昭和であった20 〜ご馳走様!年末年始編 〜
昭和のあの時代… 我々子供たちにとって1年のうちで一番のイベントは何と言っても年末年始だった。
夏休みが終わって以来、子供にとっての大きなイベントはせいぜいが運動会くらい。
ほぼ何もない凡庸な日常が続く…
そしていよいよ12月に入ると、にわかに街や家の中が浮き足立ってくる。
街は年末の大売り出しやクリスマスに向けての飾り付けで普段よりずっと華やいでくる。
やがてお歳暮時期が訪れ、我が家にも次々と客が訪れ、頻繁にお歳暮の荷物が届き始める。
母は付き合いの深いご近所や親戚と連絡を取り合い、交換できるものを交換し、不必要のお届け物はあしげく繁華街の各デパートに出向き商品券と交換するのだ。
父の仕事も明らかに忙しそうだ。
夜は忘年会などの付き合いも増え、家でゆっくりする暇もなくなってくる。
ただし、ボーナスが支給されたせいなのか、この時期母は俄然機嫌が良く、年末の挨拶回りなど外出も多くなる。
そして私と兄は、じっとその日を待ち続けるのだ。
クリスマスだ!
家の中に小さなクリスマスツリーを飾る。
夜には家のツリーの電飾が輝きはじめ、日々気分も盛り上がってくる。
両親には今年のクリスマスプレゼントに欲しいものも伝えてある。
実は私は結構大きくなるまでサンタクロースの存在を信じていた。
もちろん、私には3歳上の兄がいるので、就学前の早い内から「サンタなんていないんだよ。プレゼントはこっそり親がくれるんだよ」と教えられていた。
近所の年上のお兄ちゃんたちからも「サンタなんて、ありゃ親だよ」との言葉を沢山聞いていた。
なので、自分でも「そうだよね〜」と、サンタクロースの存在なんて全く信じていない風を装っていたのだが、実のところどこかで固く信じていたのである。
本当に親はそこまでするのか?...
実は親はサンタクロースと綿密に連絡を取っていて、彼が決して姿を現さないのと同じ様に、あからさまにサンタを肯定し…疑いを露骨に笑顔で濁し…それはまるでサンタクロースはいないかのように共謀して装っているだけなのではないか… 我々子供はそれに騙されているだけではないか… というかなり屈折した確信を何年も拭い去れずにいたのだ。
ということで、私はクリスマスプレゼントを大変楽しみにしていた。
クリスマスイブの日…
父親はまず家にいることはない。
行きつけのバーやクラブで忘年会パーティーがあるからだ。
我々は前夜祭とまではいかないが、まあまあのご馳走を頂いて、クリスマスの飾り付けを完全なものにし、プレゼントを楽しみに就寝する。
翌朝になると、枕元にプレゼントが置かれている…
期待した通り、欲しかったものだ!
兄は私に『ほらね…』と目配せする。
私も心の中で『ほらね…』と納得する。
そして、夕刻前…
我が家には『小川軒』から大きなローストチキンとクリスマスケーキが届く…
これは、父の仕事上付き合いのある会社の社長さんからのプレゼント… 今考えれば所謂『つけとどけ』である。
それに、母が作ったスープや我々の大好きなポテトサラダとグラタンが加わり、恒例の家族ディナーが始まる。
この日は父も余程のことがない限り比較的早めに帰ってきて、晩餐に加わるのが慣例だった。
毎年楽しみな美味しい、楽しいクリスマスの夕餉であった。
いよいよ年の暮れが近づく…
父の仕事納めは大体12月の28日か29日。
それに向けて夜遅くまで大変に忙しそうであった。
もちろん、我々の学校は冬休みに入っている。
いよいよお正月への準備の始まりだ。
まず、家の大掃除が始まる。
とはいえ我が家は小さな3DKの社宅アパートである。
家族4人で手分けして取り組めば半日で終わってしまう。
大掃除を終えると、まず第一の買い出しだ。
繁華街に出掛け、おせち料理の食材を買いに行く…
こんにゃく、鶏肉、昆布、蓮根、くわい、里芋、人参、大根、牛蒡、黒豆、かずのこ等々…おせち用にいつもより上等な京野菜などの食材を吟味し、気前よくどんどん購入してゆく。
ここからはひたすら母の下拵えが始まる…
皮むき、下茹で、水抜き、塩抜き、アク抜き…そして1つ1つの食材を別々に丁寧に出し汁と調味料で炊き上げてゆく。
我が家はおせちを大量に用意する。
正月三が日明けには大勢の来客があるからだ。
母の作る1つ1つのおせち料理を紹介しよう。
『かずのこ』
購入するのは数の子の塩漬け。
時間をかけ塩抜きをして、出汁や調味料の浸し汁に漬け、味を染み込ませてゆく。
『ごまめ』
鍋で空炒りし、砂糖と調味料でゆっくりと焦がさないように味を付ける。
『くわい』
