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父の残像 25

最終話・帰還のあとに…


頭が重い…身体がだるい…私はそう感じながら、見慣れた駅のコンコースで窓口の前に出来た列に並んでいた。
「もしもし?大丈夫ですか?どこか具合でもお悪いんじゃないですか?」私の後ろから聞き慣れない男の声がした。振り返ると眼鏡をかけたサラリーマン風の男性が心配そうに私を見ていた。
「ああ…いえ…」そこまで言いかけて、私は気を失ってしまった…


そこは白色の光に包まれた空間ではなく、地の底のように重い暗闇だった…

私はその暗闇からゆっくりと目覚めていった…

白い天井に白色のダウンライトが光っている…ここは…どこだろう…?
視界の右側から子供の顔が私を覗き込んだ。『あ、智治だ…トモだ…』

「ねえねえ、ママっ!パパが気が付いたよ!パパ、大丈夫?パパっ!」
「おう…トモか…」すぐにその隣から妻の由里が顔を出した。
「あなた、気が付いた?分かる?あたし達の事…分かる?」
「ああ…ここ…どこ?」
「ああ良かったあ!心配しちゃったわよ。ちょっと待って…ほら、トモ、そこどきなさい」由里の手が私の頭上の方に伸びる…私はベッドの上に寝ているようだ…

「はい、どうされました?」部屋のどこかのスピーカーから女性の声がする。どうやらここは病院の病室のようだ。
「あの…主人が目を覚ましました。気が付いたみたいです」
「分かりました。先生呼びますから…すぐ伺います」

「ここ…病院?」
「そうよお、あなた駅で倒れて、救急車で運ばれたのよ。全然覚えてないの?」
「ああ…そうか…帰りに新幹線の切符、買おうと思って、窓口の前に並んで…」
「びっくりしたわよお、電話が掛かってきて病院に運ばれたって言うからさあ…で、病院に駆け付けたら、脳挫傷で意識がないっていうじゃない。あなた、どっかで頭打ったの?」
「ああ…自転車で転んで…」
「自転車っ?何それ?…どこで自転車なんて乗ったのよ?」
「あ、いや…それは子供の時の事だった…ごめん、ちょっとまだ頭がぼうっとしてて…」
「いいわよ、あとでゆっくり思い出せば…あー、でも良かったあ!何かあったら、どうしようかと思っちゃったわよ」

医者と看護師がベッドサイドにやってきた…
「気が付かれましたか…」
「ええ、ちゃんと私たちの事も分かるようです。良かった…」
「そうですか…川瀬さん?分かりますか?ここがどこだか分かりますか?」
「病院…のようですね…」
「ここはね、広尾の都立病院ですよ。駅で倒れられて、救急車でここに運ばれました。何か覚えてますか?」
「いえ、駅にいたことまでしか…」
「大丈夫。意識ははっきりしていますね。お話もしっかりしてますから…」
「良かったあ!」嬉しそうな智治の声が聞こえた…


私は帰ってきたのだ。脳挫傷は37年前の私が負ったものだ。私はその病巣を抱えてこの時代に戻ってきた。子供の私から切除された病巣はそのまま私の身体に宿った…

幸い出血はなく、意識は一日で戻った。脳内の浮腫は点滴による投薬で治まっていったが、右側の腰から下に軽い麻痺が残った。もちろん熊本への家族旅行はお流れとなった。スタッフと連絡を取って、仕事は退院後も暫くは大事を取って休む事にした。

私がここに戻って、数日後、古くからの友人2人が見舞に病室を訪れた。
50才のヤスオと真弓夫婦だった…

「コウちゃん…ようやく帰ってきたな…な?そうなんだろ?」
「ああ…ただいま……」
「やっぱり…思った通りだ…な?言った通りだろ?」そう言いながら、ヤスオは真弓を見てにっこり笑った。
「お帰りなさい。大人の川瀬くん…」

ヤスオと真弓の話では、あの日、父の病院から戻ってから、私は『私』との交流の記憶を一切無くしてしまったということだった。2人が何度その話を持ち出そうとしても、私には何の事なのか全く分からなかったらしい。2人はいずれこの日が来る事を信じて、37年間、『私』の事は2人だけの秘密にし続けていてくれたのだった。

私は、あの日起こった事を2人に説明した。私が切除した脳の病巣には、子供の私の記憶の一部が含まれていたようだ。

「でもコウちゃん…お前、俺たちが夫婦になるなんて一言も言ってくれなかったじゃねえか。これも歴史が変わったってことなの?」
「いや…知ってたよ。でも、子供の君たちにそんなこと言える訳ないじゃない」
「あたしは、分かったわよ。ヤスオと付き合い始めた時…あ、ヤスオときっと結婚するんだって…もしヤスオと結婚するんだったら、大人の川瀬くんが言ってたあたしたちの未来の事が、全部ぴったり当てはまるんだもん…」

