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昭和であった4 〜私の昭和ビート(その2)〜

さて、昭和30年代に入り、私は東京・品川の社宅から幼稚園に通い、さらに近所の小学校に入学…
我が家にはいち早くテレビ受像機が導入された。
私は自宅中心の環境から、近隣や学校の子供コミュニティーへと世界が広がり、音楽環境や音源も親に与えられるものばかりではなく、自主的に自分で広く探索する様になる。
テレビの音楽番組の影響も大きく、世の流行にもどんどん敏感になった時期だ。

大きかったのは自分のラジオを持てたことだ。
兄から貰ったゲルマニウムラジオ…近所の公園脇に設えた秘密基地に持ち込んでは、アンテナ線を駆使してFEN(極東米軍放送局)を検波していた。

当時私が持っていたゲルマニウムラジオと同型のもの。
イヤホンとアンテナ線とチューナーを駆使して微かな放送波を探してゆく…

やがて、その秘密基地を共有していた友人が当時は高価な貴重品だったトランジスターラジオを持ち込んでくれた。
以降秘密基地には最先端のポップスが不自由なく聴ける様になる。

トランジスターラジオは当時大卒の初任給と同じくらい高価なものだった、
検波感度は高く、音はスピーカーで増幅される…
秘密基地の環境は一変された!

加えて、ヒット曲は手頃なドーナツ盤EPとして発売される様になり、かなりの割合の世帯でポータブルレコードプレイヤーが普及し始めた。
友人の家に遊びに行っても、家に流行歌のドーナツ盤があり、レコードプレイヤーを見かけることも珍しくなくなってきた。

外出にも持ち運べるポータブルレコードプレイヤーはレコード市場に大きく貢献する。

この頃の私の興味はアメリカのアイドルシンガーたち…
ニール・セダカの『オーキャロル』『恋の片道切符』…

ニール・セダカ

ポール・アンカの『ダイアナ』『君は我が運命』…

ポール・アンカ

コニー・フランシスの『カラーに口紅』『ボーイハント』…

コニー・フランシス

もちろん…
エルビス・プレスリーの『監獄ロック』『G.I.ブルース』…

エルビス・プレスリー

中でも…
ポールとポーラの『ヘイポーラ』は大好き中の大好きだった。

爆発的大ヒットとなった『ヘイポーラ』。
ヒットチャートにいくつもの記録を打ち立てた。

アメリカンポップス…
今、よく考えてみるとそれらはアップテンポの楽曲にしろ、メロディアスなバラード曲にしろ、明らかにそれ以前のブロードウェイ系のポピュラーソングとは全く異なったビートや旋律を持っていた。
これはロックンロール、つまり黒人音楽のリズム&ブルースの影響を大かれ少なかれ受けているという点で全く新しい時代の流行歌だったのだろう。
次の時代の本格的ブリティッシュロック時代、ニューフォーク時代、モータウンサウンドやアトランティックレーベルに代表されるR&B時代への道筋が創られることとなった。

もちろん日本でも洋楽ポップスがもてはやされることとなったものの、英語の原曲は日本人の聴衆には今一つ親しみが持てないらしく、殆どの洋楽ヒット曲は日本語の訳詞(今見ても結構名訳が多かったと思う…)が付けられ、主に日本語カバー曲がヒットチャートに並ぶことになる。
結果、テレビやラジオには海外のヒット曲をカバーするアイドル歌手が次々と登場することとなった。

当時のこういった洋楽カバーシーンのタレントやミュージシャン、さらにその興行権を牛耳っていたのが、かの『渡辺プロダクション』。
戦後米軍キャンプへの興行の手配から始まったジャズミュージシャン組合のような存在だったが、世の洋楽ブームとテレビ受像機の普及の波に乗って、日本の洋楽シーンを掌握する一強巨大芸能プロダクションへと成長する。
後に分化し、多くの芸能事務所や制作会社を傘下に抱えることとなる。
因みに旧ジャニーズエンターテイメントもその傘下。

渡辺プロダクションの大成功の重要な足掛かりとなったのは、歌謡テレビ番組だった。
まず1つ目は『ザ・ヒットパレード』

番組のレギュラーバンドはスマイリー小原とスカイライナーズ

昭和34年開局したばかりのフジテレビは放送番組編成の為に日々番組提供スポンサー発掘に躍起になっていたが、未だ普及率の上がらないテレビの広告効果については各企業は懐疑的で、思うように営業成果を上げられずにいた。
洋楽ブームで莫大な収益を得ていた渡辺プロダクションはそこに目を付け、新たなメディア進出を狙って一大音楽バラエティー番組『ザ・ヒットパレード』をフジテレビとの共同制作番組として持ち込んだのだ。
当時人気絶頂期のミッキー・カーチスを司会にスタジオに生バンドオーケストラをセット。

