3局のみ。
各局番組数が物凄く少ないことが分かると思う。
今の様に早朝から深夜まで番組は埋まっていないのだ。
朝ちょっとニュース番組があって… 昼までは何もない… 昼時の放送が少しあって… 午後から夕方までも何も放送されない… で、夕方6時から各局番組が取り揃えだし、夜11時には全ては終わってしまう…
番組のない時間帯は、画面にテストパターンが映し出されている。
テストパターンとは試験電波放送用に各局が用意した図形柄で、これで受像機の画面を調整しておくことも出来るのだ。
さてさて、ではこの当時の私の心に強く残った当初の番組を古い順に振り返ってみよう。(結構ある…)
『ジェスチャー』(放送・昭和28年〜)
NHKのゲーム番組である。
司会は当時まだNHKにいた小川宏。
男性の白組と女性の紅組に分かれて、いわゆるジェスチャーゲームで競うゲーム番組。
白組のキャプテンは落語家の柳家金語楼、紅組はターキーこと水之江滝子。
大の大人達が身振りと手振りでもどかしそうに必死になっている姿は抱腹絶倒。
特に『おいといて…』の仕草で上手く回答に辿り着くと『なるほど…』と感心させられた。
これがゲーム番組の事始めだったと思う。
『私の秘密』(放送・昭和30年〜)これもNHK、クイズ番組である。
「事実は小説より奇なりと申しまして、世の中には変わった珍しい、あるいは貴重な経験や体験をお持ちのかたが沢山いらっしゃいます…」とは番組冒頭、当時まだアナウンサーだった高橋圭三の決まり文句。
登場する人物が何者なのかをレギュラー回答者が推測して当ててゆくという構成。
こんなに面白いクイズの形を良く思いついたな〜と感心していた。
アメリカの大ヒット番組のリメイク版だったのを知ったのは大人になってからのこと。
『スーパーマン』(放送・昭和31年〜)
KRTテレビ(現・TBS)で放送された鳴り物入りの輸入アメリカンヒーロー番組。当時としては特撮満載の夢のような週1回のレギュラー番組。
「弾よりも早く、力は機関車より強く、高いビルディングもひとっ飛び!」
「空を見ろ!」「鳥だ!」「飛行機だ!」
「いえ、スーパーマンです。スーパーマンはメトロポリタン、デイリープラネットの新聞記者クラーク・ケントに姿を変え、正義と真実を守るため、日夜戦い続けているのです(ちょっと記憶違いもあるかも知れない…)」
この番組冒頭の決まり文句を唱えながら、背中に風呂敷をはためかせ、町の路地を駆け巡った子供達がどの位いたことか…もちろん私もその1人だった。
遂には塀や公園の遊具の上から飛び降り、大怪我をする子供が続出し、ちょっとした社会問題にもなったが、私の記憶では概ねの大人達は笑って眺めていた。
あらゆる意味で長閑な時代… 私はそんな感じで良いと今でも思っている。
『チロリン村とくるみの木』(放送・昭和31年〜)
NHKの子供向け人形劇。
平日夕方のベルト番組だった。(後の『ひょっこりひょうたん島』と同じ枠)
チロリン村という小さな村での出来事が次々と続く…
登場人物は野菜や果物や動物。
確か人間は一切登場しなかった様に覚えている。
イタリアの有名童話『チポリーノの冒険』がベースになっていたことは、大人になってから知った情報。
主役のピーナッツのピーコちゃんの声は黒柳徹子。
私が大好きだったのはカッパのコン吉。
「コンキリプ〜!」の決まり文句にハマっていた。
声は歌手で女優の桜京美だった。
『名犬リンチンチン』(放送・昭和31年〜)
アメリカの大ヒット番組。
日本ではKRTテレビ(現・TBS)が週1回のレギュラーで放送した。
19世紀後半のアパッチ砦を舞台に、孤児のラスティーとその愛犬リンチンチンが大活躍してさまざまな騎兵隊の窮地を助けてゆくストーリー。
騎兵隊が正義でアパッチが悪者という構造ではなく、どちらにも良い人も悪い人もいるというストーリー構成が好きだった。
そして何よりも私は犬や動物が大好き!