卒業アルバムの写真には私の姿は消えたままだったし、父の命日も7月30日に書き変わっていた。たった1日だが、父の寿命を延ばすことが出来たようだった。

「コウちゃん、退院したらさ、うちに来いよ。魚雷戦ゲームやろうぜ。俺、コウちゃんが帰ってきたら一緒にやろうと思って、ちゃんととってあるから」
「分かった。絶対に行く」
「3人でモノポリもやろうね。川瀬くんがいなかったら川瀬くんはいなかったんだから、お祝いしようよ」
「そうだね…楽しみにしてるよ…」


入院中に兄の克夫も見舞に来た。克夫は父が亡くなる前に兄に書いた手紙を持って来ていた。

「お父さんからこの手紙を渡された時にね、コウちゃんにはコウちゃんが50才になってから見せてあげてくれって言われたんだ。なんで50才なのかって訊いたら、それは50才になったコウちゃんから訊いてくれって…だから今まで見せなかったんだ。今考えてもこれ、本当に不思議な手紙なんだよな」兄が見せてくれた手紙には、父の持ち株を売るタイミング、そこで得た利益で次にどんな銘柄を購入すればいいかが克明に記されていた。さらに父の土地を分割して売るタイミングとそこで得た現金を何に投資すればいいかも詳細に書かれていた。

「な?お父さんが死んだのって72年だよ。何でこんなことが分かるんだろうって…それも、百発百中なんだよね。それと、50才のコウちゃんと、一体どんな関係があるのか、ずっと知りたくって、お前が50才になるの、楽しみに待ってたんだ。おっとそうだ、それからこれも渡さなきゃ…お前宛の手紙…ずっと開けないでとっといたからな…」兄はそう言うと少し黄ばんだ封筒を手渡した。封筒は未開封のままだった。表の端に小さく鉛筆で『康治 2009年8月〜』と書き記されていた。

封を切ると、中に手紙が畳まれていた。手紙を開き、読んだ…
『拝啓、大人のこうちゃん…
君はまだ子供なので、この手紙は三七年後に君の手元に届くように克ちゃんに託します。
もしも万が一、それ以前にこの手紙を読むようなことがあっても、君が五十歳になってから、もう一度読み返して下さい。この手紙の内容がよく分かるはずです。

君が教えてくれた通り、私はもうすぐ逝くことになりそうです。
今思い返せば、大人の君ともっと沢山話をしたかったと思いますが、君も時々しか現われてくれなかったし、あまり贅沢は言えないね。
君が立派に大人になっていること、仕事を持ち、家族を養って、お母さんの面倒までみてくれていることを事前に知っておくことが出来て、とても安心した気持ちで最期を迎えられます。
君が私にくれた貴重な未来の情報のお陰で、良い仕事を沢山やり遂げることが出来ました。本当に感謝しています。
この先、君たちやお母さんが困らないように、今後のことは君の情報をもとに色々考えて克ちゃんに託しておくことにします。どうやらそれも上手くいくようですね。
思い返すと、もしかしたら君はこの状況を与えてくれるために、やってきたように思います。今は、神様がくれた大きなプレゼントのように思えます。

ここ最近君はなかなか現われてくれませんでしたが、今日は久しぶりに話ができて良かった。もしかしたら、これで君は未来に戻ったのかも知れないと感じています。

もしもまた、この時代に戻ってくることがあるのなら、子供のこうちゃんや克ちゃん、お母さんのこと、宜しくお願いします。
君は今、私の病室の椅子で気持ち良さそうに眠っています。どんな大人になったのか、その姿を見る事が出来ないのは残念ですが、この先も楽しい人生を歩んで欲しいと願うばかりです。まあ、私よりは長生きのようですが…
最後に、私の人生のフィナーレを充実したものにしてくれた君に、心からお礼を言いたい。
こうちゃん、本当に、本当に、ありがとう。    健造 拝

追伸、こうちゃんへの誕生日プレゼントをミジンコに頼んでおきました。上手く届いてくれること、願っています』

病室で最後に会った父の笑顔…その姿が脳裏に蘇った…目頭が熱くなり、涙で手紙に書かれた弱々しい父の文字がさらに歪んで見えた。

「その手紙…どんなことが書いてあった?」私の様子をじっと見ていた兄が訊ねた。
「カッちゃんが知りたかったことが書いてある…いいよ、読んで…」
「いいの?」
「うん…」私は兄に手紙を渡した…


退院の2日後、自宅に来客があった。

「あなたにお客様よ」由里が玄関から私を呼んだ。玄関に出向くと、小さな老人が満面の笑顔で立っていた。

「やあ、こうちゃん…久し振り…もうすっかり、おっさんなんだな」その優しそうでどこか悪戯っぽい笑顔には確かに見覚えがあった。
「ミジンコのおじさん?…」父の学生時代からの親友だった三橋さんだ…