我が家ではおせちには必ずくわいを入れる。
当時は関東ではくわいは珍しい食材だった。
小さめのくわいは探すのも大変だが、小さいと皮を剥くのも大変だ。
父も我々子供も手伝って、慎重に綺麗に皮むきした物をゆっくりと酒とだし醤油で炊き込んでゆく。
『|筍《たけのこ》』
アクを抜いた筍の水ゆでを買ってくる。
さっと湯掻いて臭みをとり、だし汁、酒、醤油、みりんで煮て、あっさりと味を染み込ませる。
『こんにゃく』
アク抜きをして、包丁を入れて形を作り、少し濃い味付けでゆっくりと煮込んでゆく。
『なます』
大根と人参の千切りに塩を振って水抜きをし、酢と砂糖に和え、調味料で味を決める。
柚子の皮が添えられる。
『海老』
大振りの大正海老は背腸を抜き、酒と調味料で炊き上げてゆく。
『牛蒡』
良く皮をこすり洗いして落とし、これも酒と醤油とだし汁でで炊き上げる。
『鶏肉と蓮根』
鶏肉と蓮根は一緒に炊く。
鶏肉はよくアクを取り、蓮根と一緒に甘辛く炊いてゆく。
『黒豆』
これは手が掛かる。
黒豆を1日かけて水で戻し、重曹を入れた塩水に鉄釘などを入れ、アクを取りながら下茹でする。
最後にたっぷりの砂糖と醤油で何度も炊き込み味を決めてゆく。
盛り付けには必ず丁呂木を添える。
『昆布』
水で戻した昆布をカットし形を造り、出し汁と醤油と砂糖で炊き込んでゆく。
『人参』
人参は我が家では京人参を使う。
梅の花形の型でカットし、やはり出し汁、醤油、みりんで炊き込む。
『椎茸』
干し椎茸を水で戻し、カットせず丸のままをやはり甘辛く炊き込んでゆく。
『里芋』
皮を剥いた里芋…小さな物なら丸のまま、大振りなら半分にカットし、我が家では比較的あっさりとした味付けで煮込んでゆく。
これだけの作業を大晦日までの2〜3日で行うのだ。
多分正月前には当時はどの家でも多かれ少なかれこのおせちの仕込みをやっていたと思う。
煮込み料理は筑前煮のように食材を一緒に煮込む家庭もあれば、我が家の様に1食材ごと、別々に炊き込みそれぞれの素材の美味しさを引き出す工夫を施す家庭も決して少なくなかった筈だ。
近所の商店街にはまだスーパーなどの量販店は少なく、出来合いのおせち用煮物はまだまだ気軽に売られてはいなかったし、デパートのような高級量販店の惣菜はかなり高価で、庶民はいくらお正月と言えど、気楽には購入しなかった。
ご近所の仲良し家庭同士で協力し、それぞれに得意の煮物を担当して分け合うという方法も東京では多かったと思う。
東京という街はかつてはそういう気質だったのである。
加えて近所の米屋からお餅と鏡餅が届く。
お餅が柔らかいうちに角餅に切り分け、鏡餅を飾り付けアパートの小さな玄関脇の棚上に飾る。
さてこの間、父と我々子供は我が家におよそ100年前から受け継がれているおせち料理やお屠蘇の重箱セットを準備する。
椿油でメンテナンスされ大事に仕舞われている漆塗り金蒔絵の正月道具だ。
戸棚の奥に収められた桐箱から出し、1つ1つぬるま湯で傷付けないように慎重に洗い、ガーゼ生地で拭き上げておく。
さらに、台所は母に任せ、銀座の三越や高島屋に出向き、手作り以外のおせちの食材を購入しに行く…
こういうことも父は我々子供を荷物持ちに同行させ、何をどう選ぶのか必ず見せていた。
『かまぼこ』
我が家ではおせちの練り物類は小田原の老舗『かごせい』と決まっていた。
当時『かごせい』の高級蒲鉾は東京では有名デパートの食品売り場でしか買えなかった。
もちろん紅白で揃える。
『伊達巻』
伊達巻も同じく『かごせい』のものを購入する。
『錦卵』
今ではおせち用の錦卵は当たり前の様にスーパーで売られるが、当時は関東では珍しいものだった。
父にとっては祖母が京都育ちだったので、おせちには錦卵は欠かせない食材だったようだ。
多分我々子供も、おせちの中では錦卵が一番好きだったと覚えている。
『栗きんとん』
栗きんとんも我が家では購入するものと決めていた。
多分、アク抜き、裏漉しなど調理に大変手間が掛かるからであろうか。
それとも買った方が美味しかったのか…
『鮭の昆布巻』
両親は私が生まれる前数年間は北海道で暮らしていた。
その頃、昆布巻は鮭が美味しかったらしく、昆布巻は鮭の昆布巻が定番となっていた。
『子持ち昆布』
子持ち昆布も両親の北海道時代からの好物だったようだ。
にしんの卵を昆布に産みつけさせ、それを塩漬けしたもの。
特に母の大好物だった。
『|鱧板《はもいた》』
鱧板は練り物。
鱧の身のすり身を焼きかまぼこにしたもの。
これも当時は関東で手に入れるのは大変で、本物の鱧のすり身を使ったものは希少だった。