当時アイドル系ロック歌手の筆頭だったミッキー・カーチス

毎回多数の豪華人気歌手をゲストに招いての煌びやかな洋楽歌謡番組が火曜日のゴールデンタイムに放送された。
丁度私が小学校に就学した年の夏のことである。
この番組に登場する数々の楽曲やポップスアイドルたちに夢中になり、私も含め多くの子供達が彼らを真似て町の路上で歌っていたことか…

私が夢中になったのは…
『ザ・ピーナッツ』
デビューしたてのザ・ピーナッツはこの番組のレギュラーとして番組の顔となり、番組のヒットとテレビ受像機の普及で、一躍国民的なアイドルとなる。

双子のデュエット、ザ・ピーナッツ

当時、私の父は横浜ゴムというタイヤメーカーの宣伝部のスタッフだった。
新商品ハマフォームというマットレスのCMにザ・ピーナッツを起用し、実際に撮影や録音にも立会っていたので、常に父は彼女たちのことを「おピー」と呼んでとても贔屓にしていた。
この年の私の誕生日には父は彼女たちのデビューシングル『かわいい花』のドーナツ盤を買ってくれた。
私が初めて手にした自分のレコードである。
もちろん物凄く嬉しかった!!

初めての私所有のレコードはザ・ピーナッツのデビューシングル。
今でも大事に保管してある。

ダニー飯田とパラダイスキング
日劇ウェスタンカーニバル出身のバンドと言っていいだろう。
元々はハワイアンバンドだったが、ロックスタイルに変えて人気が高まった。
リードボーカルの石川進(後に俳優となる)がソロとして脱退するに当たり、当時バンドボーイだった阪本九がボーカルを努めるようになると大ブレイク。
『悲しき60才』『ビキニスタイルのお嬢さん』『素敵なタイミング』…
など次々と大ヒットを飛ばし、坂本九は後に国民的な歌手になってゆく。

坂本九が新ボーカルとなった頃のパラダイスキング。

後年森山加代子九重佑三子もボーカルで参入し、女性曲もカバー。ポップスアイドルの登竜門的バンドとなった。

アイドル時代の森山加代子
コメットさん以前、デビュー直後の九重佑三子

『スリーファンキーズ』
アイドルボーカルグループの草分け。番組では多くのプレスリー曲をカバーしていた様に記憶している。
3人揃ってボックスステップを踏みながら歌うスタイルは、当時とても斬新でティーンエイジャーのファンを大いに惹きつけた。
因みに当時渡辺プロにいたジャニー喜多川は彼らに触発されて、初代ジャニーズを結成プロデュースしたと言われている。

超アイドルだったスリー・ファンキーズ

伊藤素道とリリオ・リズム・エアーズ
アイドルではない。
私の親の世代と変わらないであろうおじさんのコーラスグループ。
番組ではザ・ピーナッツのバックコーラスや当時流行っていた映画主題歌のカバーなど、縁の下の力持ち的存在だったが、私は何故か物凄く好きで、強く心に残っている。
音楽的にベースメントがしっかりしていたからなのだろうか…

好き…というか尊敬していたコーラスグループ、リリオ・リズム・エアーズ

次に紹介する番組はザ・ヒットパレードの2年後から日本テレビで放送が開始された…
シャボン玉ホリデー
この番組は歌謡、コント、ギャグを交えた全く新しいタイプのバラエティー番組。
日曜日の18時半からの30分番組である。
かの青嶋幸男が構成作家として参加していた。
この番組の成立にも紆余曲折があり、日本テレビ、渡辺プロに加えて当時マスメディアの広告マーケットで頭角を顕した電通が三つ巴となって成立させた牛乳石鹸1社提供のストアプロモーション的番組。

シャボン玉ホリデー、エンディングシーン。
中央はハナ肇。

レギュラーメンバーは…
ザ・ピーナッツ、ハナ肇とクレイジー・キャッツ、青島幸男…
特にクレイジー・キャッツと青島幸男のギャグコントチームワークは当時としてはジャジーで洗練されたナンセンスギャグコントの数々を生み出し、テレビ創世記の大ヒット番組として定着することとなる。
もちろん、この番組からもジャニーズ、奥村チヨ、木の実ナナ、梓みちよ等…多くのポップスアイドルを生み出すこととなる。

夢であいましょう
こちらはNHKで放送されていた大人の歌謡バラエティー番組。
放送開始はシャボン玉ホリデーと同時期。
司会はファッションデザイナーの中嶋弘子。
番組はショートコントを交えながらゲストによる歌や演奏で展開されるバラエティー形式。

大人の雰囲気だった『夢で逢いましょう』

放送時間は夜10時からと遅く、子供が起きている時間帯ではなかったが、何故かある時期からは我が家ではこの放送がある日は子供にも視聴が許されていた。

この番組では終盤に『今月の歌』として毎月新曲が発表された。
担当していたのは構成作家でもあった永六輔とピアニストで作曲家の中村八大。
いわゆる六八コンビである。
ここで生まれたのが坂本九の大ヒット曲『上を向いて歩こう』。