「大当たりだ。どうだ、年取ったろう?ますます小さくなっちゃったよ、ははは…これがないと、もう歩くのもきつくてな」と手に持ったステッキを持ち上げて見せた。
「この間奥さんに電話したらさ、こうちゃん入院してるっていうから…もっと早く来たかったんだけど、ま、退院してからにしようと思ってね…で、今日はいるっていうからさ、来てみたんだけど…こうちゃん、身体は大丈夫?」
「あ、ええ…あの…誰が、僕がいるって?」
「え、奥さんだよ。奥さん…君のじゃないよ、健ちゃんの奥さん。俺ほら、前の電話番号しか知らねえからさ…奥さんの方に掛かっちゃうんだよな」

「ねえ…上がって頂いたら?」
「あ、そうだった。おじさん、こんなところでごめん…上がってよ。懐かしいなあ…」
「さ、どうぞどうぞ…」
「そうさせて貰うよ。そのつもりで来たんだから…あ、奥さん、お酒はいいよ。医者から止められてるんだから…でも、どうしてもって言うんなら、ちょっとなら頂いてもいいかな…あははは…」
「相変わらずだなあ、おじさん…こんな時間からお酒なんて出さないよ」
「何言ってんだ、昼飲んだって夜飲んだって酒は酒だ。何十年ぶりに来たんだから、ちょっとくらい飲ませてくれたっていいじゃねえか。おいヒロ、お邪魔するぞ」
ドアの後からひょろりとした高校生くらいの青年が顔を出した。大きなギターケースを抱えていた。
「どうも…」

「これ、弘(ひろし)くん。俺の孫。こうちゃんに届けもんがあるからさ、でかくて重いんだ、これが…で、こいつに小遣いやって頼んだんだよ。ほら、入れ入れ。ちゃんと挨拶するんだぞ」

リビングに2人を招き入れ、家族を紹介する…
「なんだよ…子供のころのこうちゃんにそっくりじゃねえか…そう言えば、こうちゃん、健ちゃんに似てきたな…」三橋さんは私と息子の智治を見比べて言った。
「おじさんは、いくつになったの?」
「俺か?俺は、君のお父さんと同い年だ。今年87だ。健ちゃんが早死にしたからな、俺は百まで生きてやるんだ」
「そうか…お父さんがもし生きてたら、87才になるんだ…年取ったお父さんも見てみたかったなあ…」
「ま、見られてあんまり気持のいいもんじゃねえけどな。そうだ、おいヒロ、それこちらに渡して…」
「あ、うん…あの、これ、どうぞ…」横に控えていた孫の弘くんが、抱えていたギターケースを私に差し出した。
「なに?これ?」
「健ちゃんからの預かりもんだよ。2009年の8月になったら、こうちゃんに渡してくれってさ…ずっと大事に預かっといたんだぜえ。ほら、開けてみなよ」

渡されたギターケースを開いてみると…中から、あの懐かしい父のピックギター、ギブソンL4が姿を現した…
「健ちゃんが死ぬ前にさ、病院に呼び出されてね、あいつ変な事言うんだよな。俺のピックギターをこうちゃんにあげたって。だけどあれはその内に壊れちゃうから、そっくりおんなじの探しといてくれってさ、無茶言うんだよな。家にまで見に行かされてさ…で、周りには誰にも絶対言うなって口止めされて…だけど、37年後に渡せって言われてもさ、そんな先のこと、こうちゃんがどこにいるかだって分からねえだろ?そしたらさ、大丈夫だって、家内とここに住んでるからって、まるで見てきたみたいに言うんだよ。俺がその前に死んじゃったらどうするんだって訊いたら、お前は馬鹿だから長生きだろうって…まあ、確かにその通りだったんだけどさ、何だろうね、あれ…死ぬ前に神がかっちゃったのかね?それで、今日来たって訳よ。ああ…ようやく渡せた!これ、あの当時だって高かったんだよ。ま、金は健ちゃんから貰っといたけどな…本当に健ちゃんのギター、壊れちゃったの?」
「ええ…もう20年以上前ですけど…ちょっと触っていいですか?」
「いいも何も、これ、こうちゃんのだから…しかし…何で2009年なんだろうねえ?」
「さあ……」
「ま、あいつの最後の頼みだから、ちゃんと言われた通りにやってやったけどさ…全く…迷惑な遺言だよ…本当…」

父の手紙の最後の追伸はこの事だったのだ。ギターを手に取ってみた…
三橋さんは今日までの37年間、ずっと手入れをしてくれていた様だった。
弦はきちんとチューニングされていた。父のギターと全く同じ感触だった。懐かしい音色が響いた…

私は父が好きだったあの『We’ll be togaether again』を弾き始めた…
父の代わりに三橋さんが歌い始める…

No tears, no fears…
Remember there's always tomorrow…
So what if we have to part…
We'll be together again…

                                  [了]


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