と、これだけの食材を有名デパートの食品売り場をはしごして大量に仕入れてくるのである。
そして大晦日…
明るい内までおせち料理の準備は続いている。
家族全員、特に母親は追い込みで浮き足立っているので、昼食はかなりおざなりなものだった様な気がする。
やがてテレビでは民放の『レコード大賞』に続きNHKで『紅白歌合戦』が始まる…
丁度その時間帯だったと思う。
父が大量の蕎麦を茹で上げるのだ。
『年越し蕎麦』である。
その年によって異なるが、買い物のついでに購入してきた天ぷらと一緒に供されるのが定例だったと思う。
蕎麦はデパートの食品売り場で購入してきた手打ちの生そばだったので、毎年とても美味しかったのを覚えている。
そして、ようやく父は寛いで酒を飲み始めるのだった…
年越し蕎麦も食べ終え、紅白も終わり、『ゆく年くる年』が始まり、近所の寺から除夜の鐘の音がうっすらと聞こえてくる…
我が家では家族揃って新年の挨拶を交わし、防寒の上着を着てすぐ近所の『品川神社』に初詣に出掛ける。
お参りの後、神社で温かい甘酒を頂き、帰宅後はすぐに就寝となる。
そして、元旦の朝、就寝が深夜だったので起床は比較的遅い時間だ。
家族にはいつもとは違う小綺麗な服を用意される。
母も和装に着替え、台所でお雑煮の準備を始めている。
テーブル上にはおせちが綺麗に盛り付けられたお重が並べられる。
お屠蘇は歳の若い順に…いつも私が一番最初だ。
待ちに待ったお年玉が私と兄に手渡される。
そして『お雑煮』…
我が家のお雑煮は、元旦は焼き餅と かまぼこ、鶏肉、三つ葉のあっさりすまし汁。
2日目は焼き餅が煮餅になる。
3日目は具がぐっと増え、里芋や人参、大根、青物などが加わり具沢山の味噌仕立てとなる。
本来は3日目の味噌仕立ての時には鶏肉ではなく猪の肉(父の本家は元々薩摩の出身だった)だったらしいが、東京では猪肉は手に入らなかったので、我が家では鶏肉や豚肉を代用していた。
私はお餅が大好き!
焼き餅でも煮餅でも、朝から3つ4つは食べていたと思う。
正月4日目…
父の仕事初めの日。
会社の仕事始めは朝の新年顔合わせで終わる。
そして、父が課長を務める課員の殆どが我が家に押しかけて来るのだ!
その人数はおよそ40名ほど…
もちろん一斉にではないが、入れ替わり立ち替わり次々と訪れ、皆それぞれに食卓についてお祝いの酒を飲み始める。
少し飲んで、直ぐに帰る人もいれば、ずっと居座る人もいる。
何度もいうが、我が家は社宅の3DKのアパートである。
キッチン内は母と手伝いに来た課員の女性事務員、さらに同じ社宅の奥さんなど、常に4〜5人でてんやわんや。
残った三部屋にはそれぞれに座卓が置かれ、そこには作り置きしていたおせちや、お歳暮でいただいたハムやチーズ、さらには母おお手製の大量の春巻きやサラダ、ローストビーフ、サンドイッチなどが所狭しと並ぶ。
小さな玄関はすぐに靴で溢れかえり、収まり場所のない靴がドアの外の階段にどんどん並ぶことになる。
課員以外にも同じ社宅の◯◯ちゃんのお父さんや□□くんのお父さんも加わったりする。
寒いのに溢れた若手社員がベランダで大騒ぎすることもあるが、ご近所も皆同じ会社の人々なので、事情は承知しており、居場所提供してくれる人こそいるが、文句を言う人は誰もいない。
もちろん、私と兄の隠れ場所などない。
一緒にこのぎゅうぎゅう状態の新年会に加わるしか居場所はないのだ。
しかも、これだけの訪問者の数なのに我々子供へのお年玉は一切貰えない。
何故なら父が訪れる課員たちにお年玉禁止令を厳重に言い渡していたからだ。
今考えれば正しい処置であったことは分かるが、当時はちょっと残念なルールであった。
やがて、学校が始まる頃の1月7日、『七草粥』の日がやってくる。
私はお粥やおじやが大好き!
七草粥には残ったお餅を入れて、私にとってはご馳走の日であった。
最後は1月11日の『鏡開き』だ。
前日から母が小豆を煮てお汁粉を作ってくれる。
鏡餅や、もう水餅となった残り物の切り餅をこんがりと焼いて、お腹いっぱい大好きなお餅入りのお汁粉を頂く。
正月飾りも全て取り外され、我が家は再び新しい歳の日常を迎えるのだ。
何とも贅沢なお正月最終儀式であった。
こうして我が家のお正月は幕を閉じる…
年末年始は私の子供時代の美味しいご馳走の大イベントなのであった。
昭和30年代の『食』の思い出はこれで終了とする。
次回は、私を取り巻いていたストーリーへの目醒、さらに夢中になったストーリー漫画の話をしようと思う…