近所の野良犬にいくら追いかけられても、いくら噛まれても嫌いになることは出来なかった。
『危険信号』(放送・昭和31年〜)
NHKの視聴者参加型ゲーム番組。
司会は木島則夫。(だったと思う)
参加者はペア2組で戦うが、スタジオに大きな鉄道模型のジオラマが設置されており、線路柵に大きな風船が置かれている。
機関車の先端には針が仕込まれていて、1周回らないうちに風船を持ち上げなければ風船は割れてそこでタスクは終了。
ペアの1人がそれを監視していて、もう1人のゲームやクイズへの挑戦者に都度知らせると、挑戦者はタスクを中断してジオラマに移動し風船を持ち上げなければならない…という仕組み。
これ、凄くドキドキした!
「ああっ、だめだめ〜、早く早くっ!」と、テレビの前で思わず大声を上げていた。
『ビーバーちゃん』(放送・昭和32年〜)
これは日本テレビ放送の輸入番組。
アメリカのホームドラマ。
ビーバーと呼ばれる主人公、本名はセオドア。
アメリカの典型的な中流家庭クリーバー家の次男坊で、日常のちょっとした事件をテーマに繰り広げられる毎回読み切りのドラマ。
よく覚えているのは、古くなった芝刈り機のエンジンを使ってお兄ちゃんがビーバーに作ってくれた子供用の手作り木製自動車。
ビーバーはそれを運転して街中に繰り出してしまい、お巡りさんに停められて騒動となる話。
2階子供部屋の2段ベッドとバスルーム…広い台所の大きな冷蔵庫には巨大なミルク瓶…土足の生活…ガレージにはサラリーマンの父親の車と高校生の兄の車…芝生の敷かれた庭…何から何までアメリカの普通の男の子を取り巻く環境のレベルの高さにビックリ仰天した。
いずれ日本経済も成長したらあんな生活が訪れるのか…と、期待に胸を膨らませていた。
『ニッカヒッチコック劇場』(放送・昭和32年〜)
アルフレッド・ヒッチコックが書き下ろし、監修した毎回読み切りの30分のアメリカンミステリードラマ。
ウィークデーの夜、就寝前だったので多分8時台だったか…
ニッカ酒造1社提供で放送は日本テレビ。
機知に富んだストーリーもさることながら、映像や出演俳優の芝居、全てのクオリティーの高さに子供ながら驚愕した。
父が仕事から早く帰宅していた時には、アルフレッド・ヒッチコックという人物がアメリカ人ではなくイギリス出身の映画監督であること、その独自の撮影手法などいかに凄い才能の持ち主であるか、様々な講釈を聞かされ、私の脳内にはヒッチコックへのリスペクトが深く刻まれることとなる。
『ヘッケルとジャッケル』(放送・昭和32年〜)
この時期の放送では、各局番組コンテンツを確保すること自体が大変だったらしく、アメリカからの買付短編アニメーションが多かった。
ヘッケルとジャッケルはその草分け的シリーズでKRTテレビ(現・TBS)放送の30分枠。
カラスではなくカササギの兄弟である。
2羽はイタズラ好きの放浪者で、毎回騒動を起こし、敵役の強面の犬や猫を痛い目に合わせるというトム&ジェリー的ギャグの積み重ね。
私にとってはヘッケルとジャッケルこそがこの手の短編アニメーションの原点だった。
『マイティーマウス』(放送・昭和32年〜)
これは当時どこの放送局で放送されていたか、覚えていない。
スーパーマンの完全パロディーである。(とは、あくまでも私の印象)
悪役は町の意地悪野良猫だったり、人間の犯罪組織だったり、ストーリーによってそのスケールは変わる。
パールという美人(美鼠?)ヒロインも登場する。
番組の最後にマイティーマウスが登場して「やあ!今日も見てくれてありがとう!」と挨拶するが、私は『何故僕が観ていることが分かるのだろう?』と、テレビ受像機のどこかにカメラが隠されているのではないかという疑惑を捨てられずにいた。
ずっと後になってのことだったが、我が家にアメリカ人の男性が遊びに来たことがあって、彼が日本の百貨店のエレベーターには制服を着た女の人が乗っていて「Away! MightyMouse!(いけ!マイティーマウス!)」と言うので大笑いしてしまった、と言う。
「上へ参ります」がそう聞こえるらしい…余談でした。