世界的大ヒットとなり、アメリカでも『ヘイポーラ』の記録を塗り替えた『上を向いて歩こう』

他にもジェリー藤尾の『遠くへ行きたい』、
デューク・エイセスの『おさななじみ』、
梓みちよの『こんにちわ赤ちゃん』など、時代を代表する名曲の数々が生み出された。
ただ、私の心に強く刺さったのが丸谷明宏の『誰も』という1曲。
強烈だった!
不思議な不思議な高揚感と、丸山明宏という歌手の存在感に圧倒され、当分家の中で両手を高く上げるこの不思議な踊りを踊っていた。(ネットで見つけた動画を添付しておきます)
https://sp.nicovideo.jp/watch/sm16391937?ref=sp_video_watch_related_videos

森永スパークショー
昭和37年、世はツイストが席巻していた。

昭和37年はツイストブームが最も熱かった年…

当時『ツイスト男』とか『ツイストキング』と呼ばれ、突如一世を風靡したアイドル人気歌手・藤木孝を覚えている方がどの位いるだろうか?
ちょっとクドい雰囲気だが、2枚目でスタイルが良くダンスもキレがあったが、何故か何処か不思議な存在感だった印象があり、当時の私にとっては前述した丸山明宏に共通する何かを感じていた。

まさに一世を風靡した藤木孝

その藤木孝をフューチャーさせたフジテレビ、渡辺プロ共同制作の音楽番組。
新発売された森永のコーラ飲料『スパークコーラ』のプロモーション番組だった。

森永のスパークコーラ。ガラナエキス入り。

しかし、間も無く突如藤木は渡辺プロを離脱し、歌手も引退してしまう。
以降、伊東ゆかり、中尾ミエ、園まりの当時の三人娘にレギュラーがバトンタッチされたが、翌年に番組は終了。
スパークコーラも世に浸透することはなかった。

藤木孝はその後舞台を中心に俳優として復活。
多くの舞台・ドラマ・映画での名バイプレーヤーとして、独特の存在感を発揮した。
要するに只者ではなかった訳だ。

この時期、日本にはいよいよ『外タレ』、つまり外国人タレントがやって来始める。
日本人の生活レベルが日々向上し、消費が進み、レコードが十万枚単位で売れ始めたことを受け、海外プロモーターも日本の音楽市場に目を向け始めたのだ。
私の記憶に深く残っているのは…
トリオ・ロス・パンチョス
当時アメリカで流行していたメキシカンラテン音楽の3人組。
戦後来日した外タレ第1号である。
その後頻繁に来日しテレビでも番組ゲスト出演やコンサートが放送された。
ロス・パンチョスはメキシコ音楽だが、活動の拠点はニューヨーク。
その歌唱力、ハーモニー、ギター演奏のレベルの高さに驚愕し、『メキシコ人ってすごいな〜』と素直に感心したものである。

日本では外タレの草分けとして絶大な人気があったロス・パンチョス。
映像屋になってから幾度かメキシコに取材に行く機会があったが、各街を流れる本場のマリアッチを聴いても、当時の彼らの力量がいかに凄かったかが良く分かった。
ちなみにロス・パンチョスはメンバーを変えながら今でもアメリカで活動を続けている。

そして昭和35年、ついに本場の大物アーティストが来日した!
ハリー・ベラフォンテ』である。
当時発表した『バナナ・ボート』が世界中でミリオンセラーの大ヒット。
日本でもカバーバージョンが多くの歌手によって発表されていた。
日本のコンサートはテレビでも放送され、そのエンターテイメントの完成度の高さに日本中が魅了された。
父もこの産経ホールのコンサートを観に行き、当分の間興奮冷めやらぬ様子だった。

晩年父が買い直したハリー・ベラフォンテのLP盤。
日本では『バナナボート』は様々な歌手がカバーしたが、
最も注目されたのは浜村美智子のバージョンだった。

こうしてジャズビートから始まった私の幼年期から少年期の音楽体験は多くの楽曲によって音楽に親しむ下地が作られていった。
やがて、ビートルズが登場し、青春期に向けてブリティッシュロックやアメリカのロックの洗礼を受け、モータウンサウンドに魅了され、スライ&ファミリーストーンへ…

ビートルズが来日したのは昭和41年。
『これは絶対に見逃してはいけない…』と、何とかチケットを手に入れ、
中学校をサボって日本武道館に観に行った。
私個人の音楽史の中では重要なターニングポイントとなり、
以降は自分で演奏し歌う方向へと進むこととなる。

さらに、マイルス・デイビス、ハービー・ハンコックとの出会いで新たなジャズの世界へ…
昭和40年代には音楽まっしぐらの青春を味わうことになる。
その話はまたの機会に…

さて、次回はこの昭和30年代のこのテレビ創世記、心に残った数々のテレビ番組の話をしよう…






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