『名犬ラッシー』(放送・昭和32年〜)
目黒の父親の実家に叔父(父の姉の夫)の母親である『吉田のおばあちゃん』が一時同居していた。
彼女は元・陸軍大将夫人で戦後もかなり資産を持っていたので、我々がテレビ受像機を手に入れて程なく、自分の部屋に自分用のテレビを購入した。(周囲は結構ビックリしたが、とやかく言う筋合いはなかった…と思う)
彼女は私をとても可愛がってくれていて、名犬ラッシーに登場する主人公の少年ジェフと私が似ていると言って、いつもこの番組を一緒に観たがった。(私は日本人の子供なので金髪の主人公とは似ても似つかないと思ったのだが…)
なので『名犬ラッシー』は優しい吉田のおばあちゃんとの絆を象徴する番組である。
長閑な田園風景の農家の一家を取り巻く様々な出来事…
主人公の息子ジェフとそこに飼われている利口なコリー犬ラッシーが窮地を解決してゆく。
19シリーズ続いたアメリカの大ヒットドラマである。
日本では初期にはKRTテレビ(現・TBS)が放送した。
『三菱ダイヤモンドアワー』(放送・昭和33年〜)
日本テレビ、金曜夜8時からの1時間枠。
三菱電機がテレビ普及を目指して1社提供していた。
隔週でプロレス中継とディズニーのテレビシリーズが放送された。
『日本プロレス中継』
力道山大活躍の日本プロレスがこの枠に合わせて国際試合を興行し中継された。
毎回(月2回)テレビが置かれた我が家の仏間は近所の人たちで一杯になり、子供が帰された後は宴会のようになっていたのを覚えている。
『ディズニーランド』
毎回「未来の国」「おとぎの国」「冒険の国」「開拓の国」いずれかのテーマが選ばれ、ウォルト・ディズニー本人が進行役として番組が進められてゆく。
毎回オリジナルのアニメーションや名作短編映像、フロリダのディズニーワールド紹介、ドキュメンタリーフィルムなどがクオリティーの高い映像構成で映し出される。
2週間に1回、絶対に見逃せない1時間だった。
昭和35年からはカラー放送が始まり、カラー受像機が設置された品川駅まで観に行った記憶がある。
『パパは何でも知っている』(放送・昭和33年〜)
アメリカンホームドラマである。
スプリング・フィールドという架空の街の中流家庭… 賢明でリベラルな企業管理職の父親と優しく賢い母親に育てられている一男二女のティーンエイジャーの家庭に持ち上がる数々の問題を主人公の父親が知恵と愛情で解決してゆく…
アメリカの家庭はかくあるべき… という当時のティピカルな理想家族を描き出し、アメリカでは視聴者から絶賛され、多くのエミー賞を獲得した人気番組。
私にとっては夢のような世界… 当時の日本では間違いなく中産階級の暮らしぶりだった。
『日本はあんな人たちと戦争したんだ… 』と、あらゆる意味で素直に不思議だった。
『月光仮面』(放送・昭和33年〜)
テレビが生んだ和製ヒーロー第1号は誰が何と言おうとも月光仮面に間違いない。
『どこの誰かは知らないけれど、誰もがみんな知っている〜』とは主題歌の冒頭。
当たり前だが、深い…
白いターバンに白いタイツにマントにサングラス… 二丁拳銃使いだが、超人的な運動能力で決して人は殺めず懲らしめるだけ…
曰く「憎むな、殺すな、赦しましょう」。
月光菩薩になぞられた仏教的タオイズム(あるいは道教)を漂わせているところがアメリカの『スーパーマン』とは決定的に違う。
子供達の人気は爆発的で、当初10分番組だったが、あっという間に30分番組になった。
町の子供たちは風呂敷マントに加えて風呂敷ターバンマスク(着けるコツがあった)とおもちゃのサングラス、さらに二丁拳銃が必要となった…
さて、翌年昭和34年から民間放送局は3局となり、各局放送時間も膨らむこととなる。
もちろん、テレビ受像機1台の価格も下がり始め、各家庭への普及も急ピッチに進み始める。
従って私ら子供達の番組選択権も瞬く間に広がってくるのだ…
次はいよいよテレビが本格的普及期に入ってからの数年間、私の記憶に刺さった数々のテレビ番組を紹介しよう…
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